檻・8

 

 

 目が覚めたとき、何も見えなくて、しんだかな、と一瞬だけマジメに考えた。一瞬だけだったがマジメに。眠る前に、死ぬかなと思ったから。

 違うのはすぐに分かった。すぐそばに人の気配がした。

「明かり、点ける?」

 尋ねられる。ああ、と、言ったつもり。声は出なかった。出なかったのに察してくれた。枕元のライトのペンダントが素早く二階、引かれて、そこからぼんやりした明るさが部屋の中に広がる。

 病室だ。通ってる病院の個室。何度か泊まったことがあったから分かった。横に居る相手に悪いなと思った。こんな歳若さで、婦人科に入院したオンナの付き添いは恥ずかしいだろう。

「だから俺、そーゆーの気になんねぇ性質だって」

 オンナの顔色を読んだ若者は苦笑する。そうしてオンナの頬にそっと触れた。ベッドの横に置いた椅子から立ち上がり、屈みこまれる。まだぼんやりしていて体も動かなくて、キスは避けられなかった。

「喉かわいてる?茶ぁ飲む?自分で飲める?」

 重なるだけのキスだったけれど、唇が熱をもってかさかさなのに気がついた若者はベッドの横に置かれたポットでぬるめの茶を煎れてやった。電動ベッドの上半分を起こして、女の姿勢を変えてやる。このテのベッドの操作は慣れていた。姉がよく入院していたから。

 茶碗に何度か入れ替えて、さました茶を差し出す。渡すとき、慎重に様子をみた。持てないようなら吸い口で飲ませてやろうと思った。でも平気そうに受け取ってごくごく、という勢いで飲む。さすがに姉とは基礎体力が違う。基本の健康さも違う。

 そうだ、基本的に、これはこういう人。心身ともに健康、二日酔い以外の病気は何年もしたことがないような人だ。風邪もろくに引かない。咳をしていても気合とやらでホントに直してしまう、無茶苦茶な体質。

「あんたもう自由だよ。俺が勝った」

 若者は、事実をシンプルに告げる。

「代わりに俺と寝ろとかは言わねぇから安心しな」

「総悟」

「別にあんたを好きだからやったんじゃねぇから。恩に着なくっていいから。俺はただ、具合悪い女が医者にも診せてもらえねぇで閉じ込められてるなんて、我慢できなかっただけだから」

「近藤さんを、悪く思わないでくれ」

「あんたにも、俺ぁけっこう、腹立ててんですぜ」

「俺が悪かったんだ」

「そーだよ。あんただって悪ぃよ。あんなことさせやがって。嫌ならいやって自分ではっきり言って拒否れよ。三回黙ってたら合意だったことになるんだぜ。バカ」

「お前にも、悪いと思ってる」

「……」

 全くだよびっくりだよもっと真剣に謝れよ、と。

 昔なら言った台詞を若者は飲み込む。からの湯飲みを両手で包んで毛布の上に置いて、俯くうなじが、細くて、白い。

「近藤さんと、喧嘩をさせて、しまって、悪かった。仲直り出来そうか?」

「なんで、あんた、あんなことさせてたの」

「俺が悪かったんだ」

「それはもう聞いた。どう悪かったのさ」

「……全部悪かったんだ」

「なにがどう全部。あんな真似されて当然の悪さってのは、滅多にないと思いやすぜ」

「そんなに深刻に考えるな。たかがセックスだ」

「合意の上ならね」

 していること自体を非難する気はなかった。成人済みの独身同士が合意の上で、ナニをしようが、他人が口を挟むことではない。いや、仕方があんまりオンナの負担になっていたから挟んだが、気になったのはやり方で、やっていた事実ではない。

 でも。

「嫌がってンのをそーすんのは、レイプって言わないっけ。そーゆーのは、まともな男がやっていい真似じゃねぇと俺ぁ思ってンですが、違いますかね?」

「嫌って言わなかった俺が悪いんだ」

「見りゃ分かるだろそんなのは。近藤さんに徹底的に弱いあんたもバカだけど、つけこむ近藤さんはもっと悪ぃよ」

「あの人を悪く言わないでくれ」

「言うよ」

 若者の怒りはまだ収まっていない。

「いくらあんたがもと鬼副長だってひでぇよ。今はオンナの人なんだぜ。ってぇか、男でも女でもレイプはレイプだろ」

「総悟」

「俺ぁ謝んねぇし、仲直りなんかするつもりとかも全然ねぇから。女に乱暴するような男とは縁切りだ。正直、ツラも見たくねぇ」

「総悟」

「別にあんたを好きだからじゃねぇよ。されてたのが全然知らない女でも俺ぁ同じことしやしたぜ。あんたの為でもなんでもねぇから、あんたが口を出すんじゃねぇ」

「誘ったのは俺だ」

「白々しい大嘘つくんじゃねぇ」

「本当だ。最初は俺が誘った。遊んでみるかって、武州で」

「……」

「まだ混乱して、少し自棄になってて。見舞いに来てくれた近藤さんがキレイだキレイだってあんまり褒めてくれるから、気に入ったなら遊んでみるかって、俺が誘ったんだ」

「……ふぅん」

 ウソには聞こえなかった。いかにもこの人が言いそうなことだと思った。ネコとしてはけっこう年期の入った性悪。悪いところがかえって艶で、魅力になって、もてていたのを若者も知っている。当時は興味がなかったけど。

