望月・一
その土地には、流れの清い川があった。
春から秋まで子供たちは裸で泳いで遊んでいた。鮎や蜆もたくさん採れた。若い衆も褌一丁で水を掻いて涼んでいた。川が湾曲して流れの緩くなる場所が道場の裏手で、夏は稽古を終えるとすぐに飛び込んで汗を流した。井戸端で水を浴びるよりずっと気持ちがよかった。
土地の女たちも川で遊びたがった。夕暮れの、人目につかない時間を選んで浴衣姿で足を運ぶ。水の流れに漬かって汗を流す。子連れの人妻や中年増らは子供をつれて、その子を盾にして見張りにして堂々としたものだったが、子供でなくなった少女は、さすがにそうはいかない。
『ねぇ』
と、頼まれるのは、最初は身内の男たち。
『ひとに見られないように見張ってよ』
娘と呼ばれる程度に熟してくると、気に入った若衆にそう声を掛けてくる。夜の川遊びの、見張りを頼まれるのはそのあたりの若い男にとって嫌なことではなかった。見張ってというのは守ってという意味で男の自意識をくすぐる。自惚れて拡大解釈を施せば、それは『ひとに見られるのはイヤだけどあんただけならいいよ』という風にとれないことはない。実際、酷暑の寝苦しい夜、木刀や竹刀を携えて涼みに行く娘を迎えに来る男を、娘の両親は婿候補として見る。
お供で川に来た男は水浴び場の近くの岩に座り川には背中を向けながら、娘と話しながら近づく者がないように土手に上がってくる人影を見張る。男と思しき影が見えたら立ち上がり警告を発するが、夏の夜の川は村の娘たちの貸し切りと、土地の男なら分かっている。大抵は男の背後に別の娘が居て、男は男同士、持参の酒を注ぎ合いつつ蚊とり線香の煙に噎せ、苦労を内心自慢に思いつつ土手に並ぶ。今年は蚊が多くって閉口するぜ、などと、仲間同士で囀る時に、お供を頼まれず夜の土手を知らない、もてないヤツは、口惜しさに臍を噛む。
土地では大百姓として知られた家に生まれ、近在の道場に通い、名主の家の当主を姉婿に持つ、無愛想な若者には十五を越える頃から、お供の名指しは多く来た。目つきが鋭く唇が酷薄で、村の男たちからは警戒される気性の鋭さも、度胸のいい女連中には通じない。否、勘のいい彼女たちは気づいていたのかもしれない。愛想はないが目元の涼しい整った顔立ちの悪ガキが、実は末っ子のねぇさんっ子らしく、女にはどこか甘いということに。
名指しされると若者は面倒くさそうな顔で、それでも律儀に木刀を手にして土手に座った。生家には既に両親がなく、懐いている姉の婚家に殆ど引き取られて成長したが、長じるに従って武芸熱心となり、近藤勲が営む道場に内弟子として転がり込んでいる、そんな時期だった。道場の後援者が義兄だったおかげでただの居候以上の待遇で、内弟子にしては妙に堂々と、道場の板の間でメシを食っていた。その態度は十数年後にも引き継がれ、時流に乗って俄かには信じられない出世を遂げた後も、当たり前のような顔で『局長』勲の居間で時々、朝メシを食う。妙に顔立ちが整ったガキが隣に座るのも、その頃と同じだ。
女たちが水浴びと夕涼みに飽き、濡れた髪を乾かしながら夜道を家に帰る、帰路をきちんと見届けて道場へ戻る。その戻り道に用心が要った。道を歩く犬の飼い主さえ知らぬものがないような田舎で、嫁入り前の娘らに悪戯をしかけようというヤツは居ない。そんな真似をすれば即座に家族含めて村八分だ。
危ないのは夜風に涼む娘たちではなく、供を務める若者の方だった。若者の生まれ育ったこのあたりは幕府の直轄地で、住人たちの身分は百姓だが豊かな土地柄でもあり、戦国時代の地侍の気風をまざまざと残している。だからこそ武家の少ない地域でも勲の道場が成り立っているのだが、同時に武門にありがちな悪癖も蔓延していた。男色、ということが。
それを目当てに襲われないよう、わざと提灯の灯を消して夜道を歩く、若者には嫌な経歴がある。十六の時、十三里離れた江戸の伝馬町の呉服屋に奉公に行かされ、番頭に衆道関係を迫られて、拒んで故郷に逃げて帰ってきた。姿のいい二枚目で涼しげな外見とは裏腹に、この若者には血の気が多くて正当防衛と言い張るにはかなり過剰な暴力を番頭に加え、その報復を恐れ、奉公先から飛び出してきたのだ。
奉公といっても俸給が目当てではなく、世間勉強の為に修行、の色合いが濃かったが、だからこそ逃げ帰ってきた弟を姉は怒った。姉婿は男同士だけあって事情を薄々察し、とりあえず自分が後援している勲の道場へ、子供の頃から息子同様に可愛がってきた義弟を避難させた。道場ともなれば門戸を張る必要上、師範代も必要なら代稽古の仕事もある。勤まる腕を持っていたせいで、そのままずるずる、居候を続けている。
月が雲に隠れた時、道場へ戻る砂利の道わきの、柏の木の根元で気配がした。
