望月・9

 

 

 翌朝。

 夜勤の隊士の交代前、つまり、隊の『一日』が始まる前の、早朝。

屯所の裏口に横付けしたタクシー。こんな時間にこうやって帰ってくるのは幹部クラスだから、見張りの隊士も慣れたもので、裏門とはいえ門前にぴたりと乗り付ける無礼を咎めない。天気のいい暖かな一日になりそうなその朝、降りてきたのは着流しに羽織り姿の真撰組副長。

 髪は乾いているようだがいかにも湯上りです、という顔色で、石鹸とシャンプーの匂いが漂ってきそうな風情に門番は目を細めた。そっと息を深く吸い込んでみる。いい匂いがしそうな感じだったから。

 黒髪の副長は敬礼を受けつつ門をくぐった、途端。

「朝帰りお帰りなせぇ」

夜勤だった沖田の、タイミング的には待ち伏せと呼ぶ方がピッタリの出迎えを受ける。

「ただいま。どうした、総悟。目ぇ据わってるぞ」

 夜勤とはいえ完徹ではなく、特に交代要員の居ない指揮官は事故がない限り夜の十一時から朝の六時まで仮眠を取ることが出来る。その寝床から抜け出してきたばかり、という風情の総悟は隊服のシャツ前を緩め、寝癖のついた髪もそのままで斜めに見上げてくる。

「何もなかったか?」

 局長・副長ともに不在の昨夜のことを尋ねながら、黒髪の副長は右手を懐から出して、癖のついた沖田の髪に触れる。

「おおあり、ですよ」

 その手をはね退けながら一番隊隊長は答える。

「何があった」

「うちの手癖のわりぃ副長が」

「オレのことか」

「局長の女に手ぇ出しやがって」

「あの女のことか?総悟お前、勘違いするな、俺は」

「いったいどうする気なんだよって、膝詰めでお尋ね申し上げてるとこでさ。返事次第じゃ考えがありますぜ」

「言ったろ、俺はあぁいう怖い女は苦手だ」

「信用できるもんですか、そんなの」

「そう言わずにもう少し信じろ。ちょっと考えがあるんだ」

「アンタいったい、どうする……ッ」

 妙に可愛い顔立ちを凄ませて、ギャンギャン喚いていた若い腕利きが、一瞬でクチを閉じた。

「な?」

 髪を整えてやろうとして払われ引き戻した右手で、朝帰りの色男が自分の襟をぐいっと、右の肩が半ば、露わになるなるくらい思い切ってはだける。

「女のアトじゃないだろ?」

 明るい早朝の、爽やかな空気には不似合いな光景だった。意外なほど白い肌の、鎖骨の先端についている歯型。『アト』はそれだけではない。いかにも夕べ、情熱的な愛撫を受けました、という風情の鬱血が肌に散って。

「……ッ、て、……、ったって……」

 情事の痕を自慢げに見せられて、若い沖田は咄嗟にどう答えて言いか分からずに戸惑う。花びらを押し付けたような濃淡の赤い色から目がそらせない。不思議と不潔感はなかった。多分、あまりにも本人が堂々としているから。そうしてその肌が透明で、鬱血の色が鮮やかで。

「ンなもん朝から見せびらかさねぇでくだせぇよ」

 沖田はようやく、それだけを言えた。十歳近く年上の、同じ男の肌のキスマークを、本気できれいだと見惚れた自分に絶望しかけながら。

「歯型が女じゃないのちゃんと分かったか?」

「分かるかよ、そんなこと」

「お前警官の端くれだろ、わかれ。なぁザキ、お前は分かったよな?」

「……はぁ、一応」

 副長の帰還を聞いて奥から出てきた監察の腕利きは、一番隊隊長の会話に遠慮してさっきから脇に控えていた。

「女の歯形はもっと曲線が深い筈ですね」

「その通りだ。それぐらい一瞥で分かるよーになれ、総悟」

「あんたがその特技を捜査で活かしてるの、見たことないですが」

 へらず口を返しつつ、若者の表情は少し和んだ。目の前の朝帰り色男が局長の『女を寝取った』のではないと知って。

「成人男子としてのタシナミだぜ」

「ザンネン、オレぁ未成年です」

「元服してるじゃねぇか。……オンナも知ってるダロ」

「オレの経験地なんかどーでもいいんだよ。それよりどうするつもりなんですかぃ。経験豊富な副長さまのお考えを、お伺いしましょうか」

「勿体ないが教えてやるとするか。あのな……」

「ところで、あの、お二方。お客様です」

 顔を近づけて密談に入りかけた二人を、山崎の声が引き離した。

「客?こんな時間に?」

「出直しさせろ。まだ門あけてねぇだろ」

「とも思いましたが、以前、使いに出されて面識のある方です。多摩の」

「やぁ、トシ、総悟君」

山崎の背後は建物内で暗く、人影に二人は気づいていなかった。

「差し入れだけして出直すつもりだったが、起きていると聞いてお邪魔した。しかし、早起き、という訳ではなさそうだな」

 温和で落ち着いた口調、優しい声。ひびきが穏やかで、底に静かな愛情がにじんでいる。

 山崎の後ろには三十半ばの男が立っていた。派手ではないが仕立てのいい着物を着て、きちんと袴を穿き羽織を羽織っている。帯刀はしていないが腰には鉄扇を差して、背が高い。厚みのある肩と引き締まった頬は温和そうだが、強そうでもあった。

 目元の涼しい、けっこういい男だ。笑った目尻が、少し色男の副長に似ている。

「俺は夜勤あけです。朝帰りじゃありやせん」

 咄嗟に沖田はそう釈明して、ぺこりと頭を下げた。隣で黒髪の副長は、このヤロウと沖田を睨むことさえ忘れて、立ち竦む。

「よくいらっしぇえました、彦さん。連絡いただけたら、お迎えに行きましたのに」

 姿勢を正して、立ち礼だったがきちんとした挨拶。

「いやいや。しかし総悟君は若いのにいつも偉いな。お仕事、お疲れ様」

「朝食をお勧めしているんですが、遠慮されています。宿に朝食も約束している、と仰って。どうしましょうか、副長」

 総悟ほど若くもなく夜勤明けでもない朝帰りの色男はまだ硬直したまま。見かねて山崎が助け舟を出した。

「ぜひご一緒に。賄い飯ですが」

 沖田が珍しく懐っこく、来客に近づき手をとらんばかりにして、寄り添って奥へと案内。

「江戸に出てきておいて宿とるなんざも水臭いですぜ、彦さん。使いをやって断ってくだせぇよ」

「いや、しかしご迷惑だろう」

「多摩で散々、俺たちお世話になったじゃねえですか」

 腕をひかれて客人は歩き出す。そして。

「トシ」

 優しい顔で振り向いた。目元がやっぱり、副長とよく似ている。

「利休卵を持ってきている」

 似ているはずで、従兄弟だ。

「のぶが心配していた。ちゃんと食事しているか?」

 姐婿で、父親のように優しい義兄でも、あった。