檻・六
巡回という名の散歩を楽しむ沖田総悟のポケットで携帯が鳴った。久しぶりのメロディで。
「もしもし、俺です」
組から支給されている携帯は最新式。発信番号別のメロディ登録も四桁出来る。もっとも幼児からの道場育ち、そして延長線にある真撰組しかろくに知らない若者には友人知人と呼べる人間が少なく、メロディ登録している人間は二人しか居ない。近藤勳と、あともう一人。久々の『スパイ大作戦』はもう一人からだ。
「いま外回りしてやす。は?ビョーイン?具合悪ぃンんなら帰って連れてってやるけど?……ホントかよ。そりゃもちろん、構わねぇけど」
帰りに病院に行って薬を受け取ってきて欲しい。病院には名前を言えば分かるようにしておくから、と、言われて易々と引き受ける。
「あ?別に。俺ぁそーゆーの、ぜんぜんヘーキでさぁ。ご存知でしょー?」
若者を婦人科に行かせることをオンナは申し訳ながって何回も詫びた。下手に出てのそんな頼みは初めてだった。若者はオンナの具合が悪いのかと心配でもあったが、頼られてちょっと嬉しくもあった。
早々と『巡回』を切り上げて屯所へ戻ると、非番の近藤は外出から帰ったところだった。挨拶して半休の願いを申し出ると快く許してくれて、沖田総悟はそのまま病院に寄って帰宅した。時刻は午後二時、電話を受けて一時間もたっていない。
「……お帰り」
玄関へ迎えに出た『オンナ』は早々の帰宅に驚いた様子だった。ただいま、と答えて靴を脱ぎながら若者はオンナの顔をじっと見る。少し顔色が悪かった。でも貧血の青白さほどではない。湯上りらしく髪が少し湿っていた。少し目元が赤く見えるのはそのせいだと思った。
「はい、薬」
オンナが通っている病院で名前を言うと出されたのは小さな薬袋。今時の病院は事故防止のために必要最小限の期間、大抵は三日分の薬しか出さない。が、それにしたって軽い袋だった。薬が入っていたとしても三錠か四錠。
それが何かは聞かなかった。頓服の何かだろうと思った。生理通の鎮痛薬が必要な時期ではない筈だ。でも自分がよく知らない時期があって、そのために必要な薬かも知れない。だから、詳しいことは、敢えて尋ねなかった。
「昼、食った?なんかとる?買ってこようか?」
「ありがとう。食べた。……少し、眠る」
構われたくない様子に気づいて若者は、じゃあねと言って自分の部屋へ引き取る。好きだという告白をして以来なるべく家では距離をとるようにしている。焦るつもりはなかった。だってもう網の中に居る魚だ。あとはそっと、キレイな鰭を傷めないよう気をつけて水槽に移すだけ。でも、それが一番難しそうだとは、若いなりに気づいていた。
部屋で着替えながらカレンダーを眺める。そろそろいい頃だ。でも体調がおかしいならもう少し待つべきか。いやもしかしてその時期だからの変調か?優しく抱いて撫でてやれば辛そうな熱はカラダの外に流れ出るンだろうか?
分からない。昔、そういうことを教えてくれたとき、もっとマジメに聞いておけばよかった。さすがに女になった相手に本人のリズムのことは聞けない。別に恥ずかしくはないが下心がばれて警戒されると困る。
ああ、病院で聞けばいいんじゃないかと、部屋に転がって天井を眺めているうちに思いつく。婦人科は産婦人科も併設していて、腹のでかい女の付き添いに男の姿もけっこうあった。不妊治療もしているらしくプライバシー厳守でご相談に応じます無料、とも書いてあった。今度、巡回の途中で寄ってみよう。
いいことを思いついて機嫌が良くなって、若者はすーっと昼寝。夕方まで目覚めなかった。夜になって起きて、土方さんメシどうするかな、と、思って、部屋のドアを叩く。と。
「わりぃ……、食欲ねぇ、いい。……心配、すんな……」
きつそうな声が聞こえた。わかりやしたと答えドアから離れた後で悩んだ。これは踏み込んで病院に連れて行くべきか、それともそっとしておいてやった方がいいのか?
