むかし、むかし・2

 

 

 

『ほら、喋れ。……、観念しろよ……』

 掌で、ロイの蕊に触れかけて、止めた。触れなかった。別の男が、触った後だと思うと。幸いバスルームだったから、手の届くところに石鹸が置いてあって、それを塗りつけて、毛で泡立てて、その泡ごしに触れた。俺の触り方に、ロイは傷ついた顔をした。絶望、に近い震えが、長い睫毛の先端に乗って。

『最初から、状況を全部説明しろ。お前が部屋に入ったところからだ。……さぁ』

『……、』

 静かに口を開いて、あいつは全部を、俺に喋った。ロイにも油断があったのは確かだが、指令官のやりかたもえげつなかった。きつい酒を飲まされても、それが酒だと明確だった以上、勧められて飲んだのは自分の意思になる。上官の指令に逆らわない軍人としての習慣に、まんまとつけこまれたにすぎないとしても。

 白く濁った酒はおそらく、馬乳酒かアイリッシュ・ウィスキー。どっちにしろチェイサーなしでグラス一杯やれば、まず確実に判断力は鈍る。抵抗力も同様。お定まりのやり方で、ソファに押し倒された後は相手の好きにされるしかない。服をはだけられて、熱心な愛撫を施されて。

 ロイが『処女』じゃないことを司令官は承知だった。ロイに、好みの体位を尋ねて紳士的なフリをした。抵抗しようとして、易々と押さえ込まれて、大人しくする代わりに、下肢での交接は許してくれと、殆ど涙乍らに哀願を、縋りついて願って。

 代わりに口で、何度も慰めた。たいへん上手だと司令官はご機嫌で、何度もその奉仕を繰り返し、一晩中、もとめた。

 そんなに尽くしてやったのか?

『……必死だったさ。じゃなきゃ、ヤられちまうん、だから……ッ』

 ロイは途中から俺にも自棄だった。洗いざらい喋った。俺は聞きながら、まるで自分が不本意に抱かれてるような怖気と嫌悪を感じた。自分との境界が分からないくらい、馴染んだこいつを、深く。

 愛していたから、腹がたったのだが。

『勝手な真似するなよ、お前』

『俺が好きでしたんじゃない……ッ』

『でもしてやったんだろうが。……あのな。ロイ。お前が俺のだってことは、みんな知ってんだぜ』

 士官学校の同期は全員。それに、先輩後輩といった連中。そういう奴らの口から漏れて、またそれは、否定しようのない現在進行形の事実。俺もロイも目立つ方だから、俺たちの『同棲』は俺たちの周囲でも、知れ渡っていた。

『……俺に、恥を、かかせるな』

 そういう言葉しか。

 言えなかったのは、若かったからだ、としか。

 それが何の言い訳にもならないことは分かっているけれど。

 愛しているからお前の傷が、俺にもずきずき、本当に痛いんだと。

 伝えられていれば、俺はあいつを、なくさずに済んだかもしれない。

 仮定は無意味で、俺はそういう言い方しか出来なかった。

 ……そして。

 ロイの、表情がみるみる、哀しみと絶望に塗り篭められていくのをまじかに見ながら、どうにも出来なかった。

 自分の痛みに耐えることに必死で。

 絶望の淵で、ロイが目を閉じ、俺から心を隠す。寒さに青白くなった目蓋の翳りの下にあいつは、なにを閉じ込めたんだろう。

『そこまで言うなら、お前、仇でもとってきたらどうだ』

 目蓋と同じく青ざめた唇は、静かに動いて、俺を糾弾した。

『自分ができない事を、俺だけに求めるなよ』

 相手は大佐で司令官で、北の国境での山岳民族の蜂起を鎮圧した凱旋の主役。そんな男に逆らえないのは、確かにロイだけじゃなかった。

 弱いところをつかれて、俺は逆上した。後ろめたさのままに、四発目を。今度は平手だったが、それが一番、ロイは痛そうな顔をした。腕を解放してたから、掌で俺が殴った頬を押さえて、それは本当に、女の子が映画なんかで、よくする仕種だった。

 痛くて押さえているんじゃない。

 殴られた事が信じられなくて、男の敵意を理解できなくて、殴られた頬に触れて腫れと熱を確かめて、そして絶望を確認するための、しぐさ。そのままで俺を見た。切れ長の光彩の澄んだ目は冴えて、俺のずるさや身勝手を見抜いてた。

『二度とするなって言ってるんだ。返事は?』

 浴室から出て、中折れのすりガラスのドアにもたれながら、落ち着くために、俺は滅多に吸わない煙草に手を伸ばした。ニコチンは神経の昂ぶりを鎮める作用がある。それ以上の暴力を抑制しようと、無意識に、俺は俺なりに落ち着こうとしていた。なのに、そんな、俺の必死の強がりを。

『……イエッサー……』

 あいつは、よく効く言葉で切り裂いた。

 あんなに効いた一言はなかった。

 地位であいつを押さえ込んだ司令官も、暴力で威嚇しようとしてる俺も、同じ穴の狢だと、あの宝石みたいな目が、俺を断罪した。

 柔らかく、いつも寄り添ってくれた猫だった。いつも俺が望む声で望むときに鳴いた。でも本当は爪も牙も、ちゃんと鋭いのを持ってて、それを隠して『くれて』いたんだ、と。

 初めて爪をたてられた衝撃に、俺はそんな簡単にことにさえ気付けなかった。

 煙草を、無意識に握りつぶす。皮膚が焼けた。

『……もういっぺん、言ってみろ』

 バスルームに踏み込む。人の点いた煙草を手にもったまま。

『もういっぺん言ってみろ……ッ』

 痛いところを衝かれて、俺は逆上した。