江戸城、といっても広い。本丸、二の丸、西の丸が高層で代表的な建物。その三つに入るときは割り切手と呼ばれる身分用件を証明する書類が必要になる。
「なんかさぁ、ここが大奥だと思うとぉ」
が、その手前の敷地は三階〜五階建ての役所、裁判所、入国管理局その他が立ち並び、役人や業者が数多く出入りする合同庁舎。奥表、と称される本丸御門までは受付で身分証を見せ行く先を申告すれば、一介の民間人でも容易に入り込める。特に当代の将軍は優しい気質で、花の季節には本丸の前庭を市民に一般公開さえしてくれるのだ。
「漂う香りさえ違う気がするねぇ」
「鼻のアナ広げて悦に入ってるとこ悪いが、ここ全然大奥じゃねぇぜ?」
合同庁舎のあたりには売店や食堂も営業している。コンビニに郵便局、銀行もある町並みは城下のビジネス街とそう変わりない。『城内町』と呼ばれる一帯には、気軽な定食食堂から官僚たちが接待にも使う料亭と呼んで差し支えないような料理屋まで揃う。西の丸に仕える『表使番見習』の美女とそのもとへ柳生から遣わされた使者とが昼下がり、向き合っているのは西の門に近いイタメシ屋。ランチにしては贅沢なコースを平らげ、ジェラード盛り合わせに食いつく白髪の男へ、自分の分も押し付けながら黒髪の美女はタバコに火を点ける。
「だいたい今、大奥ってねぇし。将軍様に御台所も側室もいねぇからな」
将軍様とそよ姫を産んだのは先代の別々の側室だが、将軍のご生母は早くに亡くなりそよ姫の母親は先代の菩提寺で尼になった。ともに城内には居ない。
「え」
「なんだ、『え』って。そもそも俺が奥女中ならこんなフラフラ、外に出れるわきゃねぇダロ」
この美女は城内町に時々やってくる。ランチタイムの混雑を外して、全席禁煙が解除される頃に。今日も食後の一服を楽しみつつ、にこやかにコーヒーのお代わりを勧めてくれる給仕に頼むと頷いた。
「あぁ、それと持ち帰りで抹茶のロールケーキ二本」
「承りました」
「えぇっ、トシちゃん大奥のお上揩カゃないの?」
「全く違う」
大奥とは本来、将軍の配偶者が夫の側室を監督しながら暮らす場所のことだ。そこに仕える女の全員が将軍の閨に侍る候補、という訳ではないが可能性は持っている。当然、女たちの貞操は固く管理され密通は厳に戒められ、完璧な男子禁制、外出も厳しく制限されている。外で仕込んできた別の男の種子を将軍家の血統だと偽られない為に。
が。
西の丸の主人は将軍の妹君・そよ姫。西の丸に仕える侍女たちは将軍一族に奉公する国家公務員だが『大奥』の構成員ではない。将軍の起居する本丸の吹上御殿と妹の西の丸とは直線距離で五キロほど離れており、途中に幾つもの警戒厳重な門がある。そよ姫は時々本丸へ遊びに行くが将軍様が西の丸に来ることは年に一度、紅葉の時期だけ。よって西の丸の女たちが継嗣問題に絡む可能性はまずない。そうであれば密通しようが孕もうが本人の勝手、不始末があれば親元や身元保証人へ帰せばいいだけのこと。だからかなりのびのびと好き放題、勤務時間以外は自由に暮らしている。
本格的な『外』に出るのは手続きが必要だが、城内町までならば勝手に出て行って買い物も出来るし、こうやって昔なじみの男と会って食事をすることも出来る。男は柳生の若様に保証人になってもらい登録をして、城内町を出入りする許可証の交付も受けた。
「うわ……、オレすげぇショック……」
「おめぇが何を期待してたか見当はつくけどな」
上臈ご狂乱始末だの江戸大奥色艶模様だのといった、興味本位のアダルトビデオなタイトル。男の妄想は江戸城の大奥を男日照りに喘ぐ妙齢の美女の集まりとして夢想する。実際は年齢も経歴も様々、将軍と直接に口をきける『お目見え以上』の上臈・中臈の殆どは中高年。
「まぁ、将軍様がお気に入りの女の一人二人、中奥に居てもおかしかないが」
声をひそめて、美女はそんなことを言った。中奥とは、御台所の起居する大奥の手前、将軍が側室と同衾するための一角。
「トシちゃんがお使いに行って見初められたりしたりしないの?」
