見送り・3
一人になってもう一度、敷布にカラダを伸ばした大佐はぼんやり、天井を眺めた。見慣れた木目だった。あの可愛いのを自分の部屋で寝せたことはなかったが、こっちの部屋には数え切れないほど泊まっている。
「みんなそう言う」
ひどい奴だと、同期の連中には何人にも、何回も言われた。どうして教えなかったのか、と。言うかよ、馬鹿めと、それが正直な感想。ただでさえ、国家錬金術師の軍人を養成する必要があって、無理な飛び級で入学した士官学校の、どいつもこいつもでかくて怖かった。
「だました、って、そういうものじゃない」
あれは自衛策。身を守るための擬態。なのにどうして、ひどいと責められるのか分からない。俺たちを信じていなかったのかと、何度も。
……他人なんて、信じるものじゃないだろう。
信じる者はバカをみる乱世の軍隊で、それに相応しい身の処し方をしただけ。なのに酷い裏切り者みたいに言われるのは不思議だった。自分が未来の国家錬金術師であることをもし知っていたら、さぞ風当たりが強かっただろう連中に限って、沈黙を糾弾する声は大きく。
何も言わなかった奴も居た。
一言のコメントもなかった。少佐に任官されて初めて会ったとき、魔方陣を描いた白手袋を、ちらりと眺められた気はする。でもそれだけで、当時まだ大尉だったあいつは、姿勢を正してキチンと敬礼した。返礼してすれ違った。佐官以上が呼ばれた作戦会議に向かう途中だったから。
そこで終わった。何もかも。あいつはその後も親切ではあったが、それはきっと、見栄だと思っていた。階級を抜かれていきなり態度を変えるのは、奴の自尊心が許さなかったのだろう、と。
昨日まではそうだった。自分の娘を実験体にして、キメラを造り上げた外道の錬金術師を引き取りに来らせて、傷の男を包囲して逃げられて。そこまではいつも通りだったのに。
何故、いきなりあんな態度をとったんだろう。
昨夜、無理に付き合わされた酒場。
酔ったあの男は昔話をしつこく繰り返した。士官学校の入学式、行事ごとの騒動、教官の噂話。あまり愉快な話題ではなかった。それらの時間の裏ではいつも、この相手との情事があったから。
思い出したくなかった。何故かというと、やはり形の上とはいえ、自分の方が『飽きられた』形で終わったからだ。潮時だったし、庇護の必要もなくなっていたし、愛情があった訳でもなかったのだから、自然消滅は望むところだったのに、それでも何故か、あれが結婚した時は嫌な気分になった。挙式には招かれなかった。
愛していた訳ではない。愛し合った覚えなど一度もない。あれは遊び。遊び相手にでも、切り棄てられれば自尊心は疼く。何も言わないあっちの狡猾が、余計に気に障っていた。
同じ話を何度も繰り返し、酔って絡んでくる男にいい加減、付き合いきれなくなって中座してリザを呼び出した。中尉を名指しした理由は彼女が女だから。男は悲惨な生き物で、女の前では精一杯の虚勢を張る。それが老婆でも幼女でも醜態は見られたくない。酔っ払いを正気にさせるには、女に侮蔑の視線を向けさせるのが一番いい。若い美人なら尚更効果的で、射撃のうまい中尉はうってつけだった。
まだ飲むと喚いていた男は、お迎えに上がりましたと敬礼する中尉に虚をつかれ、しぶしぶ車に乗り込んだ。足もとが危なかったから支えて歩かせた。あの男があんな風に、酔っ払うのを見たのは初めてだった。いつも、本当のところでは、隙を一度も、見せない男だった。
公用車の後部座席に押し込んで手前に、座った途端、伸びてきた腕を振り払う。来賓のための宿舎に向かってくれと、運転席に座った中尉に告げた途端。
『……、お前の部屋に行く』
男が言った。寝言は寝てからいえと口走りながら隣を見た、瞬間。
口を噤むのは自分の方だった。隣の男は酔った目をしていなかった。ごく真剣で、真摯でさえあって。酔っ払った勢いに助けられてはいたが正気だった。
『お前のベッドで寝かせろ』
言われた意味を正確に察して、怯んだ隙に抱き寄せられる。混乱しながら腕の中に抱かれて、馴染んだ感覚が蘇る。最後にこれの腕に入ったのは、もう六年以上も前なのに、体温は即座に馴染みあった。頬に当る肩の、鎖骨の形まで生々しく、俺は覚えていた。
『……、ロイ』
抱き締めながら、肩に押し付けた俺の、髪を撫でて来る指の動きも、耳元に寄せられた唇から、うなじを掠める息も、何もかも、呪わしいほど、記憶と同じで。
『お前の部屋で寝たい』
それを言いたくて、あんなに飲んでいたのか。
昔話を繰り返して、いたのか。
笑い出したくなった。格好つけていても、男のやる事は古今東西、変り映えがない。昔の相手に、俺に今更の興味を抱いて、それでまた、手を伸ばすつもりか。書斎の棚の奥から、肩に埃を被った古い酒瓶を取り出すみたいに?