わからない。
わからないことは、分かりそうな相手に尋ねるに限る。
昼間、薬を取りに行った病院に電話を掛けた。五時近くで診察時間外だったが処方箋を出した医者はまだ残っていて、いただいた薬を服薬後くるしそうなんですが大丈夫でしょうかと尋ねる。返事は衝撃的だった。
『緊急避妊薬ですから、副作用は大抵の人に出ます。ご本人には説明しましたが……』
緊急避妊薬。
なにそれ。いや知ってるけど。
『主な症状は吐き気と生理痛に似た腹痛です。また服用後の月経時にさらに劇症の出る可能性もあります。手足の痺れと浮腫みが見られる場合も多いです。苦しんでいるようなら、避妊は別の方法をとられた方がいていかもしれませんね』
俺は昼間、薬を受け取った時も電話をかけた受付にも内縁の夫だと名乗った。だから医者も話したんだろう。
『土方さんはホルモンバランスがまだ不安定ですからピルの常用は避けた方がいいです。それ以外の方法を』
オトコのお前が気を使えよと医者は言っている。分かりました、ありがとうございますと礼を言っ電話を切る。
あーぁ、というのが正直な気持ちだった。俺のオンナにしようと思ってたのに負けた。もっとも深刻な嫉妬や胸を掻き毟る憎しみは湧かなかった。リアルな人生はドラマみたいに劇的には展開しない。負けた相手が相手だからかもしれない。
この世でこの若者がまける可能性があるのは二人しか居ない。土方・近藤という名前の二人だけ。そういえば昼間、屯所に戻ってきた近藤は上機嫌だった。この家で抱き合ったはずはないから外で会ったのだろう。
残念無念だし、惜しかったなぁとは思う。口説いたときに話してくれりゃよかったのに、とも。けれど相手が近藤さんじゃ仕方ない。年齢も近いし俺よりお似合いなんじゃないの。昔っからの付き合いだし親類縁者も殆ど知っているし、あの暴力女を近藤さんが諦めてくれるのならめでたい話だ。自分は寂しいけど。
台所で、一人で冷凍のピザをチンしてビールで流し込む。味が、あんまりしなかった。傷ついている自分を自覚する。
……あーあ。
まあでもしょーがない。自分はまだガキで、穴があいたから使いたいのかとからかわれる程度にしか思われていなくて、親も兄弟も親戚もろくに居ない頼りなさだ。近藤さんは流派の後継者として養子に入って近藤性を名乗っているが実家は宮川という、地元ではそれなりに知れた豪農の出身。土方さんちも似たようなもので、家格もよく釣り合う。
そんなことを考えていると、ずっしり落ち込んで寂しくて食欲が消えた。あ、ヤバイ。そう思った瞬間、ぽろっと涙が流れてしまう。ぽろっはすぐにぼたぼた、っになって、テーブルに置いたピザの上に落ちた。
口惜しいとか憎いとかじゃない。二人に悪意を感じてる訳じゃない。ただ寂しくて悲しくて、自分が本当に一人ぼっちなんだという、普段は感じないようにしている心細さが沈めた胸の底から感情の表面に浮かんでくる。来られたらオシマイだ。姉の死から両親の死まで思い出してしまって、こうなるともうコントロールは利かない。胸の中が寒々とした青に染まる。
ふられた。初めて女を、正気でキレイだと感じたのに。欲しいと思ったのに。多分、自分には何処かに致命的な欠陥があって、そのせいでトモダチは居ないし仲間も遠巻きで、きっとずっと、このまま独りで寂しい。
テーブルに肘をついてぼたぼた、泣いているうちにふっとまた嫌なことを思い出してしまう。伊藤鴨太郎。土方にひどく執着して挙句に裏切り粛清された真撰組のもう一人の副長。
あの秀才の歪み方は単純でバカな自分には理解できなかった。でもきっと寂しさは同じ。孤独の理由も似たようなものだろう。周囲に理解されないほどの才能は裏を返せば異質。それは集団の中で爪弾きされやすい性質。
……でも、祝福してやらなきゃ。
もう十年以上、三人でつるんで家族みたいに暮らしてきた。職場と生活がほぼ重なる日々の中、心情的には本当に家族だった。ガキの頃から今まで、生意気な自分をよく我慢してくれた二人とも。特に幼児期の近藤と姉が亡くなってからの土方は優しくて、その好意には感謝しなければならない。
俺はやっぱり、恋愛とか結婚とかは無理なのかな。色々突然変異だから仕方ないのかな。あれがダメならもう全部ダメだろう。きっと子孫は残してもらえない。
変異体だから女には避けられる。金で媚を売るはずの商売女たちからも時々、異質なものを見るような目で眺められる。女は鋭い。生殖の目的は繁殖で、妊娠する気のない女でさえ本能は鋭敏、おかしな種子を嗅ぎ分けて嫌がる。
諦めなきゃ、思い切らなきゃ、祝福しなきゃという気持ちはそのまま、ずっと一人の覚悟を決めなきゃという意味で、やっぱりそれはどうしても悲しくて、若者は暫く、ぼろぼろ泣いていた。薄暗い台所で独りで。