昔みた夢・3
軽いが堅い、音が薄暮の部屋に響く。
なんだろう、と思って目を開けた。初夏とはいえ、夜明け前はまだ冷える。肌触りのいい綿毛布を顎まで引き上げられていて、やわらかな羽枕に頭を預けていた。ちゃんとパジャマまで着ている。そういえば夕べ、腕を上げろとかこっちを向けとか、夢の中で言われたような気がする。あのときに着せられたのか。
着せてくれた男は隣に居ない。窓際で、また音がする。そっちを向くと、パジャマの下だけを穿いた男が。
「……、あ、すんません。起こしましたか」
申し訳なさそうに言って戻って来る。いや、そういうわけじゃない。確かに時刻は早朝だが、夕べは食事を済ませるなり二人してベッドにもぐりこんで、随分長く遊んだがそれでも、眠ったのは早い時間だった。だから自然に、目が覚めただけだ。
「……寝たまま吸っていいんだぞ?」
昨夜の『現場』はいつもの奴の部屋ではなく、天蓋つきクイーンサイズのベッドが置いてある俺の寝室。持参の灰皿とともに、男は窓際に離れていた。自分の部屋ではベッドで、朝は目覚めの煙草を吸ってると、知っていたからそう声をかけたんだが。
男はなにか、都合のいい誤解をした様子でいそいそ、灰皿を持って近づく。寂しいから来いと言ったと思ったのか?そういう訳じゃなかったが、まぁ、暖かいから、そのままそばに居ろ。
男はベッドに腰掛けて俺の、前髪を梳いた。
「朝のあんたの髪って冷たいですよね」
そうか?
「さらさらで、柔らかくて、気持ちいい」
片手で肩を抱かれて、懐くみたいに頬を寄せられた。朝は歯を磨くまで俺にキスはしない男。煙草吸ってますからねぇと、いつだったか、理由を訊いたら照れたように答えた。俺に嫌われることを怖がる、お前は本当に可愛い。
暫く俺の髪を撫でてから、男はもう一度、さっき聞いた音をたてた。堅くて軽い、ライターの発火部をシュっと指先でかみ合わせ火花を出す、それがなかなか、うまくいかないらしい。
「……、チクショ……」
吸いたいのだろう。低いが、かなり真剣な呟き声。
「マッチでいいなら、引き出しの中にある」
「え、ナンであんスか」
「手紙に蝋封をするときに使うんだ。大総統に親展で出す時は、中身を偽装されないように、総統府の特製の蝋とマッチを使う決まりに……、右奥の箱だ。銀細工の」
ごそごそ、俺の机を漁る男に指示を出し。
「開きませんよ」
「当たり前だ。そう簡単に開けられてたまるか。持ってこい」
「うわ、見た目より無茶苦茶重いですね。きすが銀。あんたの時計も、かなりズッシリだけど」
「そこに置け」
枕もとの棚に置かせて、指先で鍵穴を叩く。錬金術のロックが錬成反応の発光とともに開いて、中から現れたのも銀のマッチ箱。総統府の紋章の浮き彫りに男が躊躇う。俺は手を伸ばし、箱の側面の、持ったとき指が当らない場所に貼られた鮫皮に先端を立てて、擦った。
「ほら」
手元で小さな焔がゆれる。男は慌てて煙草を咥え、先端を火に当てて吸い込む。煙草の先が赤くなって、男が顔を離し、俺はマッチを振って火を消した。白檀の香りが薄い煙とともに、部屋中に漂う。
「……いい匂いですね」
「軸が香木だ。人によって香りが違う。それと印と、署名とで、本人確認をされるのだよ」
「うわ……」
「どうした」
「俺、今、もしかして凄い贅沢してます?」
煙草の煙を吸い込んで吐きながら、男は物凄く嬉しそうに笑う。うす暗い部屋の中が明るくなった気がする。そんな全開の微笑み。
「東方司令部の焔の大佐から、大総統に行く手紙のマッチで煙草吸ってますよ今。贅沢だなぁ」
うきうき喜ぶな。こっちまで笑ってしまう。俺は燃え残りの軸を枕もとのテッシュで包み、箱の中に戻した。これはリザにやるんだ。部屋で焚くといい香りがするらしい。そのへんの店で売ってるのとはさすがにモノが違ってて、香りがすっきりしてよく残るらしい。
「壊れたかなぁ。買ったばっかなンすけど……」
煙草を味わいながら箱を戻し、若い男は俺のそばまで戻ってきてライターを弄る。俺は煙草を吸わないからライターのことなんかは分からないが、愛煙家のこいつが煙草を吸う道具だけは凝っていて、自室のも職場のも灰皿は重いクリスタルガラスで、ライターも使い捨てなんかは決して使わないってことは、何時の間にか知った
発火部のカバーをずらせば自動で着火され炎が出るイグナイター・タイプは大嫌いで、フリントホイール(火打石のローラー部)を指先で擦る、あの手ごたえのメーカー別のチガイをいつだったか、長々と聞かされた。話の内容には興味が無かったが、楽しそうに喋るこいつの、珍しい美学に触れる気分で抗議を拝聴した。
「手が湿ってるんじゃないか?貸してみろ」
受け取って擦ると、指先になるほどいい感じの摩擦があって、小さな焔が。
「……あれ?」
見ていた男が受け取り、自分で擦ってみる。何度やっても、焔はうまく出ない。
「チクショ……、なんで。もうッ……」
諦めてライターを放り出すのを、シーツの上にもう一度、崩れながら眺めた。夜が明けていく。今日もいい天気らしい。
「晴れますよ。あーぁ、大雨で土砂降りで、落籍事故で汽車が止まれば良かったのに」
「まだ言っているのか。勘弁だ。葬儀に雨が降ると大変なんだぞ」
「そりゃ分かってますけど」
