むかし、むかし・1

 

 

 

 初めて、あいつに手を、上げてしまったのはあれが確か二十歳の頃。北の国境近くの、山岳地帯の少数民族が不穏な動きを見せ、裏でドラクマが糸を引いてるらしいのがわかって。

 かなり大規模な動員があった。あいつの所属する部隊も出征していった。俺はその戦線には行かなかった。ちょうどその時期は、中尉への期限前昇進が決まりかけていて、俺はそりゃもう、周囲の僻みとやっかみに炙られて過ごしていた。帰宅もろくに出来なくて、司令部に泊り込みも珍しくなかった。

 前線に行く、あいつを見送ることもなく、あいつは一人で出て行った。帰って来た部屋に人の気配がなくって、一人で眠るベッドがやけに冷たくて広くて、そうなって初めて、あいつの不在を実感した。せめて元気で帰って来いのメモくらい、ドアの内側に張っておけば良かったと思った。

あいつからのメモや手紙ははなかった。あいつはいつも、自分からそんな行動は起こさなかった。いつも、俺からの言葉や行動を待ってた。依存されてる感じはしなかったから、あいつはただ、自分勝手な俺に、いつも合わせて『くれて』いたんだろう。

ともかく、あいつは出征し、俺は残った。二週間程度を予定されていた戦線は案外と長引き、あいつが帰って来たのは二ヶ月もたってから。その時には、俺は『中尉』に期限前昇進していた。

 帰って来たあいつは、ドアを開けて俺が居るのに、少し驚いたが笑った。戦場帰りで、表情は少し堅かったが、ただいまと笑って、そして、俺の昇進を祝福する言葉を口にした。

俺はそれどころじゃなかった。その日、帰って来るのが分かってたから、無理矢理に取った休みだった。あいつの襟首を掴んで玄関に引きずり込んだ。あいつは逆らわずに、俺に引かれるまま玄関で靴を脱いで、荷物を置いて浴室について来た。久しぶりの再会に、俺が一緒に風呂に入りたがってるとでも思ったのか、長い睫毛を伏せて困ってたが、従順に大人しく、着衣のままで。

戦場帰りのくせに日に焼けていなかったのは、戦地が北の山岳地帯だったからだ。雪に閉ざされる過酷な戦場で、戦闘が激しかったことは広報で知っていた。死亡率も高く、その中には小部隊の指揮官も含まれていた。もっとも俺は、あいつの戦死や怪我を心配したことは一度もなかった。

それどころじゃなかった。

『……、な、に……ッ』

 バスには水が入ってた。入浴の後でバスの湯を抜かないのは軍人の習慣だ。火災や天災に備えて非常用の水を身辺に確保しておくことを、習い性として身につけてる。昨夜、俺が入ってそのまんまにしていた水は冷え切っていた。

 その中に、思い切り、頭から。

 あいつを押し込んで。

 暫く、押さえつけていた。冷たさと呼吸が出来ない苦しさにあいつが、さすがに本気で暴れ出したが、背中から押さえこんだ姿勢でどう抵抗したっていまさら。それでも逆らわれたことに腹を立てて、俺はあいつの頭を水の中で振り回した。がんがん、バスタブの壁に当てて鈍い音がするくらい。水が波だって飛沫が俺にもかかってくるくらい。

 いっそ、そのまま、殺してしまいたかった。

 出来なくて、抵抗の力が完全に途切れた瞬間、頭を引き揚げた。それは俺が軍法会議所で訓練されて、実際に何度もさせられた尋問の方法の一つだった。こういうやさしいやり方は、まだ拷問とは、あそこでは呼んでいなかった、あそこで『拷問』は、生かして返す気がない被疑者に対して行う真似を、いう。

『……、ぐ……、げほ……ッ』

 水を飲み込んだらしいあいつが苦しんでえずく。後ろ髪を鷲掴みにしたままで呼吸が通るのを待った。気管に入った水を吐き出させる。水が肺にまでいくと、殺してしまうことがあるから、そこは慎重さが必要。肺の位置を喉よりも上にしておくのが、コツ。

