望月・三

 

 

 

 それはもう半月も前のこと、金曜日。えらく天気のいい日の午前十一時四十分。

 泣く子も黙る市中取締役・真撰組の屯所を訪れたのは、

「お弁当つくってきたの」

 大人しく笑っていればかなりいい線を行く美人。

「……あー……」

 その美人に自分たちの局長がご執心であることを、隊の幹部クラスはみな承知している。門番から監察を通して副長が呼ばれ、夜勤明けで朝寝を愉しんでいた真撰組鬼副長はパジャマ代わりの白の単に羽織を肩にかけただけ、不本意に起こされましたという風情で玄関の式台に立つ。

「……珍しいな」

 来客に敬意を表して引っ掛けてきた羽織の袂から煙草を取り出して、呟く。勲から逃げ回っていたこの女が自分から尋ねて来たのに内心はひどく驚いていたが、女心と秋の空かと、勝手に納得して。

「近藤さんは他行中だ。屯所は女人禁制だが」

 式台のわきに置いてあるスリッパを手に取り、女の前に屈んで揃えてやる。

「まぁ緊急至急の用件じゃしょうがねぇな。すぐ呼びにやるから、あがって待ってろ。茶くらい出すぜ」

 せっかく飛び込んできた、嘴は鋭いが見目のいい小鳥を逃がさないで奥へ招き入れるべく鬼副長は笑った。ほんの少しだけ。それでも珍しい表情に女もつられ、首をかしげてにっこり。月見うさぎを染めた柄の風呂敷を手に、前を歩く副長について行く。途中で、男は振り向いて。

「寄越しな」

 女が素直に渡した風呂敷包みを受け取る。中身が重箱ということは形状で分かっていた。手が自由になった女が懐から取り出したのはライター。赤くて細い、いかにも女持ちの。

「はい」

 火を点けて差し出す。鬼副長が、今度は愛想ではなくて本当に笑った。ほんの少しだったが。袂に煙草は入っていたがライターがなくて、唇に挟んだまま歩いていたのだ。

「お部屋は何所?」

「いや、それは、さすがにマズイだろ」

 煙草を吸って機嫌のいい鬼副長は彼女を来客用の応接間に通すつもりだった。局長である近藤の私室は別棟で、警備のしやすい中庭の中央に建って渡り廊下で本棟と繋がっている。

「テレビ運ばせようか。ゆっくりしてけ。今日は仕事か?近藤さんに同伴してもらうんなら、俺がシフト替わって……」

「いいえ、あなたのお部屋」

「は?」

「土方さんに作ってきたの、お弁当」

 にっこり笑った女の顔が。

悪魔に一番近いことくらい、とぉに知っていた、のに。

 

 

 それでも。

 最初のうちは、彼女が本気で副長に惚れているのだと考えた者は居なかった。

「まあ上手いやり方ですね。嫌な男を振るのにそのトモダチに気があるフリするのは高等戦術ですよ」

「近藤さん気の毒に、号泣してどっか行っちまいましたぜ」

「お妙さんなら姐さんと呼ばせてもらいたいとこですが」

「俺はあの手の女は苦手だ」

「男の苦手は女の嫌いより百億倍信用できねぇや」

「総悟お前とし幾つ?」

 ストーカー被害に対する牽制だ、と、そう思われていた、が。

 

 

 

 女の差し入れはその後も続いた。既に半月、毎日という訳ではないし、毎日が手作り弁当でもない。それでもただの気まぐれにしては熱心な回数と態度。

鬼副長は居留守を使い対面を避けているが、女はそれを承知の上で、来訪から出勤時間まで粘っていく。殆ど彼女の専用になった三つある応接間のうちの一つには、若い女の好きそうな雑誌やDVDが並び、ミニ冷蔵庫に飲み物とハーゲンダッツまで常備されている。茶を運ぶ隊士は引きもきらない。男所帯には珍しい美人の来訪に、一般隊士たちはウキウキとしている。

局長は屯所に帰ってこない。余程の衝撃を受けたらしい。責任者である勲にはシフトはなく、市中巡回の当番もない。総監から何も言ってこないところを見ると週一の江戸城登城はこなしているらしいが、詳しい話は鬼副長の耳に入ってこなかった。口止めをされている、らしい。

隊の指令系統を一手に握っている副長はそれが気に入らない。しかし局長直接の緘口令を、破れと自分から言い出すわけにはいかなかった。命令系統の一本化は組織の機動性を左右する重大事だ。もっとも。

「副長はなんでも自分を通させなきゃ気がすまないタイプなんですよね」

 普段は山崎の看破する通り、全ての情報も命令も副長の手を経ていく。それに背けば厳罰が待っている。しかし唯一、そのピッと通った一本糸からふらふら外れても処罰されない人間が隊内に居た。真撰組局長・近藤勲、という。

「俺は美人は好きですが、これ以上、部外者に隊を荒らされんのは真っ平です」

 真撰組の屯所が『家庭』であるものは多い。というより、それが殆どだ。身分出自に関係なく必要な入隊資格は腕前だけ、という隊記は天人の支配下で路頭に迷う多くの若者を救った。

「同感だが、荒れてんのは俺のせいか?」

 荒くれ男たちを纏め上げる個性の中には、時々。

「あんたが色男過ぎるからですよ、悪党」

 目尻の艶で締め上げているのが居る。

「山崎、聞きたいことがある」

「喋れません」

 流しのカウンダに肘をついて、内側で煙草を吸う副長に監察責任者は答えた。真撰組の会計や諜報を担当する監察は副長の直属部署で、普段はその顎先で使役されている、が。

「局長直々の口止めは破れませんよ」

「山崎」

「ダメです」

「山崎退」

「規律厳守はあんたが定めた決まりだ」

「やまさきィ」

「俺が守ってるからって文句はないでしょう?」

 洗剤を含ませた布巾と手を洗い終わった副長はきゅっと蛇口を締め、咥えていた煙草を灰皿でもみ消す。

 そして。

「……ッ」

 避けられなかった。早すぎて。

 噛み付く毒蛇の速さで伸びてきた指に襟首を掴まれ、容赦なく引き寄せられる。胸の高さのカウンターに乗り上げ足が浮く。咄嗟に両手をついて上体が、浮いたところを。

「山崎」

 狙われた。

「意地悪、言うな」

 勝負は瞬間。一瞬の、ほんのかすかに、かすめるだけで足る。

「俺とお前の仲、だろ」

 勝ち負けはそういうもの。

「後で部屋に来い」

 一方的な通告。前触れもなく手を離され、無残に尻餅をついた。そのままずるっと、食堂の床に座り込む。

 目線も流さず、さっさと出て行く足音を聞きながら。

「……たちわりぃ……」

 喘ぐ。

 ほんの瞬間、かすかに重なった唇を掌で覆い震えながら。