『……』
それきり男は何も言わなかった。俺がじっと大人しく、動かないのを承知と受け取ったのか、抱き締める腕に力を増してくる。目を閉じて、その感触を受け入れた。貪ったかもしれない。懐かしかった、それは確かだ。終わった筈だが、忘れてはいなかった。
車のエンジンがかかる。振動に、キスされる寸前だった俺が身じろぐと、男の片手が俺から外れて仕切りのカーテンを、シャッと素早く閉めた。別にそういうつもりじゃなかったが、中尉にはまぁ、見られたくはなかったから止めなかった。
昔の、相手との、六年ぶりのくちづけ。
『……、忘れたか……?』
何度か重ねながら位置を探る。皮のシートに倒される、俺の楽な姿勢を。耳元に囁かれる言葉の語尾は昔どおりに甘い。
俺は忘れていなかった。強壮な隙のない男が、情事の時だけ柔らかく優しくなる、落差の面白さ。
『……、俺は……』
忘れていない、と囁く声音の甘さに笑った。嘘もここまで白々しいとかえって愛嬌がある。背中を震わせて笑いをかみ殺す俺を、男はどう誤解したんだか、嬉しそうに撫でながら、しつこくキスを繰り返し。
『おい』
いきなり凄んだ声を出す。それは、俺に向けられたものではなかった。
『なに、愚図愚図してる。車を出せ』
運転席のシート、リザが座ったそれを、蹴り付けて。
『こいつの部屋だ』
命令口調だった。俺は一気に、気分が醒めた。俺に言われた言葉じゃなかったが、俺の部下に言うにしちゃ礼儀知らずの、乱暴な口のききかた。俺は不愉快でたまらなかった。自分が言われるより。
それは、多分、リザだったからだろう。他の部下になら、この男が何を言おうがあそこまで、気持ちの木目は逆立たなかったと思う。リザは女だった。そうしてこの男が実は、『オンナ』に乱暴で傲慢で、嫌なところがたくさんあったのを、俺は思い出した。
甘いばかりの相手なら、俺だって。
資格取得の瞬間まで底意地悪く、黙り通しはしなかった。
あれは復讐。俺を散々、舐めていたこの男への。こいつの態度はいつでもこうだった。俺はこいつを、そういえぱ大嫌いだった。
『どうした?』
シートの上で起き上がり、まじまじと見詰める俺に、男は曖昧に笑いかける。目尻が下がって柔和な表情になってる。俺を抱きたい時だけの、嘘の優しさだ。
俺は唇の端で笑った。笑いながら、男の眼鏡に手を伸ばす。さっきからそれがあちこち、当って痛かった。あぁ、と苦笑しながら、男はそれを自分から外した。
『……、悪かったな』
奥方とも、眼鏡をはめたまま口づけをしているのか、と。
言わなかった時点で、俺は俺を、ずいぶん思いやりがあると思う。
そのままシートの上で抱き合ってた。繰り返される口づけと、カラダを撫でていく掌を味わった。俺がくすくす、また笑い出したのを聞いて、リザが車のギアを入れる。ゆっくり、それは動き出す。高官送迎用の防弾車、後部座席の窓には目隠しのシールが張ってあって、外から中は見えないよう工夫されている。狙撃防止の処置だが、こういう時も便利だ。
『……、な……、』
囁かれる言葉も着衣ごしの愛撫も懐かしかった。男の中身は大嫌いだったが、セックス自体はそうでもなかった。襟のボタンを外されかけた時、かぶりを振って拒むと物分りよく諦めた。長い夜のあいだじゅう、言うことをきかせるつもりのオンナを、懐柔するために男が最初だけ、情熱的に与える優しさを俺は、思う存分、味わった。その努力が今夜、報われないことを知らない男は熱心に、本当に熱心に、随分長く、俺を撫で続けた。