「てめぇこの城の広さと身分制度ナメんなよ」
側室として閨に侍る候補は最初からその含みで、念入りな健康診断と身元調査を経て上臈の部屋子として大奥へ引き取られる。寵愛の玉の輿のといっても、実際はデキレースであることが多い。お目に留まるようにわざと、お目に留まるべき女が、将軍の目に付くところに突き出される。
現在の江戸城で大奥は御台所不在の空っぽな場所。しかし前代の老女が数人は生き残って、現将軍の身の回りを世話している。彼女らの部屋子のうちに手のついた女が居てもおかしくはない。が、将軍が然るべき名家から正妻を娶るまで、お手つきの女が居たとしても表ざたにはされない。当然、側室同士の派手な鞘当てなどは見たくても見られない。
「ご老女様、お待たせいたしました」
後れ毛の一筋もなく髪型を整えた給仕がやって来てうやうやしく持ち帰りの包みを差し出す。そっとテーブルに置かれた銀の小皿には伝票。添えられた華奢な羽根ペンで美女がサインをすると小皿はそっと引かれていった。
「なに睨んでんだてめぇ」
「えー、だってトシのこと老女とかシツレーじゃん。こんなにツヤツヤなのに」
「馬ぁ鹿。お目見え以上の女は城内じゃご老女なんだよ」
罵りつつ、その馬鹿さ加減が面白いらしく、美女はくすくす笑い出す。
「つまりトシ、偉い女なんだ?」
「どーかな」
西の丸のそよ姫づき、表使番役見習。それがこの美女の正式な役職。そよ姫の意を呈して老中や役人たちと折衝することが仕事で、事務能力と交渉力が求められる、実力のある役職。報酬は年俸制で四十石。他に合力金と称されるボーナスが年に二度、十両ずつ支給される。それだけで約六百万だが、他にも拝領屋敷、扶持米、衣装代、五菜銀(食物購入費用)、墨筆代金その他の名目で手当てや現物支給が多い。宿直や代参の役目を務めればさらに加算されて、実際の収入はトータルで八百万から九百万、といったところ。
「そっか。高給取りなんだ。やっぱりオレの嫁さんにはなってくれないだろうね」
「ならねぇ。稼ぎの問題じゃなくて。いや、おめぇが問題なんでもなくてな」
「なぁ聞いていい?子供産めんの?」
「……一応」
「オレこの歳になるまでさぁ、結婚しよーとかガキ欲しいとか思ったこと、一遍もなかったんだけど」
「気があうな。俺もだ」
「トシが、もしかして気が向いて産んでくれたりしたら、オレその為に生き方かえてもいい」
「正直、そーゆーのとは無縁で生きてきたい」
コーヒーを飲みながらタメイキをつく、美女を男が痛々しく眺めた。二十何年も強面に生きてきて突然、こんなことになって、まだ少し気落ちしている。
柳生の若様の上機嫌なテンションに引きずられて、昔の『オトコ』に身悶えせんばかりに慕われて、ずいぶんそれでも、楽になったのだが。
「そっか。そーだよな、うん。変なこと言い出してごめん。でもちょっと安心した。トシが余所にお嫁に行かないでくれるとすっげー嬉しい」
「いくかよ、ばぁか」
「離れないから」
白髪頭のオトコの目尻はとけそうに優しい。
「トシがお姫様のお輿入れについてどっか行く時は、俺もついてくから。そこのお城下で万事屋する。休みの日は遊びにおいで。ごはん作ってお布団しいて待ってる」
「あー……」
「なに?」
「今けっこう、ココロフルエタぜ」
「そなの?」
「オトコにちやほやされんのが実は、ちょっとキショクわりぃんだ。あぁいうの、ぞっとする」
ちらりと美女は別のテーブルを拭く給仕にちらり、冷たい視線を投げつけた。
「あらそーなの?でもトシちゃんがヤローにチヤホヤされるのなんか昔からじゃん。副長さん時代からもててたくせに」
「ハメたいだけなのは、よく分かってた筈なんだがな」
「えー、それは違うと銀さん思いまぁす」
「前からの付き合い以外、キショクわるくって吐き気がする」
「……美女は大変だね」
ナニがあったのかは効かないが何かがあったことを察している男は、優しく同情しつつ内心の嬉しさを隠し切れない。
「じゃあトシのために、オレ長生きするね」
「糖尿もちのくせに」
「一病息災っていうじゃん」