むかし、むかし・3
そして。
半死半生、といった具合のあいつを、俺は病院にも連れて行かなかった。
そんなに重態だとは気付かなかった。苦しいとも痛いとも、俺には言わなかったから。二度と浮気なんか出来なくしてやると、他の男が触れようとしたら絶対に気付く位置に、煙草を押し付けて、敏感な場所の皮膚を、焼いて爛れさせたときも。
あいつは歯を食いしばって、俺に悲鳴も聞かせなかった。
俺は午後から勤務だった。だから着替えて、アパートを出た。ロイがまだ浴室でひくひく、してるのは分かってた。でも放り出して仕事をしていた。同じ軍法会議所に勤務する内部調査官から、内々に呼び出しを受けたのは午後八時、くらい。
そこで初めて、俺はあいつが病院に担ぎこまれていた事を知った。帰宅した隣家の隣人が、シャワーが強い水量で出しっぱなしなのに気付いて、管理人に連絡をしてくれて。管理人が合鍵でドアを開け、冷え切ってぐったり、してたロイを、見つけて救急車。
アパートは司令部への通勤に便利な立地のせいで住人はお仲間が多く、隣家の奴もそうで、場慣れした軍人はてきぱきと軍病院に入院の手続きをとってくれた。
胃の洗浄が必要な急患で、大騒動だったらしい。冷え切ったロイは熱まで出して肺炎を起こしかけていて、そして。
容態よりも、重要視される事があった。
石鹸水を飲んでの自殺未遂の企て。
苛性ソーダは猛毒だ。徴兵を忌避する若者が徴兵検査から逃れるために調査の前夜に飲み過ぎて死んだり、過酷な尋問に耐えかねた捕虜が貪り食って命を絶とうとしたり、する。
成功率は高いとはいえないが低くもなく、手首を切るより、よほど確実では、ある。
……俺には、殺す、つもりはなかった。
……なかったつもりだ。意識下では。
無意識でどうだったかは分からない。これが裁判なら、虐待して放置して外出したってことで『死んでも構わない』という未必の殺意が問われるところだろう。黒判定される可能性は高い。
実際は、加害者として事情聴取を受けたわけではなかった。
あいつには意識はあって、俺がそうした、とは言わなかった。あの司令官に使われた口を洗ってやるって、嫌がって泣くのを押さえつけて石鹸を口に突っ込んで、俺が散々な真似をしたことは。
俺が加害者だと、あいつは言わなかった。ただ。
その前に俺と揉めて、俺があいつに腹を立てて部屋を出て行ったことは話してた。事実かねと尋ねられイエスと答える。原因も正直に告げた。出征中に、あいつが司令官と寝たこと。
内部調査官に答えながら、俺はあいつの狙い場所を察していた。罪を、俺でなく、あの司令官に。
あいつを責めたのかと尋ねられ、もちろんと頷く。同棲相手が浮気したって分かったら普通の男がする、大抵の真似はやった、と。
打撲のあとは君かと尋ねられ、それにもイエスと。
同意の上じゃなかったと、あいつが言い張っていたことも伝えた。それでも君は責め立てたのかと追及され、頷く。既成事実が起こった後で、動機を究明したところで無意味だ。俺しか知らなかった俺の猫は、押さえつけられてだったにしろ、別の男の掌に撫でられて餌を食べた。それは俺には、ひどい裏切りだった。
ロイが、俺が勤務に出た後で、『自分で』石鹸を食って『自殺を図った』のは。
『衝動的に、だったようだ。本人はもう落ち着いて、馬鹿な真似をしたと言っていた。……相手は札付きだ』
調査官が、まるで俺を、宥めるようにそんなことを言う。
『本当に合意ではなかった可能性が高い。慣れている奴は誘惑が上手いからな』
上手いだろう。それはよく知ってる。俺は昔、街で女の子に声をかけて、短期決戦でベッドにたどり着くのが得意だった。金で買える娼婦しか落せない甲斐性ナシどもを内心であざ笑っていた。
あの司令官も、多分最初はロイに目をかけているフリで、肩なんか叩いて親しみを見せたんだろう。勇気か判断を褒めたのかもしれない。出身や家族のことを尋ねたのかもしれない。あいつは、警戒心は強いが見た目よりは愛想がいい。上官への礼儀もあって、笑いかけられれば笑い返しただろう。