「おい」
声を掛けられる。声は一つだったが、気配は複数だった。立ち止まればヤバイ。懐手にした右手を袖から出し、左腰の木刀の、鞘に触れながらたったっと、同じ歩調で歩く。
道場は土手を駆け上がり、川を渡って駆け下りたすぐそこにある。
「待てよ、おい」
足を早めた若者の背中に、笑い混じりの声がかかる。近在の若衆だろうが、見当はつかない。が、彼らの目的は知れている。里の女たちに騒がれる若者が気に食わないのだ。若者の生家と名主の佐藤家は二代に渡っての婚姻で、だから義兄は従兄弟でもあるが、縁は二度とも、佐藤家の当主が土方家から嫁を迎える形で成り立った。それはつまり、土地の名主が妻に欲しがる麗質を血脈に伝えているということで、素質はこの末っ子にも脈々と受け継がれた。
美貌への反感と憧れを胸に、男たちは、たちの悪い気晴らしをしようとしている。
若者は腰を静めた。闘るより逃げようと決めた。相手は江戸の番頭ではなく土地の若者たちで、怪我をさせれば面倒ごとになる。居候先の勲にもメイワクがかかるだろう。
駆けた。
足は、速い。
月が出る前に土手を登りきれば振り切れる。
「……はい?」
そう返事をした白髪頭の男を、新撰組副長に立身出世した若者はまじまじと眺める。
「なに?」
重ねて尋ねられ、自分がなにやら声を出したのだ、ということに気づいた。
「土手がどうしたって?」
場所は馴染みの待合。時刻は真っ昼間。障子の外が明るい。非番だから隊の制服は着ていない。着流しの私服も今は脱ぎ捨てて枕元にある。料亭から膳を取り寄せ、酒もかるくやって、寝床に入って昼間っから愉しんで、それからの記憶がない。
「もしかして寝ぼけた?めずらしー」
隣の白髪頭に頬を撫でられる。あぁ、そうかと、ようやくそこで納得した。情事の後でうつらうつらとして、昔の夢を、見たらしい。
「どんな夢、見てた?」
カラダを乗り出すようにして白髪頭の男が黒髪の、真撰組鬼の副長を覗き込んだ。江戸の武装警察、かなりの汚れ役を引き受ける物騒な組織。その束ね役は、だが、閨の中では、艶っぽく笑う。
「故郷の」
「故郷ドコ」
「……」
笑って誤魔化す。別に隠しているわけではないが、すらりと答えない癖がついている。繁華で洒脱な江戸っ子には田舎者と馬鹿にされる御城府の外。そんな田舎で木刀を振り回していた身が現在は江戸でも知られた身の上になっている。
「何時だ?」
「三時過ぎ。寝てたのは一時間ちょっと。あんたにしては珍しいね」
セックスが終わればさっさと帰るのが習慣だった。うとうと、無防備に眠ってしまったのは昼だったからだ。最近は、昼に暇が出来ると睡眠を摂る癖がついた。なるべく夜は起きていなければならない。局長が屯所を留守にすることが多いから。
「疲れてんの?ご無沙汰だったし、昼は初めてじゃない」
「ちょっとな」
忙しかった。答えて、それでも、起き上がる気持ちにはならない。男に背中を向ける位置に姿勢を変えて、布団の中に転がる。秋も深まってきたが昼の座敷にはまだ暖房がなくて、温まった褥が素肌に心地よかった。
「銀さんは昼間でもいいよー。自営業だから」
背後から絡み付いてくる男の腕も。
「今度はあんまり、ご無沙汰じゃなくて呼んでよ」
軽い言い方だ。が、物事に淡白なこの男がそんな催促を言い出すこと自体が珍しかった。あぁ、と適当に答えて目を、閉じようとした、瞬間。
「……、ん……」
肩に手を掛けられて、強引に引かれる。振り向いたところを、顎に手を掛けられ、唇を開かされる。固くて強い指先を感じながら口を開くと、すぐに噛みあう勢いで深く。
「……ン、っ」
拒んでいる訳ではないのに押さえつける癖はーのある男だ。でもそれが妙に興奮する要素だから文句はない。飄々として掴みどころのない普段とは別の顔を、床の中では、見せるタイプは好きだ。
「どんな夢みてたか当ててやろうか」
「……言ってみろよ」
「エッチィ夢見てただろ」
「外れた」
「嘘つき。そーゆーカオしてたぜ」
「喧嘩の夢だった。若い頃の」
「喧嘩であーゆーエロいカオになんの、エロ副長」
「知らなかったのか?エロ侍」
口付けを解いた間近で見詰め合う。次の瞬間、同時に噴出した。相手の真顔がおかしかったからだ。笑いながら腰を浮かせると笑いながら男がその隙間に腕を差し入れてくる。松の下枝みたいにゴツゴツしてて、なんだかまた、そこで笑っちまう。
「知ってたかも」
「……はは」
こいつとは前に闘った。闘って、負けた。そのひっかかりがあったから、たぶんこういうことに、なった。
力を抜いてシーツの上に腕を伸ばす。リラックスして、ヤローの熱を待つ。
窓の外で、セキレイが鳴いた。
久しぶりにいい気分だった。