望月・八
よたよたしながら、それでも風呂にたどり着く。脱衣所で脱ぐべき服は一糸もなく、前も流さずに湯船に沈む。
かけ流しではないが自動給湯、二十四時間いつでも適温、湯の淵まで満々と湛えられた透明の湯が勢いよくあふれ出す贅沢。
「いい気持ち?」
眠っていると思っていた男が座敷から起きてきて浴室に踏み込んでも、黒髪の美形は殆ど関心を払わない。長い睫の先端に湯気をとどめながらぼんやり、目を伏せている様は艶だ。満腹でももうちょっとあと一口、齧ってみようかという気を見ている男に起こさせる程度には。
雑に着込んだ夜着の袖を巻くり上げ、湯船に腕を突っ込んで細腰に腕を廻しながら。
「チューしてよ、フクチョーさん」
男の声はまだざらついて掠れ気味だ。
「クチの中、苦い。アドレナリン出しすぎた。……セックスで出たのは十年ぶりぐらい」
斜めに首を傾げ、今夜もう何度目か分からないほど要求されたくちづけを、美形は無造作に男に与える。噛まれて吸われて今夜散々な唇は熱を帯び、開いたままの男の目を細めさせる。素直にしているとかわいい。
「……、煙草?水?」
離れた後で、どちらともとれる仕草をされ、優しく尋ねてやる程度には。
「お茶でいい?ジュースはもう飲み干しちゃったから」
クローゼット下部に収納された冷蔵庫の中には冠や瓶の飲み物が詰められて、それらは無料、というか宿泊費に込みになっている。必ず全部、飲み干すか持って変える癖の白髪頭の情人に、美形は目を閉じながら頷いた。
「寝るなよ。風呂で眠ったらホントに溺死するから」
言い残して離れた男に隠れてため息を、一つ。アタマが痛い。頭痛というより目の奥がズキズキする。泣きすぎたせいだ。今夜のうちに風呂に入っておかないと、腫れる。
セックスでマジ泣きしたのなんか、それこそ十年前にも、あっか、どうか。
「はい、お待たせ」
持って来られた紅茶の缶に湯船で口をつける。冷たくて少し甘くて、美味い。ごくごく呑み終わると缶を取り上げられて、そのまま。
「あがれよ」
脇に手を差し込まれ、今にも引き上げられそう。
その腕に反対側の指を当てる。待て、と言いたくて、でもまだ、声が出ない。かぶりを振ると男は察したのか、噛み痕の幾つか残る肩を湯船へ戻した。
暫くの沈黙。
「……怒ってる?」
珍しい気弱さで、そっと問われて、なんだか可愛い。
どうしてだろう。また負けた。笑ってしまったから。
「ガマンできなかった」
機嫌をとろうという様子もなく、淡々と告げられる言葉。
「もう会わない、とか言い出す?」
「……いや……」
「よかった」
会話はまた途切れる。そのまま、湯の中でゆったり、肩を抱きしめらながら温まる。
「キャバクラ通い、してるって聞いた」
ぽつんんと、また男が呟く。
「誰から」
「聞こえてくるよそりゃ。あそこ新八のねぇさんの店だし」
「あぁ、そうだったな」
「そうだったなじゃねーよ、白々しい」
「凄むな。そっちの筋じゃなかったから忘れてただけだ」
「どっちの筋でどうか知んないけどさ……、ごめん、ちがう。凄んでごめん。脅すつもりじゃなくって」
「だから、なんだ」
「オレのこと捨てんの?」
ぷ、っと、湯を震わせて、男の問いにオンナが笑い出す。男はそれでほっとしたらしい。笑うなと言いつつぎゅうぎゅう抱きしめる、指先にも肌を這う余裕が生まれてきた。
「って聞こうか聞かないでおこうか、悩んでるところに香水の匂いつけて来るんだもん」
「今度の件は色事の筋じゃねぇ。あのねぇさんに虐められて近藤さんが家出しちまったんで、責任とらせてぇだけだ」
「あら、そーなの。……安心」
「その件はいいとして、今後の参考に聞くが」
「はぁい?」
「俺が女つくったらお前さよならするのか?」
「しないよ。……あがる?」