 そんな尋問マニュアルを、妙に冴えた嗜好の中で思い出しながら。

『……、ひ……ッ』

 悲鳴が、あがる。俺がもう一度、腕に力を篭めてあいつの、顔をまた、水に突っ込もうとしたから。背中を必死で捩じらせて逆らう力と、

『……、イヤだ……ッ』

 悲鳴をふりきってもう一度。今度の抵抗は最初の時とは比べ物にならないほど弱く、長続きしなかった。足掻く動きを慎重にはかって、力を失う瞬間を狙って引き揚げた。苦しんでえずく。呼吸が、復活すると、またすぐに漬ける。そういうことを、四度も繰り返すと。

『……』

 ぐったり、本当に、無抵抗になる。抗議や哀訴の気力も失わせて、そして、尋ねた。

『十一月二十八日、午後二十時から、翌日六時まで』

 洗い場に横たわる身体はしなやかで、苦しそうな表情は抱いてる時のと似ていて、俺は自分の欲望が萌すのを止めようがなかった。勃ってくる自分自身への腹立ちも篭めて、初めて。

『……聞いてんのかッ』

 ぼんやり、焦点を失った目をした、あいつの横面を、殴った。

 平手じゃなく、左手でもなくて。

『……ッ』

 混濁していたらしい意識が、衝撃に収斂して光彩の細くなった目が、俺を信じられないように見た。真っ黒な目はいつも濡れて見えて、それはある種類のオトコの欲望を、煽る色合いをしていた。

『十一月、二十八日。午後二十時から、翌日六時』

 わざとゆっくり、もう一度言うと、見開かれた黒い瞳が動揺に瞬く。それにまた腹が立って、また殴りつけた。今度は左手で、逆の頬を。

 タイルに仰向けで、あいつは無抵抗だったのに、二発。

『……ヤらせたのか?』

 十一月二十八日。午後二十時から、翌日六時。

 こいつは総責任者だった、大佐の部屋に、居た。

 世間にはおせっかいな連中が居る。そうして、出世の階段に足をかけた俺には敵が、増えつつあった。俺に同棲相手と司令官の情事の噂を教えた奴は親切からじゃなく、俺が動揺するのを見て笑おうという底意がみえみえの嫌な奴だった。俺はご期待に応えてやるほど親切じゃなくて、その場では肩を竦めて聞き流した。腹の中は、煮えくり返っていた。

 裏をとった。軍法会議所はそういう調査には便利な部署だった。確かにその日付の夜、あいつは所属部隊の点呼には居なかった。部隊長それを問題にしなかったのは、なんらかの理由あっての不在だと分かっていたからだ。翌日、ロイには基地待機という名の半日休暇が与えられていて、状況証拠は、ありすぎなくらい揃ってた。

『……、て、ナイ……』

 誤魔化せないことを観念したのか、早々と、被疑者は罪状を認めた。

『本番は、させてない……ッ』

 情状酌量を狙って?

『本番以外はさせたのか?あぁいうジジィが、お前好みかよ』

『……合意じゃなか……ッ』

『強姦か?なら、今から、告訴に行こうぜ。立てよ、ほら』

『……』

 力なく、濡れた黒髪の張り付いた頭が左右に振られて。

『告訴しないのか?できないのか?お前バージンじゃないからな、相手の部屋に招待を、受けた時点で関係を承知してった取られるぜ。和姦だったら、お前が悪いんだぜ。……なぁ?』

『……、なんて、おもわ……。話が、ある、って……ッ』

『どうだって思ったんだ、じゃあ。偉い司令官が一介の少尉に、セックスの下心以外でどう声をかけるって、いうんだ』

 あいつが一介の少尉じゃなく国家錬金術師候補で、それを承知の司令官が指摘に呼び出して、国家試験の受験を勧めるのがありえる話だと、別れた後になってから知った。

『なにをどう、されて、させた。……喋れ』

 俺の口調は、仕事の取調べそのものだったかもしれない。少なくとも、痛めつけられた恋人に事情を説明しろと求める言い方じゃなかったのは確かだ。あいつが口惜しそうに口を噤んだのも、分からない話じゃなかった。でも、その時は。

