檻・7
薬を飲んだ日に寝込んで、翌日は普通に起きてきた。まだ食欲はないらしく、出勤の沖田に付き合ってトーストを齧っただけだったが、バターを落として蜂蜜を塗って、ホットミルクで食べてる様子はなんだか可愛かった。ちっちゃな女の子みたいで。
行ってきます、と挨拶。うん、と新聞を読みながら頷かれる。こんな風にしていられるまのはあとどれくらいだろう。近藤さんと結婚したら何処に住むのかな。新聞を持つ指が白くて、ねずみ色の紙面との対比が鮮やかだった。
玄関を開けると既に秋の気配。門の内側には迎えの車が横付けされている。単独行動を好む沖田だが格というものがあって、出勤時には国家予算の無駄遣いである3ナンバー公用車の出迎えを受ける。おはようございます、とドアを開ける運転手に頷いて後部座席へ。
車はスムーズに進んで、ああ、今日は土曜日かと思い当たる。年中無休、二十四時間体勢の特殊警察の中で暮らしていると曜日の感覚がなくなってしまう。赤信号で停車した目の前の横断歩道を家族連れが行く。若夫婦が子供を連れて、何処へ行くのか、愉しそうに笑って。
……いいなあ。
自分にはきっと与えられないだろう温かさに目を細めた。
数日後。
徹や明けの仕事が長引いて、深夜に近い夜中に帰宅した沖田は、玄関を開けるなり家の中の空気が緊張していることに気がつく。もういう勘は神がかり的にいい。物音はしなかったが真っ直ぐ浴室へ向った。
「……、」
洗面台にもたれるように蹲っていたオンナが、足音に気づいて顔を上げる。もっとも頭を動かしたせいで吐き気がしたらしく、言葉を発するより先に洗面台に顔を伏せえずく。喉から悲鳴に似た空気が漏れるだけで吐きはしなかった。吐くモノが腹に入っていない事は青白い顔色で知れた。
「あ……」
背中から抱きしめてカラダを支えてやった。そうしておいて、背中をさすってやる。医者が言っていたっけ、クスリの副作用。吐き気と腹痛、手足の痺れにむくみ。
「ごめ……、ソーゴ、触んねーで、くれ……」
具合が悪いのに触れられるのが嫌なのだろう。オンナは腕の中から逃れようと肩を捩る。させなかった。腕に掛けられたオンナの指先もスラックスごしに触れる和服の足先も何もかも冷たい。もう朝晩は冷えるのにどれくらい、暖房のない洗面所で苦しんでいたのか。
「はなし……」
「ナンにもしねーよ。あんた近藤さんと結婚するんなら、俺には主筋になるんだし」
抱いた女の体はもちろん、とても気持ちがいい。でも腕を離さないのは性的な刺激を欲しいからではない。身体が芯まで冷え切って、凍えていたことが分かったから。
「そ……、うご……?」
「じっと、してな」
背中から暖めてやる。凍えた人間には同じ人間の体温が一番移りやすい。指先を握って、足を自分の両脚で挟んで腕で支えてやる。最初は緊張して強張っていたオンナだったが、やがて心地よさに負けた。冷たい身体が温まっていくに従って力が抜け関節が緩み、やがてくたりと、全身を預けてくる。
「冷やすの、一番よくねぇんだぜ?」
この海千山千が知らない筈はないと思いながらも説教じみたことを言う。身体の弱かった姉も月の周期のたびに苦しんでふらふらして、真夏でも袷を着たりしていたのを覚えている。
「動きやすよ」
「……、ムリ」
「こんな寒いトコに居たら悪くなるばっかりだ。リビング行きましょう」
「吐く……」
「吐きゃいいだろ。カーペットぐらい取り替えてやるよ」
有無を言わせず暗い廊下をずるずる引きずってリビングへ。灯かりは点いていなくて、そっちも冷えていた。が、オンナをカーペットに転がして床暖房のスイッチを入れるとすぐに暖かくなる。起き上がろうとする肩を押さえつけて仰向けに身体を開かせた。
「……、そう……」
見上げてくる目には、かなりはっきりとした怯え。
「ナンにもしねーって。最中のオンナとヤる趣味はねぇから安心しろ」
ソレは験の悪いこととされている。ヤマトタケルが月の出た妻と抱き合って不覚をとって以来、縁起を担ぐ武門では特に戒められている真似。
「ほら力抜いて」
「……、ッ……」
「キモチイイでしょーが」
「……、ぁー……」
仰向けになったオンナの唇から細い声が漏れる。それは悲鳴ではなく心地よさの感嘆。下腹に膝を当てた男が位置を合わせてぐっと、かなり強く押してくれている。途端に悪寒を伴う性質の悪い痛みは潮が引くように薄くなる。
「ん……、っ、あ……」
マッサージを受ける時に似た声が漏れる。ゆるく、リズムをとって、沖田の膝が動かされる。圧迫を受けるたびに身体の内側で、固まってへばりついていた何かが剥がれて砕かれて通っていく、そんな感じがした。
「あ、ぁ……」
声は次第に落ち着いて柔らかくなる。それに合わせて沖田の膝にかかった力が軽くなる。やがて膝は引かれ掌が当てられる。親指の付け根のふくらみでマッサージ。
「いい……、もぅ……」
