第一幕・見送り
敬礼する軍人二人を残して汽車はホームから出て行く。特別車輌の窓際で返礼したのは軍中央・軍法会議部所属の中佐、見送ったのは東部配属の中尉と少尉。そこに居るべき責任者はおらず、その無礼を中尉は出発前に詫びたが。
「いや。俺こそ昨夜は悪かったな、中尉。酔ってた。勘弁してくれ」
気軽に笑って中佐が乗り込んだ、列車はみるみる離れていく。カタタン、カタタン、車輪を線路に軋ませて。
「……いつまでそうしているつもり?」
適当な時間をおいて右手を下ろした中尉は姿勢を変えない少尉に声を掛けた。普段はぼさぼさの髪を珍しく整えて軍帽を被り、ピッと背中を伸ばした姿は普段より七割増の色男で、まともな軍人に見える。そうしていると案外、整った造作をしていることに中尉は気がついた。唇の端に煙草はなく、代わりに笑みが刻まれて。
帽子のつばに阻まれて全体の表情は見えない。
「俺、いい男ですよね」
「いいかげんにしなさい」
促され、若い少尉は敬礼の手を降ろす。長い指を包む純白の手袋はおろしたて。ホームから離れる中尉の背中を追って歩き出しながら、未練がましく振り向いた。汽車はもう見えない。
「ねぇ中尉。俺、いい男ですよね」
「そうね。そうしていれば、並よりは」
「あれよりいい男ですよね」
「中佐のこと?」
「俺の方が若いし」
「歳はあなたが七つ若い。背丈はほぼ同じ。階級差は五つ向こうが上。収入は、あちらには憲兵手当てがついてざっとあなたの八倍」
「軍人の給料って、累進率高過ぎッスよね」
「あちらは中央士官学校第二十七期卒業生の主席、あなたは東部士官養成学校の……、卒業席次は?」
「真ん中くらいッした」
「どのへんで勝てると思っているの」
「家族手当を貰ってないトコあたりで」
「そう」
「昨夜、ナンかあったんですか?セクハラされました?」
「いいえ。待機中に大佐に呼ばれただけ。行った店で中佐が酔って、大佐に絡んでいたわ」
「仕事で来てんのに、いいご身分で」
「無駄足を踏ませてしまったのは私たちよ。あの傷の男の足取りはまだ掴めない」
「そうそう、昨日、射撃、素晴らしい腕前でした。昨夜、大佐も褒めてましたよ、帰ってから」
軍用車輌に乗り込む。運転手はおらず、少尉が運転席に座ってハンドルを握った。中尉は後部座席でなく助手席へ。
「俺はその前の蹴りがお見事と思いましたけど」
ジープではない。本来はロイ・ムスタング大佐の防弾の公用車だ。だから後部座席には二人とも座らない。昨夜から今朝にかけては中央からの来客を送ることに使われている車。
「……昨夜のこと、聞きたいッすか?」
「あなたが話すなら止めはしません」
「酔っ払いが大佐に支えられて中尉の運転で、官舎に帰って来た時、俺、中に居たんスよ、気付いてました?」
「中から声がすれば嫌でも」
「びっくりしてましたよ、あいつ」
「でしょうね」
酔っ払っいは彼らの上司に絡んでいた。階級は一つ上だが、引き取りに来させた錬金術師を傷の男に殺害され無駄足を踏ませた弱みがあるせいで、上司は嫌々、酒に付き合っていた。酔っ払いは絡みつつ上機嫌で、自分たちが若かった頃の話を繰り返した。士官学校の二人の卒業年度は同じ。ただし、彼らの上司は二つ飛び級しての入学だったから、卒業は十六歳。
在学時代は、仲が良かったらしい。今も悪くはない。
お前の部屋で今夜は寝るぞと、言いながら肩を抱いて車から降りて来た中佐。寝せてやるからとっとと歩けと、酔っ払いにうんざりした表情で上司は言って玄関を開けた。玄関の内側には主人の帰宅を待っていた大型犬が居て、主人が来客を奥に寝かせるのを手伝った。