 腹が立った。だから、また殴った。殴って、今度は前髪をわし掴んで顔を固定して、最強の水量にしたシャワーを顔面に、冷たい水のまま容赦なく、浴びせた。

『……ッ、〜、ヒ……っ』

 息が出来なくて、苦しんで跳ねる、胸元が濡れてシャツが透けて、胸の突起が、目についた。色が変わって、固く張り出してた。それは多分、欲情じゃなく緊張と興奮で、だったろうが。

『……、スキモノめ……』

 無茶苦茶な、非難だった。

『本番されなかったって?じゃあ、なにサセたんだよ、お前』

 シャワーを出しっぱなしにしたまま、横に置いて、俺はあいつに呼吸を許した。濡れそぼった顔は苦しくて滲んだ涙も混じって、ぐちゃぐちゃの表情で、凄絶に色っぽくて。

『ココには』

『……、ひ……ッ』

『挿れられなかったんなら、どーやって満足させた?時間はたっぷりあったんだ。イヤイヤで許してもらえるほど、甘いジジィでもないだろ』

 ジジィ、というのも、俺の無茶苦茶な悪罵だ。四十を過ぎたばかりの男盛りで体格のいい、どちらかというと美丈夫という感じの大佐だった。少々、素行というか、行儀が悪いのが欠点だが有能で上層部からの評価も高い。捕虜を虐待しても部下に性的な戯れをしても、大して問題にならないのが軍隊と言うところで。

『喋れよ。どう可愛がられたか』

 告発の、力がないのは俺も同じだった。学生時代と違って本物の階級社会の中で、同棲してる公認の相手を勝手に使われても、それが階級が幾つも上の偉いサンである以上、なんの文句も、言えない口惜しさを篭めて。

『……、メスめ……』

 誹謗だった。ロイはさすがに、口惜しそうな顔をした。何かを俺に、言い返そうとしたが、俺がシャワーに手を伸ばすと口を噤んで肩を竦めた。反論を措いて、

『……、止めろ。苦しい……』

 俺に懇願する声が甘くて。

『そういう声で、あいつにも強請ったか?』

 涙目で、かぶりを振って否定されても、信用できる筈がなく。

 俺はあいつの下肢に手を掛けた。濡れたジッパーに手間取りながら、下着ごと膝まで押し下げた。あいつは身体を固くしたが抵抗はしなかった。水を掛けられるのが怖かったのかもしれない。

『……、冷たい……』

 出しっぱなしの水流は、あいつの髪を濡らして背中の舌を流れて排水溝へ吸い込まれていく。冬の朝で、気温は低く、あいつは本当に寒くて冷たかっただろう。可哀想に。

 でもその時は、抱いて暖めてやることなんか思いつかなかった。戦場で同意のない性的奉仕を上官に強いられて、傷ついてるロイスを慰めてやることを思いつかなかったのと同様に。

 俺は、自分勝手で、優しくない男だった。

 脱がせて、眺めた狭間には目立った痕も傷もなくて、何も知らなきゃなんにも気付かなかっただろう。出征前に剃り落とされていた恥毛は二ヶ月を経て、かなりもとの草叢の形に戻りかけている。

『……、触らせたか?』

 俺は知ってた。その大佐は、女性兵士への強制猥褻罪で告発されたことが過去にもあった。被告と原告の間で事実関係に争いはなかったが、火国の大佐は和姦を主張して、彼女とのセックスを洗いざらい、軍法裁判所の法廷で『証言』した。非公開だったとはいえ、女性器の色や交接の時の声色のことまで喋られて、原告の女性兵士は悔し泣きに泣いて裁判は中断。結局、原告側の弁護士の提案で、慰謝料を支払っての和解が成立し、告発は取り下げられていた。

 そういう男が、この甘い肌を、見過ごすわけがない、と。

 不幸なことに、俺には分かっていた。

『触られたんだ……ッ』

『手で?口で?遊び人らしいからな、上手かっただろ。悶えて、イかせてって強請ったか?』

 俺の問いに、ロイは答えずに泣いた。

『……泣いて誤魔化せると思うなよ』

 告発してた女性兵士と同じ、悔し泣きだということを、俺は気付かなかった。