場所が、場所だ。膝より掌の接触は生々しく、オンナは再び、それから逃れようとした。が。
「諦めわりぃねぇ、アンタ。抱いちゃやらねぇよ。手当てなんだから大人しくしてろ。アンタがむかし、こーしてやれって教えてくれたんだぜ、覚えてねぇ?」
「……だった、かな……?」
「だったよ」
昔、むかし。姉が苦しそうな原因が分かってやれなかった頃。病気ではないから医者は呼ばなくていいと言われて、でもじゃあなぜ姉上は寝込むのか分からなくて困って、姉上が死んじゃうんじゃないかと不安でひどく悲しい気持ちになった幼い頃。
近藤さんに相談したら、近藤さんはちょっと顔を赤くして、そんなことは他人に言うもんじゃないと子供を嗜めた。が、たまたまそばに居た二枚目の色男は平然と、そりゃあアレだと、近藤勳が止める間もなく、はきはきと全部、何一つぼかさずに教えてくれた。
鎮痛剤とビタミン剤飲ませて、あったかくして、それでも苦しそうならマッサージしてやれ。帰りにうちに寄るなら薬分けてやるぞ、と、言われた。借りを作るのは口惜しかったけど寄って、薬をもらって帰った。土方の生家は農業の他に薬種問屋も兼ね、兄の一人は医家に養子に行って近在では知られた医師になっている。そういうことには、昔から詳しかった。
ただ沖田総悟の場合、知識は知識として、知っていて察しても口にしないでおくという知恵がない。思春期の少女に排卵日かという言葉をぶつけ、背負い投げをくらった過去もある。あの時は誰一人、助けてくれなかった。そういう知識を与えてくれた張本人さえ。
「ガキ、産みたくねぇの?うつ伏せになりな」
背中から揉んでやろうとしてそう言うと、オンナは大人しく言うとおりにした。夜着の襟元がはだけて豊かな胸の膨らみがちらり、トップの近くまで見えた。うつ伏せの背中はしなやかで、きゅっと締まった尻を包む下着の線がうっすら見える。雲形定規の一番いい曲線で描いたような膨らみに、唾がわくのは、仕方がないことだ。
でも、手は、オンナを楽にしてやりたくて動く。吐き気と痛みに苦しんで強張った肩から背中を揉みほぐしてやる。肩甲骨の内側をぎゅっと押すと気持ちよさそうな息を漏らす。肘を掴んで、ストレッチみたいに左右、交互に引っ張ってやると表情を緩め、笑みさえこぼした。
「きもちいい?」
「ああ」
「ならよかった。けどさぁ、毎回、こんな風なのって、カラダに随分、負担かかるんじゃねぇ?」
苦しそうなたびに痩せていた姉を思い出しながら、若者はオンナに言う。まだ、自然な時期ではない。これは薬の副作用による出血。それ以前も時期はぐちゃぐちゃだった。初めて、ではないことを若者は察した。
健康な女なら年に一度や二度はまあ許容範囲の『調整』だが、まだホルモンが不安定なのに、こんなことを繰り返すのは、どう考えてもムチャだ。不自然だから、余計に苦しいのだろう。
「ガキ、産みたくねぇの?」
「……近藤さんに聞いたか?」
「そうじゃねぇけど、気づくよ」
「産みたかねぇな。怖い」
「キモチわかるけど」
オンナにまだなったばかり、体の変化を心は受け入れきれていない。そんな状態で更なる衝撃は恐ろしいだろう。
「近藤さん、避妊、してくんねぇの?」
「……」
「まぁ、あの人はそういうカンジだけど」
あまり女に気を使う性質ではない。そういうことは女が考えることだと思っていそう。母親が早くになくなって、女兄弟も居なくて、女人禁制の道場で暮らしてきた人だ。豪気と言ってしまえばそれまでだが、血を忌むような、悪い意味での武門の潔癖さが、ある。
好色や愛情とは違う次元に、ある。
「あんたがこんなに苦しんでるって、知ったら考えてくれんじゃねぇ?あんたから言いにくいンなら、俺が話してやろっか?」
背中の凝りが酷い。痛みに長く耐えていた証拠。可哀想すぎる。
「あんただけこんなに苦しんでんのは不公平だよ」
俺ならこんなことさせないよ、とは、言わないでおいた。
「古武士気質もことによりけりだ。いい加減にしねぇと、あんた、ほんとに体壊しちまう」
古武士なら結婚前にエッチすんじゃねーよ、という、非難が心に浮かびそうになったのは押し殺した。
「総悟」
近藤さんはいい人だ。でもこの人は苦労するかも知れないな、と、若者はふと思う。女が男に従うことを当然と思っている。だから、もてない。
「近藤さんには黙っててくれ」
あぁ、言わなきゃならないな、と、若者は思った。後でこの人に怒られても嫌われてもいいから言わなきゃ。子供の頃、きちんと教えてくれた恩がある。
「薬、飲む?」
「いや、いい。……おかげで楽になった」
「眠れそう?」
「ああ」
「じゃ、俺、部屋に帰るけど。おやすみ」
ゆっくり休ませてやろうと思ってリビングを出ようとする背中に。
「……総悟」
女が、それまでとは違う口調で声をかける。
「へい」
「ごめんな」
俯いて座り込んだオンナに、何を謝られているのか、若者は正確に察した。
「いいえ。お休みなせぇ」
「……おやすみ」