頬の線が清潔そうな、あの顔で柔らかく笑われると見慣れてる俺でもはっとするときがある。女の居ない前線で、そのケのある奴になら強烈にアピールする。これはいけると、自惚れ混じりに地位の高い美丈夫な司令官が、思った気持ちも、まるで手に取るように、俺には生々しく分かった。
何年前にか、俺はヤツと、似たような真似をした。
また裁判かなと、俺は少し、うんざりしながら思った。あの司令官は、今度は審問で、あいつの舌の柔らかさがどうとか、吸いながら舐められると裏筋が反り返りそうだったとか、そういうことをべらべら喋る訳だ。聞きたくないと、正直に思った。
憂鬱な俺の表情をどうとったのか、あいつの命には別状がない事を、俺に重ねて、調査官は告げた。入院している病院と病室も教えられた。気が重かった、理由を俺は、その時は分からなかった。
退勤は、午前二時。それから軍の病院へ。追い返されるかと思ったが、軍隊は二十四時間体勢でその付属病院も同様で、面会に時間規制はなかった。ロイは個室に入れられていて、それは重態だからだと、その時は思った。鍵のかからない病室で、俺の女は眠ってた。寝顔は安らかといえず、柔らかだった頬がこけて人相が変わっていた。
二ヶ月の前線でも大して痩せてこなかった奴を、俺は半日で死にそうに痛めつけた。
近くに寄って、頬に触れると、あいつは目を覚ました。月が綺麗な晩で、暗さに慣れた俺の目はロイの瞳が開くのを視界に捉えた。表面が潤んでかすかな光りを弾く様子まで。
ゆっくり、俺はベッドの傍らの椅子に腰掛けて。
言葉を捜した。言わなきゃならないことはたくさんあった。けど全部、気が重いことばかりだった。あの大佐に内部調査が入って、今度は被害者からの告発でなく、公的な事件として起訴処分になるかもしれないこと、それに伴って詳しい証言が求められるかもしれない、こと。どれもこれもうんざりで、例え偉い男に罪を償わせることが出来たとしても、何ももとに戻る訳じゃない。
溜息を、ついた。責めるつもりなかはったが、ロイは身体を、竦ませて揺らした。そうして、俺はようやく口を開く。
「退院は」
どうでもいいような話を。
「いつになる?」
「……一週間くらい」
答える声はかすれてて、あまり喋らせない方がよさそうだった。
「そうか」
それから、暫くの沈黙。そして。
「……治ったら」
今度は、あいつが口を開いて。
「ん?」
「帰っても、いいか」
何を問われているのか最初は分からなかった。薄闇の中で不安そうなあいつが、俺をじっと見詰めてた。綺麗な目をしてる。長い睫毛の翳が落ちる目元は、ある種の男の嗜好を刺激してやまない。ツボを刺されてもう何年も刺激され続けのオスが、ここにも一匹、居る。
退院したら一緒に住んでるアパートに戻っていいかと問われてることに、かなりたってから俺は気がついた。思いつかなかったのは、あいつが戻ってこないことなんか考えもしなかったからだ。俺たちの関係を修復してくれる気はあるのかとも、同時にロイは尋ねていた。
「好きにしろ」
そんな言い方しか出来なかった。本当のことは言わなかった。
あのアパートの部屋もベッドも、お前が居ないと、冷たくて広くて。
二ヶ月間、お前の帰りを、俺がどれだけ待ってたかとか。
せっかく帰って来たロイに、俺は酷い真似をして痛めつけたが。
そんな言い方だったけど、ロイはほっとして、安心したように目を閉じる。疲れ果てていたんだろう、すぐに呼吸が深くなって、眠ったんだと分かった。
「……ロイ」
呼んでも応えない。深い眠りの中に居る。それを確認してから、俺はロイの頬にもう一度、触れて抱き締めた。
見舞いに来たくなかった。声を掛けたくなかった。何も喋りたくなかった、理由に俺はその時、気がつかなかった。
自分がやり過ぎたことに気付いて、あいつに嫌われてしまうことを、俺は本当は、慄くほどに怖れていた。