「……、大佐、もう寝ないで下さいよ。午後には行かないと中尉に殺されますよ」
ぼんやり、回想の甘さに浸っていた俺は、コーヒーの香りとともに訪れた現実に意識を引き戻す。戻しても機嫌は上々だった。俺はひどい真似をしただろうか。したかもしれない。だが気持ちがいい。
「どうぞ」
差し出される、カップにたっぷりのぬるめのコーヒー。最初に煎れてくれた時はミルクも温められていて、熱すぎて口がつけられなかった。二度目からは冷たいままので割ってくるから、俺の舌には丁度いい。
「中尉の」
「はい」
「機嫌はどうだった?」
「悪くなかったですよ」
「そうか」
昨夜のことで、気を悪くしていないからよかった。
「あいつは」
一番奥の、俺の寝室とは違う、従僕用の天井の低い部屋。でもこっちが落ち着く。硬いマットの上に起き上がり、膝を立てた行儀の悪い姿勢で飲む朝のコーヒーが美味い。いつかは俺も、天蓋つきのベッドじゃないとセックスが盛り上がらない『貴族』になれるだろうか。あまり自信はない。
「朝飯を食って帰ったか?」
「食べていきましたよ。ってぇか、俺が作ったんですけどね」
「何かお前に言ったか」
「いいえ。黙り込んでました」
その様子を、見たかったものだ。
「……中尉には、礼を言わなければ……」
独り言めいて呟く。本当に、昨夜はお蔭で助かった。あの男のあの態度で正気に戻った。あんな男を愛してはいなかった。ただ、体が記憶を蘇らせて、あいつのセックスを懐かしがって、俺はあやうく口走るところだった。
俺の部屋はマズイ、と。
「俺には?ご褒美は?」
若い男は一緒に煎れてきた、自分コーヒーの湯気を吹きながら尋ねる。
「まだ欲しいのか。なにがいい」
昨夜から、あの男を、散々に虚仮にすることに成功して、俺は随分、上機嫌だった。
「あんたのベッドで眠ってみたいっスね」
「今夜は戻れないぞ」
多分、午後からは激務が始まるのだ。でなければリザが、午後までの休息をくれる筈がない。
「構いませんよ。匂い、消しときたいだけです」
「シーツはもうすぐ替えられる筈だが」
尉官の護衛とは違う、雑用のための軍属の従僕が、俺にはつけられている。俺が司令部に出勤した後で清掃が行われる。
「気配が残るじゃないッスか」
俺の可愛い飼い犬はまだ不機嫌だ。車を降りる前に髪は整えたし、服は乱れていなかった筈なのに、シートの上で俺があいつに身体を遊ばせたのに敏感に気付いて、昨日は荒れた、従順だけど猛犬。
「好きなようにしろ。……腹が減った」
「イエッサー。ここで食べますか?食堂に出ます?」
「台所でいい。シャワーを浴びて、行く」
「お待ちしてます」
この部屋の続きの、狭い浴室で浴びた。俺の風呂はだだっ広くて大理石で、冷えた空気が温まるのに時間がかかる。シャワーだけざっと浴びたい時は、湯気が逃げないからこっちの浴室が便利だ。
洗面所の姿見で全身を確認する。跡が幾つか残っていたが、全部軍服の下に隠れる場所ばかりで問題はない。ついでに顔を洗う。手に当った奴のタオルでごしごし、拭ってもう一度、鏡を見た。
俺がいい男なのは生まれた時からだ。あいつと会った最初から。六年間の沈黙と昨夜の豹変が、やっぱり俺にはどうしても不思議だった。なんでいきなり、あんなことを言い出した?
