二本買ったロールケーキは店に居るうちに二本とも白髪の男に渡した。支払いはサインで月末会計。城内町ではお目見え以上の『ご老女』の買い物は全て掛売りの伝票支払い、給与引き落としになる。身分の高い人間は財布を持ち歩かない習慣の名残。本日の昼食代金は二人分のランチコースに持ち帰り菓子、サービス料コミで七千と少し。
「はい」
「ん」
店を出て男から二本持たせたうちの一本を受け取る。これはそよ姫にお土産だが、そう悟られないようにしている。もちろん姫様が口に入れる前には買ってきた責任で、美女が
毒見をする。甘いものを苦手だとかなんとか言える場合ではない。
「お姫さま、ナンかヤバかったりするの?」
「いや、別に」
仕事の内情を漏らさない習慣は相変わらず。万事屋は深く追求しないが薄々は察している。柳生の若様がしげしげと出入りし、かつて戦場で名を馳せた『美女』に高給を積んで身近に侍らせている。この『美女』の西の丸仕えがどういう経路で成り立ったのか男は知らないが、なんとなく、なにかあったんだろうな、という雰囲気。
「まあいいんだけど、あのお姫様ってうちの神楽のトモダチでね」
今は戦乱を避け、父親とともに宇宙の猛獣を狩っている。時々は手紙が届く。
「そっちの義理もあるから、人手が要るなら手伝うよ?」
「頼むかもしれない」
「うん。ご遠慮なく」
「おめぇ、わりと」
「はい?」
「女にゃ甘いんだな」
「そうだねぇ、女子供には基本的にねぇ。でも自分のオンナには特別に優しいつもりだよ。オレ優しかったでしょ?」
「女子供に優しいヤローは自分のオンナにゃ横暴って決まってんだ。それでバランスとってやがるからな」
「あら、そぉでした?」
「自分のオンナに優しいヤツぁたいがい……」
美女は何かを言いかけて不意に表情を暗くした。こういう話題の軽口は弾む方で、弾みすぎてオトコが嫉妬することもあったのに。
「どったの、トシちゃん」
「いや。なんか、悪いなと思って」
「らしくないことおっしゃって、どったの?」
「いろいろな。……わりぃ」
再会してから一ヶ月。実はまだセックスしていない。実家が日帰り出来ない距離の美女は郊外に休息のたろの寮を下賜され、様子を見るかたがた先日、宿下がりした。その時にこの男も泊まりに来たのだが、一緒に酒を飲んで終わった。それほど強行に拒んだ訳ではないが、気乗りしない様子に男の方が引いた。
かわいそうだから。
「まぁオレもオトコですから時々ぃ、切なくて眠れなかったりしますけどぉ」
「よそで遊んで来れるなら小遣いやるぞ?」
「トシちゃんの、そのミョーな愛情だけでいいよ。戦死が公報に載った時の気分にくらべりゃ、いま天国だから」
率いていた中隊まるごとの全滅は誤報だった。が、通信の途切れた前線で生存が確認されるまでには戦死認定されて一ヶ月近くたってから。
「その間、オレが何してたかってぇと、トシちゃんが何処で死んだのか誰にヤられたのか、今思うと笑えるぐらい必死に調べてて」
「その恨み言は仲間と身内に散々聞かされたンだ。誤報が出たのも連絡できなかったのも俺の責任じゃねぇんだからよ、いーかげんもう勘弁しろ」
「ナンだったんだろうねぇあの気持ち。トシがオレの知らないとこで死んでるなんてあり得ないと思った。ってーか、あっちゃいけないんだよ、そんな事は」
「ヨノナカはない筈があることばかり、ダロ。おめぇの台詞だ」
「言うとおりやってるオトコなんか居ないでしょ」
「……」
「あ、なに。そんな顔で黙りこんじゃって」
時刻は昼の二時を過ぎて、スーツ姿の男女が書類の入ったケース片手に行き交う。休日らしく着流しの和服姿、いかにも『奥』から食事に出てきましたという風情のオトコ連れの美女は少し目立つ。
「言うこときいて、喜ばせてやりたくもあるんだぜ」