「こんな風に、なるなんて思ってなかった。俺が悪かった」

「こんな風って?」

「……こんな風だ」

「こんなに執着される筈じゃなかった?」

「……」

「バカすぎんじゃね?鏡見てみろよ」

 俯く女の手元から、若者は湯のみを取り上げる。

「あんたマジきれーだから。こんな別嬪と遊んで、クセになんねぇ男なんか居ねぇんじゃないの。あんたがそういうこと、知らないとも思えないンだけど」

「八つ当たり、したかもな」

「かもなじゃなくってしたんだろ。近藤さんが無神経でムカついたんだろ。あんたバカだよ。……でも悪かぁない」

「近藤さんが悪いんじゃないんだ」

「わりぃよ、どう見ても。結婚した女房にだって無理矢理エッチしちゃいけねーんだろ?あんたの遊びは趣味悪ぃけど合意の上だろ?レイプじゃないんだろ?なら、一回二回、寝たからって人生かけて責任とんなきゃいけねぇって法はねぇ」

「出血、してな」

「バージンのくせに大胆だねぇ」

「生真面目な人だから、責任とらなきゃって思い込んだんだ。結納持ってこられて、実家と姉夫婦に、バレた」

 生家は故郷では知れた豪農。姉夫婦はさらに名家で、土地の宿場名主を務める家柄の名士。近藤勳の道場の後援者でもある。

「俺にはそんなつもりはなくて、近藤さんにはそう言ったんだが分かってくれなくて」

「……聞く耳もたなかったのマチガイじゃねぇ?」

 自分一人で勝手に決めたことを相手に押し付け逆鱗に触れる。そういう振られ方をしたのを何度も見た。知らない女相手なら、不器用なお人だなぁと微笑ましくさえ思えた。

けれど女の身になってみれば笑い事ではない。

「困ってたら、故郷では、俺が嫌がってんのに近藤さんが無理矢理、って話しに、なっちまいかかって」

「あんたの身内は、あんたが可愛いだろうからね」

「妙な雰囲気になりかかったから、こっちに出てきたんだ。それで、余計に、近藤さんに、余計、勘違いさせちまった」

「あんたが自分をスキだって?そりゃ勘違いでもなんでもないんじゃねぇの。もっとも、セックスは、したくなさそうだったけど」

「近藤さんが悪いんじゃねぇ。お前は誤解しないでくれ。俺が悪いんだ。嫌って言えなかったんじゃない。近くに住んで時々寝てれば身内の誤解もとけて、近藤さんもそのうち飽きてくれるって、思ってた」

「泣いてたくせに」

「いつもじゃない。いつもは、もっと……。あんなのは、初めてだった。俺とお前を疑って、近藤さんは怒ったんだ」

 不義密通は武門のご法度。発覚すれば家の面目がつぶれるからその前に処罰するのが定法。

「まだ結婚してねぇのになんで不義とかになんの?この期に及んで庇おうとするんじゃねぇよ、バカ。浮気されたと思って頭に血が上ったってだけじゃん。俺もバカだけど誤魔化されねぇぜ。恋人だろうが女房だろうが、女にあんな真似する奴ぁ男じゃねぇ」

「総悟」

「寝ろよ」

 若者はベッドを操作して、諦め悪くまだ何か言おうとするオンナを寝かしつけた。

「あんたなんにも心配しなくっていいから、寝な」

 ずれた毛布を喉まで引き上げて、枕元の明かりも消してしまう。

オンナは仕方なくベッドの上で姿勢を楽にした。そのまま、暫く、部屋には沈黙が落ちた。そして。

「家に、帰らないのか?」

 ベッドの横の椅子に腰かけたまま、出て行こうともしない若者に向ってオンナはどうするのかと問う。

「居させろよ。それで眠れねぇほど神経、細くもねぇだろ」

細くはないが気にはなる。

「風邪ひくぞ。眠れないだろう?」

「俺ぁあんたより神経細いんだよ。一人で家に帰ったってどーせ眠れねぇよ」

「ごめんな」

「別に、あんたが悪いんじゃねぇ」

「驚かせちまった」

「……」

「ここで寝るなら、横に来い。寒いだろ」

「なに言ってんのあんた」

「今日はもうなんにも考えるな。ゆっくり、眠れ。近藤さんに誤解されて怒られてびっくりしただろ」

「別に」

「そうか。俺は最初、凄くびっくりした。近藤さんと、寝たら豹変されて。わりとちやほや、されてばっかりできたから、亭主関白っていうか、威張られるのには馴れてなくって、どうしていいか分からなかった」

「……」

「俺たちは随分ながい付き合いだったが、知らないことも、色々たくさんあったな」

「あんたが実はバカだったのには、ちっと驚きましたけどね」

「俺はお前が女に優しいのに驚いたよ。……来い」

「ひっぱんねぇでよ」

「遊んでやるぜ。近藤さんと仲直りするって約束するならな」

「あんたも、つくづく、懲りないね」

「近藤さんは誤解されやすい人だ。お前だけでもそばに居てやってくれ」