「あいつを大佐の部屋に放り込んで、大佐は俺の部屋で寝ました」
「そう」
「中尉、俺のこと褒めてくださいよ」
「大佐を今朝、起こしてくれたら満点だったけど」
「俺の方がいい男だと思いませんか、あいつより」
「わたしはコメントする立場にないわ」
二人の間に立っているのは射撃に優れた茶色い目の中尉ではなく。
「さよなら言いたかったなぁ」
若い男は軍帽の下でまた、普段とは違う種類の笑みを漏らす。
「奥様とお嬢様によろしくって、言いたかったですよ」
その隙を、中尉は与えなかったけれど。
「そこまでしたら、逆効果よ」
ほんの少し、少しだけ、かすかにだけど中尉は微笑んだ。珍しい笑顔。本当は彼女も、中央からの賓客を快く思っておらず、若い少尉の報復をでかしたと、喜んでいるのが伝わる。
「相手は海千山千だもの。こちらが敵意を見せれば自分に牙があることを思い出させてしまう。あんなに大人しいあの男を、初めて見たわ」
「中尉は以前からご存知ですよね、ヒューズ中佐のこと」
「私はここでいいわ」
軍司令部の前で車を止めさせて、中尉は降り立つ。
「あなたは大佐を起こして、連れて来て下さい。午後からは必ず、出勤していただくように」
「努力します」
答えて車を出しながら若い少尉は軍帽をとった。ついでに胸のポケットから煙草を取り出して火をつける。空は明るく晴れて昨日までの、鬱々とした天気が嘘のよう。嬉しそうに目を細めながら若い少尉は外界を眺めていた。
馴れた車を慣れた車庫におさめ、警備システムに指を押し付け指紋照合で、少尉は上司の官舎に戻ってきた。東方指令部の最高責任者は高齢の将軍で、実務上の実権は大佐の掌の中。当然、身辺の警備は厳しくて、官舎にも常に宿直の護衛が配置されている。
当番兵が泊り込む為の宿直室で。
「大佐、御目覚めですか?」
官舎の主は、まだ眠っていた。ロングサイズのベッドの中、柔らかなタオルケットを体に巻きつけて。
「そろそろ起きてください。ホークアイ中尉に怒られますよ」
この人がただ一人だけ、憚る相手の名前を出してみたが。
「……」
返事は低い呻き声。うるさい、とか何とか言ったようだった。よく聞こえなかったが。
「起きないとまた襲いますよ」
言いながらベッドの上に、覆い被さるように屈んだ。寝台に膝を置くと硬めのマットレスが沈んで、腕をまわすとタオルケットごしの肢体は素直に、男の腕に添った。
持ち主の意思でなく、昨夜の夢がまだ醒めていないのかもしれない。それとも疲れ果てて、抗うのが面倒なだけか。
「見送ってきましたよ、あいつ」
柔らかな黒髪を唇で分けて、形のいい耳元に囁く。びくりと、そこで初めて、弛緩しきっていたカラダに緊張が戻った。
「列車で帰っていきました。軍中央に」
奥方のところにと言いたかったが遠慮して、曖昧な報告。
黒髪の上司は暫く、何かを考えていたが。
「……ご苦労……」
答えてようやく、まともな声を出す。語尾は少し掠れていたが弱くはない。
「何か言っていたか」
「いいえ、特には。中尉には、昨夜の無礼を謝ってましたが」
「そうか」
瞬き、起き上がろうとしたから、若い少尉は仕方なく上司の上から退いた。上体を起こしてシーツに手をついて、まだ覚醒が完全ではないらしくじっとしている。若い男は、今度は背中から支える位置で、抱き締めて。
「気持ちよかったですか?」
体温を守るように肩を抱く。大佐の上半身は裸だった。腰から下はタオルケットに隠れているが、そこも、多分。
「最悪だ」