昔だったら、男同士だった頃なら、可愛いと思った相手は無造作に引き寄せて撫でてやれたのに。
「しょーがないよ。そういう訳にもいかないよ。分かってるよ。オンナのヒトはさぁ、セックスだけで終わんないからねぇ。子供の父親えらんでんだから、待たされて選り好みされて当たり前なんだよ。……避妊するとしてもね」
貞操というと大袈裟になる。でも多分、そういう種類の障壁。意外なほど自分を好きだったらしい昔馴染みのオトコがとても可愛い。時々、らしくもない優しい顔で笑いかけられると胸が詰まる。でも足はひらけない。
「そのうち慣れて緩んでくれんの待つさ。まわりうろうろさせとけよ。他所に嫁いだりすんなよ」
最後の言葉は少しマジだった。
「トシわりといいトコのコだから心配」
「……馬鹿いうな」
返事の遅れた西の丸に帰る美女を、男は堂々、手を振って見送った。
西の丸でも本丸でも、上臈・中臈には給与の他に食事の支給がある。それは本人のみならず、本人が召し使う私的な使用人、部屋子と呼ばれる行儀見習いの女中たちにも。身分ごとにその人数は決まっていて、西の丸の表使見習は三人扶持、つまり三人分の食事が支給される。本人の分を除いて二人の女中が雇える訳で、これが表の役人なら公設秘書という扱いになるだろう。人数は格式にしたがって決まるのであって、どうしてもその人数を召抱えなければならない、という決まりではない。
部屋子には基本的に給与は支給されない。それでも自薦他薦の候補は絶えない。高家の奥に仕えて行儀見習いをした、という経歴は嫁入りの箔になる。それが将軍家とくれば箔もぴかぴか、玉の輿に乗れる。
もと真選組副長だった美女にも一人、まだ十代の若い娘が女中として仕えている。故郷の代々の小作人の娘で、素直で実直な気質を見込まれ行儀見習いとして姉夫婦から送り込まれてきた。掃除も洗濯もさっさと自分でしてしまう習慣だが、それでも身近に可愛い若い子が、一生懸命、世話をしてくれるのは助かる。今日も御前で思わぬ長居をしてしまい、夜の十時をまわって座敷に戻ると眠い眼をこすりながら起きて待っていた。
「八時過ぎたら、部屋に戻ってていいぜ」
座敷といっても数室あって、そのうちの一つを女中には与えている。勤務時間は一定しないが自分の留守には好きなようにしていろと、女中の主人は言う。はい、と女中は答えるがいつも健気に深夜も早朝も、着替えを手伝い、夜食の茶を煎れてすすめる。
江戸に出て真選組局長まで上り詰めた近藤勲は故郷の出世頭。が、その腹心として活躍した土方の方が女たちには人気が高い。引き締まったカラダと目尻の艶は女達に熱烈に愛され、ガラの悪ささえセックスアピールに変えた。
天下無敵の色男が、『事情』でそうでなくなってしまったことは、故郷では知れ渡っている。それでも女中は親戚や近所の女たちに、ひどく羨ましがられた。
「はい。……あの」
姫様の御座所に出るときは重い打掛を引きずらなければならない。男が将軍の謁見を受ける時に裃を着なければならないのと同じで。御座所では寛いで、打掛けどころか袴も脱ぐことがあるが、往復の長廊下では正装姿。何重も重なった絹物を脱がせてくれながら、女中は言いにくそうに口を開いた。
「お客様が、みえられています」
「……あぁ」
そんなことはありえない。上臈に親類縁者が面会に来ることは不可能でもないが、何週間も前からの申請、保証人の添え書きに写真つき身分証明書、そのほか、もろもろの煩雑な手続きが必要になる。その来客も女もしくは六歳以下の男児に限られていて、襖の向こうの寝室におそらくは床を敷かせ、もしかしたら寝入ってるかもしれない、あんな成人男子は。
「物音がしても部屋には来ないように」
ここに居るはずがない存在。
「はい……」
寝巻きに着替えた主人が寝室に引き取るのを、女中は衣装を畳みながら心配そうに眺めた。