大手門脇通用口の出入許可証は柳生の死者としてだったから。
「返すわ、これ。もー使わねぇから」
江戸城防衛線の一角を担う高台の敷地、有事には砦となるもと将軍家武術指南役、柳生家に、白髪頭の万事屋は仁義を通して許可証を返しに来た。
若様はすぐに会ってくれ、返すと差し出された許可証を素直に受け取ってくれたが。
「オトコは、ヤワイ」
まるで見てきたようなコメント、寸鉄人を刺すという言葉を可愛い唇から零す。刺されて男は顔色を変えた。
「痛みに敏感すぎる。君みたいなオトコでもな。その点、土方は読経があった」
「若様、あんた何か知ってたのか?」
「まだ迷い中の顔をして、先に格好だけつける。土方の問題は何も解決していないのに背中を向けて、後で後悔するぞ」
「あいつが好きではまってるドツボだろ。オンナはいつでも悪い男にすき好んで騙されやがる。そーなってんのに今更、俺がなに出来るっていうんだ」
「なんでも出来る。やる気があるなら。君のヤル気はいつでもヤワイ。オンナに乞われないとその気になれないフニャだ」
「ビミョーに気に障ったぜ、今」
「悪い男に騙される話なら僕は君より一日の長がある」
「へーそーですか。そりゃすげぇ」
「人生の最初で騙された相手が土方十四郎という性悪でな。水溜りなのは承知で踏み込んだのは確かに僕だが水遊びするつもりだった。なのにずぶっと頭の上まで一気に沈む、深い落とし穴だった。あれは罠だ」
「わりには、嬉しそうに話すね、若様」
白髪頭の男に言われて隻眼の若様はニッと笑う。性別を超えて肉食の、強い雄の気配を漂わせる表情。
「悪い記憶じゃない。アレは性質が悪いタラシだったけどいい男だった。悪い男に騙されるっていうのはそういうことじゃないかな。今でも騙されてる証拠に今でも惚れている」
「ふぅん」
「だまされる過程も今も、悪い男関連で僕はいつでもご機嫌だ。だが土方は、いま楽しそうじゃない」
「……」
「あのしたたかな海千山千がしょんぼりしていると、僕まで悲しくなる」
「……」
俺もだと白髪の万事屋は言わない。でも顔に書いてある。
「なんとかしてやりたい」
「お呼びじゃないんじゃね?」
拗ねたような諦めたような、でも腹を立てているような表情で万事屋は吐き捨てた。
「あいつらの中に混ざるとバカ見るぜ、若様。そもそも俺たちゃ生きてた知らせの後も随分、ツラ見せに来んのあとまわしにされて、バカにされてたんだ」
「調子が出るまで僕には会いたくなかったんだろう。土方らしい健気な強がりだ。僕に心配をかけたくなかったんだろう」
「俺ぁあんたみたいにノーテンキになれねぇ」
「悪いオンナに騙してもらって、イイ目を見てきたくせに」
「だから腹が立ってんじゃねぇか。言っとくけどな若様、オトコは基本、俺だけだったんだぜ、アイツ」
「君は腹に溜まりそうだから。アイツはでも、オンナは僕だけじゃなかったな。色街に馴染みが居る感じだった。でも素人は僕だけだったから、僕は一番大事にされていた」
「あいつは俺のオンナだった。アイツもそんな態度で甘ったれてきたこともあった」
「分かるよ」
若様が微笑む。その表情の既視観に男は目を細める。見たことがある顔だ。あの色悪がむかし何度かこんな顔をした。嫌な既視観だ。こんな顔をしたあの『オンナ』に。
「一方通行じゃ気持ちは盛り上がらない。気に入られてる、つていう自惚れがないと。アイツは僕を好きだったんだ、万事屋。威儀を正した公務中の僕を眺める顔は蕩けそうだった。むかし、僕がそよ姫のお供で行列の先頭を騎馬で乗って先導していた時に行き会った」
