血が散った。白い障子に、ぱつぱつと。

 赤くは見えなかった。夜だったから。色彩を奪う月明かりの下、その血飛沫は黒い点に見えた。びゅ、っという一振りの太刀風は鋭く、飛沫はほぼ垂直にかなりの距離を飛んだ。

「……晋坊……?」

 夜更けの、行灯も消した部屋へ踏み込んでいた狼藉物を撃退した剣客は素晴らしい腕をしている。しているのも当然、維新戦争の若手では指折りの技量だ。武者修行に出てきた江戸で有名道場の塾頭を務め、その過程で桂小五郎と出会い、その情熱に引き込まれるまま時流にも乗って、客分ながら相当の指揮を任されている、豪快な気質のその男は。

「おまん、なして、がいな……?」

 賊を殆ど、反射神経で斬った。その後で賊の正体に気づき、すぐに刀を手離して。

「誰か、来とぉせ、けが人じゃあ、おどろいとぉせぇ、ヅラぁ、金時ぃ、医者を……ッ」

 起きてくれ、と、思わずこの陣中では殆ど通じない故郷の言葉で大声で喚く。刀を棄てた腕には自分が切りつけてしまった相手を抱いていた。まだ少年のような細いその肩にも、左目から血が黒く滴って染みをつけた。

「しっかり、気をしっかり持つがや、晋坊ッ」

 殆ど泣き声で腕の中の相手を励ます。けれど本当にしっかりしなければいけないのは怪我人ではなく怪我を負わせた剣客。手傷を負った『賊』はしっかりしていた。証拠に刀を、畳に打ち倒されてもまだ右手にはちゃんと握っていて。

「……ッ」

 受けた傷を押さえていた左手を目から外して、どんと自分を抱く相手を押し退ける。近すぎて邪魔になったなら。

「動くなや、晋ぼ……」

 自分に向って伸ばされた男の右手に、斬りつける。

 血は、今度は垂直に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 芳しくなかった戦況がようやく落ち着いて、小康状態を保った途端の刃傷沙汰だった。

「えずいのぉ」

 右手の親指の、つけねをぐるぐる包帯で巻かれて、大柄な男は力なく肩を落とす。医務室で、手当てが終わるなり医師を下らせて、行われたのは、事情聴取だった。

「しょうえずいぜよ」

「すごく辛いのは俺の方だ、坂本」

 夜着に羽織を引っ掛けて、同じく寝巻き姿の戦友、長年の馴染みに向って詰問する桂小五郎の、顔色も青い。

「晋坊は?どうしちゅうが?怪我はどげんかよ?」

「金時をつけて後送した。傷害の現行犯だし、ここで手当てを出来る傷ではなかったからな。貴様も朝になったら町医者にレントゲンを撮ってもらえ。指の傷は、処置を間違うとあとをひく」

「めっそーがいにづきなや」

「庇うのは、貴様に負い目があるからか、坂本」

 桂の口調は詰問。それも仕方のないことだ。桂小五郎。故郷では名家といえる家格の家に生まれ、幼い頃から文武両道に励み神童の評判も高く、二十歳を越えた現在も非凡な将才を買われてこの中隊の指揮権を与えられている、幹部。

 戦時には、指揮官は部下に対して司法権を持つ。それが客分でも仲間でも例外はない。

「高杉は、貴様に性的虐待を受けたと言っている。認めるか」

「づつないのぉ。たまらんぜよ」

「たまらなく辛いのはこちらだ。認めるのだな?」

「晋坊がのぉ、いやちゃあ、ゆわれんかったがや」

「交戦中だったから我慢していたそうだ」

「わしゃあ、しょうわりぃことをしたぜよ」

「……全くだ」

 それまで、辛うじて。

 額に青筋をビキビキたてつつも、冷静に話そうと努力していた桂が、その努力を放棄した。

「貴様、あれが幾つか知っているか。まだ十五だ。どうして、あんな子供に、そんなに酷いことが出来る……、悪魔めッ」

 桂と同様、重臣に準じる家に生まれ、父親が病気で軍役を務められないから代理で、家門の栄誉のために戦場へ出てきた。ガキの頃からしたたかな気性で口が達者で周囲を唆すことがうまく、一部の兵士から既に親衛隊じみた支持を受けているとはいえ、元服は済んでいるとはいえ、まだ。

「もぅ、ちゃがまるかのぉ」

「切腹しろ。介錯はしてやる」

 冗談の気配もなく桂は刀をすらりと抜いた。

「貴様の首を持ってあれの父上母上に詫びた後で、俺も腹を切る」

「ごっつい、いとおしかったぜよ」

「だからといって強姦していいという理屈はない」

「いとおしゅうて、ひとに渡しとぉなかった。嫌がる事は、せんじゃったつもりじゃが、晋坊はえずかったかのぉ」

「レイプされて嫌がらないわけもなかろう。合意の上だったという釈明なら聞かんぞ」

「本番は、まだしちゅうない。ほっそかったがに、やんた。晋坊が十六になったら、生身ばいだいて、寝るがて、言うちょった」

「……なんだと?」

「抱いたが、服の上からやったがに、そげにいやちゃ、気のつかんじゃった」

「……」

「ちゃがまるかのぉ。(壊れてしまうだろうか)えずいのぉ」

「……貴様が、泣くな」

「晋坊、目ぇはどかいかいな。まさか晋坊ちゃあ、夢にも思わんちゃ。わかっちょったら、斬られてやったぜよ」

「失明する」

 桂は酷い事実を端的に告げた。たった十五で、あの子は生意気なよく光る目を片方なくす。

「わしの、片目ば、代わりに嵌めちゃってな」

「無理だ。網膜だけではない。眼球が切り裂かれていた」

「そげに、いやなら、なして、言うてくれざったかのぉ」

 斬りつけられたことがショックなのではない。

 それほど嫌がることを、してしまったのだしという事実が。

「づつのーて、たまらんぜよ」

「高杉の正当防衛を認めるか」

 桂の確認に、こくりと、男は頷いて。

「わしゃあ、しょうわりぃことをした。めっそーがいにづきなや。

(あまり叱らないでやってくれ)」