前髪を乱して、婀娜な風情で身心の覚醒を待つ、大佐は背後の男に吐き捨てた。
「今度あんなセックスをしてみろ。もうお前とは寝ないからな」
「あんたが」
若い男は呼び方を変えた。
「他のヤツに、抱かれて戻らない限りはしませんよ、二度と」
「何時何処で私が誰に」
「昨夜、ここに、ヒューズ中佐に抱きつかれて戻ってきた」
「酔っ払いを支えていただけだ」
「あんたのベッドにあいつを寝かせましたね」
「寝るというんだから仕方ないだろう」
「気持ちよかったでしょう」
「最悪だと言ってる。いいか、俺は」
上司の方も、一人称を変えて。
「ベッドで嘘はつかない。駈引きは面倒だ。イイのにイヤだとかは言わない。俺が止めろと言ったら止めろ。嫌だと言ったらするな。出来ないなら、お前とはこれっきりだ」
「気持ちよかったくせに」
「消し炭になってみたいようだな」
「あいつの前で俺を撫でて、あいつに失望させたの、気持ちよかったでしょう?」
「……」
嘘をつかない、というのは本当らしい。イヤだった、とは上司は言わなかった。背後から伸ばされた手に顎を持ち上げられるまま、唇を重ねて目を閉じる。目蓋の裏には男の顔があった。長い付き合いだが、昨夜はじめて、あんな顔を見た。
落胆と困惑と失望の混じった情けない表情。眼鏡の奥の鋭い瞳は一瞬、本物の憎しみを篭めて自分をにらみつけた。あんなに真剣に、見詰められたは初めてだった気がする。
「俺、いい子だったでしょう?昨夜」
お前の部屋で寝ると、中央から来た中佐は何度も繰り返していた。それはお前と寝ると言っているのに等しい。この野郎メと思いながら、若い少尉は従順に振舞った。言われるままにドアを開け、奥の寝室の仕切りを開けた。累進待遇のひどい軍隊で、大佐という階級は貴族に等しい。特にこんな地方には佐官自体が珍しく、東方司令部bQの男の生活は王者の風格さえ備えている。
官舎という言葉には不似合いな、天蓋つきの柔らかいベッド。
大佐に支えられた酔っ払いはシーツに大の字で倒れ、服のボタンを外して楽にしてやる大佐を実に、満足そうに眺めて。
お前も脱がせてやると言いながら引き寄せようとした、時。
大佐が脱がせた中佐の着衣を、床から拾って畳んでいた若い男が、不意に手を出して。
酔った中佐の手の届く範囲から婀娜な上司を引き剥がす。
それまで中佐は若い男に無関心だった。殆ど眼中になかった。護衛や従僕がつくのが当然の日常で、自然と無視する習慣が士官にはついている。片付けが終わったら出て行く使用人だと思っていたのだが。
若い男は中佐に視線は向けなかった。が、無造作に大佐のことは腕を掴んでそのまま引き摺っていった。大佐は逆らわず、待てとかなんとか言いながらそれでも、部屋を出て行こうとする。
その態度で事情を察したらしい中佐が顔を歪める。一瞬だったが、確かに裸の感情が表情を覆った。嫌悪に近い敵意。
『飼い犬か?パッとしねぇな』
引かれて離れた相手を追おうとはしなかったが、代わりに憎まれ口をきく。なんと吠えても今夜は天井が高い部屋の広いベッドで、一人寝することになるのはその時点で、明晰な男には分かっていた。
『そうか?』
大佐は落ち着き払っていた。最初から落ち着いていたのは、官舎に戻れば大きな飼い犬が自分を待っていることを知っていたから。
『けっこう、可愛いところもあるんだぜ』
あっさり答えておやすみと、一言。二人の会話を、可愛いところのある大型犬はじっと聞いていて。
可愛いだけじゃないことを証明するように、その後で荒れた。疲労で大佐は翌朝に目を覚まさず、客人を見送ることも出来なかった。