「パン、何枚焼きますかー?」
台所から声がする。
「三枚」
空腹と食欲を感じながら答える。ついでに、自分自身の疑問にも。
原因はあれだろう。他には心当たりがない。六年前にあいつと寝なくなって、それから俺は随分と長いあいだ独りでいた。女性には遊んでもらったが、それはあの男との関係とは無関係だ。
匂いが、したんだろう。
きっと俺からそういう匂いがしたのだ。『男』と一緒に、寝ている気配。大型犬とベッドに入るようになって半年。オスはそういうのに鼻がきくから、俺の情事の匂いに刺激されて味を思い出して、手を伸ばしてみたのだろう。
今更その手を捻り上げたところで、何が変わるわけでもなかったが。
「おめかし後にしてメシ喰いましょーよ、腹減った」
洗面所を覗きに来た、俺の可愛い飼い犬。俺と一緒に食べるために、自分も朝飯抜きで動いていたのか。
「……、あれ?」
可愛げがあるのが楽しくて、抱き寄せてやると。
「えっと……、参ったな……」
戸惑いながら、声がだらしなくにやける。抱き返してくる腕が気持ちいい。あいつにはこんな風にしたことはなかった。セックスの本番以外ではあまり、べたべたしなかった。
「ネェ大佐、……俺あいつに似てますか?」
……忘れられないんだろうか。
若い男の、少し怖い声を聞きながら、俺は自分の気持ちを探っていた。忘れられないんだろうか、俺はあいつのことを。まさかと思いたかった。でも昨夜まで、あいつとのことを記憶から過去から、シュットアウトしていたのは、傷つきたくなかったからだった。思い出せば気分が悪くなったから思い出さなかった。
昔のことは、全部。
「あいつがあんたに、色んなこと教えたの?」
そうだ。俺は何もかも初めてだった。多分あいつの奥方も。美しく家庭的なことで知られる奥方は南方司令部所属の中将の息女。あいつに暖かな家庭と、娘と、門閥を贈った女。
「ふられて悲しかった?ふり返してやれて嬉しかった?」
あぁ。昨夜は嬉しかった。嬉しすぎて気付いた。俺はあいつを忘れていない。何もかもをまだ、生々しく覚えてる。あいつだけが忘れて先に行った。俺はあの場所からまだ、一歩も動けていなかった。
お前は似てない。あいつとは少しも。
「……まだ愛してるの?」
馬鹿を、言うな。
愛したことなんて一度もなかった。愛とか恋とか、そんな感情は、欠片もなかったんだ。
「最初の相手ってあとひくらしいけど」
オンナには、というコメントを抜いたお前は甘い男。
「あっちは妻帯者でしょ。男らしく諦めましょうよ」
そうだな。
忘れていないことを自覚して、今から、やっと、忘れられる、かもな。
「今更、揺れちゃ嫌ですよ。俺のこと誘ってくれたのは、大佐の方からなんスから。ベッドの隣、ぽんぽん、って」
叩いて呼んだと、こいつはことあるごとに俺に繰り返す。そのことを俺は覚えていない。こいつとの最初の時、俺はそれこそ酔っていた。もちろん、酔っていたから寝たわけじゃなく、寝てもいいと思っていたから酔った。情事ってのはそういうものだろう。
「あんたが俺を、呼んでくれたんですよ」
鏡の前で唇を重ねる。こたえながらそっと、薄目を開いて盗み見ると、若い男が真摯に俺の、舌を絡めとろうとしてるのが鏡に映ってた。
可愛い。この懸命さが、最初から可愛かった。新鮮でさえあったのだ。俺は男に、遊ばれたことしかなかったから。
舌を触れ合わせて、明るい朝には似合わないくちづけを、トースターの焼き上がりを知らせる音が阻んで。
若い男に作らせた朝食が美味いのには多分、俺の満足の味が入ってる。