平時でも軍人は傘をささない。降ったら濡れているしかない。
「ちなみに大佐、知ってます?」
「なにを」
「煙草にうまく火が点けられない男は、前の晩に悪いことしたんだっていいますよ」
「罪悪感で指が震えるほど、君はカワイイ男かね」
「イエッサー。あんたの前ではね」
吸い終えた煙草を消してキス。ただし、唇ではなくて。
「……、こら……」
前夜、散々に、飽きず愛された皮膚はまだ男の手と唇を覚えていて、触れられると、すぐに馴染んだ。目を閉じてその感覚を受け入れる。甘くて優しくて暖かくて、大切にされて安らぐ、セックスを。
「やめろ……、くすぐったい……」
首筋からゆっくり降りて胸元にじゃれつく愛撫を、咎める口調は本気ではなくて、調子に乗った飼い犬はますます懐いて、主人が好きな、
「……、ん……」
弱い右の腋の下と、そのすぐ近くにある胸の突起を、嘗め回す。
「……、ふ……」
いい気持ちらしい。寝起きでいつもより感じやすい身体を嬉しく焚き締めながら、男はいそいそ、穿いていたパジャマの下と下着を脱ぎ捨てる。そうしても抗議がこなかったから安心して、主人のパジャマも本格的に剥いた。今日からこの人は中央司令部へ行く。若い頃には直属だったこともある将軍の葬儀に出席するためだ。お供は中尉で、自分の同行は許さなかった。
自分の中隊が市内警備の当番月だから、って、理由を説明されたけど、本当はそんなんじゃないことはわかっていた。葬儀委員長は同期の、なんとかという将軍で、その下で実行委員している男の名前が気に障って仕方がない。マース・ヒューズ。本来は呼び捨てにすることは許されない、何階級も上の男。でもそれだけじゃない。
抱いてる人の、昔の男。
「……指が震えるんじゃないんですよ」
わざと音をたてて吸い付きながら喋る。可愛らしく震え出した肌は欲望に正直に、男の前に自分から差し出される。
「悪いことすると、誰かに怨まれて、それで火が湿るんだって」
「してるのか、わるいこと……?」
「んー。凄くいいことなら。宝石みたいな人のこと抱いてますよぅ今。声きれいでね、ちょっと時々イジワルだけどたまーぁには優しくてね、肌が吸い付くみたいで凄く気持ちよくってね、抱き締めて挿れて揺すってると、天国に居るみたいに気持ちいーの」
「……、ははッ」
「笑わないでよ。ホントのことなのに」
「君のその口のうまさに、騙されて泣いてる女性が居るんじゃないのかね、少尉」
「口がうまいのもうまく誤魔化すのもあんたの方ですよ、大佐」
「……、ん……ッ」
「「俺は品行方正です。自分で言ってて情けないくらい、今あんただけだ。……あいつがあんたのこと思い出してんじゃねーの?」
「ハボ……、イタ……ッ」
「……浮気、しないてね……」
あのオトコの事を俺は嫌いだ。大嫌いだ。中尉に警戒されて、近づけるべきじゃないと判断されるほど嫌い。中尉は知らないんだきっと。彼女は女の人だから分かってない。この人を『抱いてる』自分にしか、分からないことがある。
この人は抱くと逆らわない。なにもかも自分から差し出す。苦しそうなのに腰を浮かせてリズムにあわせてくる。横暴な男に馴らされた反応は、都合がいいんだけど悲しい。両手で押さえると怖がって竦む。こんな風に男に怯えるほど、あいつはこの人を好き放題にしていたのだと、思うと。
「あんたがあいつに、ナンかまた、させたら」
愛しています。大好きで大切です。だからあんたに随分な跡を残してる、あの男の事が憎いんです。あんたに躾けられておさめた牙は、隠してるだけで折れてる訳じゃない。殺されたってあんたには噛み付かない。でも、あんた以外には。
「……軍人辞めて、殺しに行きます」
「怖いな」
「あんたをじゃないです」
その発想がね……。
悲しくて、可哀想なの、俺は。
むかし、あいつに、ずいぶん、苛められたんだろうなぁ、って。
……分かるから。
「殺してあげるよ……?」
挿入は、しなかった。朝だったから。でも、してもこの人は逆らわなかっただろう。ベッドの中じゃ別人みたいに、従順で大人しい。俺を信用してるんじゃないね。虐待された挙句に逆らわないのが一番賢いって、気付いて、それで、こんなに『いい子』にしてるんだ。
なんでも好き放題、やりたい放題できるのがこんなに悲しい、俺はおかしいですね。でも本当に悲しいんですよ。
「裏切られたんでしょ?悔しいんでしょ?殺してあげますよ」
擦り合わせて一緒に昂ぶって吐き出した。余韻に震える背中を抱いて、耳元に囁いた台詞は本心から。でも。
「情熱的だな……」
くすくす、彼は笑う。もっと笑って。あんたが笑ってると安心するから。大好き、だから。
「昔話なんだ、全部、もう……」
そんなの信じられない。色恋は薬物中毒と同じ。隔てられてた時間には関係なく、再開は止まってた地点から、突然また流れ出す。「お前が思ってるほど、あいつは悪い奴じゃないんだ」
ほら、ねぇ。
やっぱりあなたは、あいつを好きなの?
なんで、庇う。
「……証拠に今の奥方とは、円満にうまくやってる。俺と、相性が悪かった、のさ……」
言って、疲れたのか、すーってもう一度、眠る人に毛布を掛けてあげながら、俺は切なくて泣きそう。
あんたにこんなに傷跡を残してる、あんな悪党を、どうしてそんな風に庇うの。