将軍家姫君の行列が通る道は交通規制が敷かれる。テロ標的にされることを警戒して真撰組からも警戒のための人数が出た。鬼副長が指揮をとっていて、大通りを封鎖した警察車両の中央、広いフロントガラスごしに。
「僕を見た時のあいつの顔を、僕は死ぬまで忘れない。君にもそんな記憶があるのだろう」
「……」
ある。
将来を誓い合ったとかではなかった。でも何年も深い付き合いだった。時々は泊まりに来た万事屋の事務所で、やるだけやって疲れ果て一緒に眠った布団のなか。深夜、物凄い雷に二人とも目覚めて、停電になるかな待機命令が出てやがるかなと、携帯をチェックする横顔を毛布に埋もれながら見た。
出窓の障子紙を通して部屋を真っ白に満たした雷光。指向性が強いそれに晒された顔立ちの麗しさ。見惚れていたら、見ていることに気づいたオンナは男の機嫌をとるように笑って、毛布の中の男に軽く唇を合わせ布団を抜け出した。
そのまま男は目を開けて着替えるオンナの、お見事な骨格を眺めていた。合鍵で玄関を閉めて出て行くまで布団から出ず声も掛けなかったけれど、胸の中は物凄く甘かった。仕事の都合で置いていかれることはそれまでにもその後も何回もあった。けれど、そのときのことだけをよく覚えている。
端整な顔立ちと、手足の長さと筋肉がきれいにノった身体に心から見惚れた。抜けていった窪みを指先で撫でながら、満足だったのは、きっと。
アレが自分のものだという自負心。つい数時間前に繋がって泣き悶えさせた記憶と現実のヌードが二重写しになって、心からうっとりの陶酔に浸った。その甘い気持ちはずるずると尾を引き、妖刀でおかしくなった時も戦争があった後も胸をキリキリ締め付けた。今この瞬間も断ち切れずまだ引き摺っている。生々しい鮮やかさで。
「そう。君は土方にすごく優しかった。甘かった。思いやり深かった。あいつが僕にそうだったのと同じくらい。土方が帰ってきてからはもう、底なしに」
「……」
「可愛くてたまらない顔をしていた。セックスなんか出来なくってもいい、生きて帰って来てくれただけで夢のようだっていう気持ちは僕も、よく分かる」
「……だろ?」
「なのに勝手に他の男をくわえ込まれて、君の面目は丸つぶれだ」
「……」
「立場がないな。優しく甘やかしてやったつもりがバカを見たな。格好付けていた分、本当にバカみたいだ」
「……るっせぇ。オカスぞ」
「キャラが変わりかけているぞ落ち着け。変わったといえば土方のセックスが変わった。大違いだ。あれは別人だ。僕はあんな風な、虐待された室内犬みたいな可哀想系は好きじゃない。……プレイの一種なら萌えるが本気だと萎える」
「あのな、おぼっちゃま」
「ふかふかベッドに勝手によじ登って四肢を広げてシーツの真ん中に大の字で、腹を撫でろと催促するような猫がいい」
「ナニが言いたいのあんた」
「真撰組の近藤とオンナを取り合うのは初めてじゃない」
確かに以前にも、幼馴染の美人を挟んで張り合ったことがあった。
「奴は悪い男じゃない嫌な男だ。あいつにとって重要なのは自分の欲望だけで、相手の内面が子供でも初心でも関係がない。女に人格を認めていないんだ。だからお妙ちゃんを好きと言いながら十何人も口説ける。あいつがしたいのは繁殖だ。僕はあんな男に土方を渡したくない。無職でもマダオでも君の方が、何百万倍もマシだ。ちゃんと土方を愛してる」
「無職じゃなくって自営業だけど、ゴリさんねぇ、わりぃヒシじゃねーんだけどなぁ……」
「男同士はすぐにそうやって庇いあう」
「若様もしかして俺よか怒ってる?」
「気づくのが遅い」