「あぁ」
暖かな湯に漬かってほんのり、血の色を帯びた肌に男は舌なめずり。
「俺は今夜はもうゴメンだ。疲れた」
「銀さんだって疲れてるけどデザートって入る場所ちがうし」
「人を大福餅みたいに言うな」
「最初と最後、アジが変わるんだよ。知ってた?」
濡れた肌をざっと拭って、夜着を羽織ろうとする背中に纏わりつきながら、男はそんな戯けた事を言った。
「最初はカリっと新鮮で、途中はむちっで、最後の方はとろってサ。全部スキだけどオレ甘党だから最後近くが一番スキ。疲れて緩んで力抜けて、柔らかくって骨が溶けたみたいなの、ダイスキ。……今みたいな」
背中から襦袢ごしに抱きしめ、締めようとした帯をするりと、脇から手を伸ばして取り上げる。
「自分で分かる?骨がないみたいに撓むよ、いま」
言われる意味を、オンナもなんとなく分かった。柔らかいというのとは違うが間接が緩んで、普段なら傷む角度に易々と、曲がる。
「今日オレでキモチよくなってないだろ、トシ」
「……怒ってるとお前こわいからな」
「あの女はやめろよ」
「いやにこだわるな。惚れてんのか?」
「ダチのアネキなんだ」
「それで?」
「アレの恋人になられたら、オレがこうしてられなくなる」
「そんなもんか?」
「そんなもんだろ」
「そんなもんかねぇ……」
今ひとつ腑に落ちない。そんな表情で呟きつつ、逆らいはしない。大人しく脱衣所の壁に押し付けられながら。
「もー一回、キス」
「たまにはお前からしろ」
「いいよ。あんたほどジョーズじゃないけどねぇ」
向き合った位置で手首を掴まれ、壁に押し付けられる。男が好きな位置取りだ。優しく重なろうとする唇の、先端が触れるか触れないか、という、瞬間。
「二股かけてねぇだろうな、キサマ」
麗しい唇から放たれたキツイ声音。
「お前が他にオンナ作るのはかまわねぇが、アレと二股かけられんのだけは我慢ならねぇぞ、俺は」
「銀さんみたいな甲斐性なしにキャバ嬢が構うわけないだろ」
「金がないのは腕っ節で埋めれる」
「最近はセックスしてるのトシちゃんとだけデス。食いつき具合で分かるだろ?」
「分かるもんか。オトコの下半身は魔物だ」
「焦らすなよ、なぁ。……ナンに誓ったら信じる」
「オトコのクチなんか下半身より更に信じられねぇ」
「もぉ、焦らすな、って」
攻防は足元。手首を掴んで腕を拡げさせているせいで両手の使えない男はオンナの両膝の間を割ろうとして苦戦中。
「無理やりねじ込むぞチクショウッ」
「ラストにそんなふざけた真似してみやがれ、どーなるか分かってんだろーな」
「分かってるからやんないんじゃない。なぁッ」
下肢の攻防に焦れたオトコは、上半身をぎゅっと押し付けてきた。
「……ッ」
服の上からでは分からない、見事な胸板の弾力にオンナが思わず、感じてアゴを上げる。いい気になった男はそのままぐいぐいと押して、両手首を離し、緩んだ膝を強引に割って肘にすくった。
「ちょ……、イタ……」
不安定な姿勢で足を開かされオンナが抗議の声を上げる。
「トシ」
繋がる位置を探りながら。
「オレにバージンやる甲斐性があると思う?」
オンナの機嫌をとるように尋ねる。
「バージンに、好かれそうだ、とは、思う」
「熟れて甘ったるい方が好きなの知ってるダロ?」
「ンなこと言ったって、目の前に置かれりゃ食いつくのがオトコ、だ」
「掴まれよ」
男の指示に、オンナは素直に従って、肩に腕を廻す。
「ン、……んンッ」
「アイシテルとかユわすなよ、チクショウ……」
ずるり、と。
鱗の膨れた大蛇に食いつかれて。
「……、ぁ、あ……」
イイ、証拠に、光彩の黒い目尻が蕩けていく。
「ホレてるオンナは、いまトシだけだ」
喘ぎまじりの告白に、欲深いオンナはやっと満足して、食いつかれながら零した。