昔みた夢・8

 

 

 

 

 グラン准将の業務の、引継ぎというか、下準備というか、整理には時間がかかった。国家錬金術師の職務は機密が多く、資料もところどころ抜けていて、さぁこれをどうやって引き継げばいいのかと、若い大佐に溜息をつかせる。

 三日程度の滞在の、予定が一週間近くに延びた最後の夜、若い大佐と副官は思い切りめかしこんで、セントラルで一番高いレストランの個室におさまった。誘ったのは大佐で、このままではセントラルに嫌な印象を抱いたままになると、かなり強硬に副官を誘って、そうとう無理に副官に新しい服を買い、メニューも見ずにシェフのおすすめと、一言。

 お勧めの食事をしてワインをあけ、銀のトレーに乗せられた勘定書きにチップを上乗せした金額を小切手に書いて、支配人に見送られ夜の繁華街を歩く。そっと副官の肩を抱き寄せると、副官は嫌がらず、男に寄り添った。そうして通りかかった店のショーウィンドーに、素晴らしい大粒のサファイアを見つけて。

「君に似合いそうだ」

 優しい声で男が言った。女は男の優しさを受けて、そうかしらと答える。とてもきれい、そう、言ったのは雰囲気をあわせただけ。本当はサファイアより鋼鉄が好きな嗜好だった。が。

「入ろう」

 肩を抱かれたまま、洒落たドアを押して店へ入る。来客の服装を見て店主らしき男は、丁寧な物腰で椅子をすすめた。が。

「いや、欲しいものは決まっている。ショーウィンドーのサファイアを包んでくれたまえ」

 まるで花束か、せいぜい通勤用のスーツを買うような気軽さで、若い男は言ったがその宝石の値段は、かなり無茶苦茶にゼロが多かった。

「……、ロイ。困るわ、わたし」

「重くて持てないなら、私が運んであげるよ」

「ロイ」

 軽い言いあいの間に店主は、宝石箱に納めたサファイアを鄭重に包装して差し出した。受け取り、男は女の肩を抱いたまま出て行く。代わりに置かれた小切手はその店の一月分の売上に相当したため、店主はそれを慎重に、奥の金庫に納めに行った。

 

 ワインを二人で一本あけて、そのせいで少し、足もとが軽い。酔ったというほどでもないが浮いた気持ちで女と手を繋いでセントラルの繁華街を歩く。女は黙って一緒に歩いていた。今夜は軍の宿舎でなくホテルをとっている。家具と夜景が素晴らしい部屋を。

「……ロイ」

 何かを考え込むように黙っていた女がそっと、珍しく赤く彩られた唇を開いて。

「なにかな?」

 男に呼びかけ、足を止める。セントラルを東西に分断する、大きな運河にかかった橋の上。両岸にはガス燈が揺らめきながら連なり、少し霧の出て来た夜。幻想で、映える。

「……宝石は手切れ金?」

 その背景を従えた女の美しさに、うっとり魅入っていた男は女の台詞に目を瞬かせた。なにを言い出したのか分からなかった。

「……なんだね、いきなり」

「こんなものでは、私は嫌です」

「待ちたまえ。リザ。そんなつもりでは」

「約束してくださった。それを守ってくれなければ、イヤです」

「君と別れるつもりなんかないよ」

 夜霧の、運河の橋の上。かすかに水の匂いが届く石畳の歩道。恋を語るにしろ終焉の幕を引くにするにしろ、なかなかいい演出の場面だったが、その場の二人に景色を愉しむ余裕は失われて。

「なんでいきなりそんなことを言い出す。怒っているのか」

「だってあなたの態度がおかしいから」

「おかしくはない」

「おかしいです。いきなりこんなこと」

「いつまで一緒に居られるか分からないじゃないか」

「やっぱり別れるつもりなんじゃないですか」

「違う」

 珍しく、正面からの言い争い。

「違うんだ、……中尉」

 そして珍しく、話を理論だてて整理してみようと、言葉を切ったのは男の方だった。いつもはその役目を引き受けてくれる女が、俯いたまま、顔を上げなくなったから。

「違うんだ、中尉。……こっちへ」

 人通りは少ないが全くないという訳ではない。週末の午後九時、ドレスアップした恋人同士や夫婦、幸せな家族連れが行き交う橋の上で二人、これ以上の話をすることも憚られて。

 焔の大佐は副官を、橋を渡り終えた路地に連れ込んだ。狭くて暗い裏路地に来ると、そういう事をしなければいけない気分にもなって、熱心なくちづけ。口紅に使われていたのか香水の、いい香りが、鼻腔をくすぐり、夜霧ととけあっていく。

「……不安にさせてしまって、すまない」

 とにかく最初に、謝って。

「でもそんなつもりはなかった。ただ、何時まで生きていられるか分からないんだから、好きな女にはさっさと、貢げるものは貢いでしまおうと思った。それだけだ」

「嘘。棄てるつもりよ、私を。セントラルに来るのでしょう、あなたは、近々」

「そうだね、来ることになる。君も一緒だよ」

 男は困っていた。いつもはしぶとく、ふてぶてく、腹の据わったこの副官が、おかしい。でもさういえば最初からおかしかった。グラン将軍の葬儀が行われると、あいつが電話で知らせてきた時から。

 あぁ、そうか。

「尋ねる機会がなかったが」

 嘘だった。

「……はい」

 何があったか分からなかったから、彼女の方から言い出すまでは沈黙を続けていた。言いたくないなら、永久に聞かないつもりで。

「軍法会議所で、君はどういう扱いを受けたのかな」

「ケーキを七つ、いただきました」

 その答えにほっとする。酷い目にあっていなくて、良かった。

「あと、オレンジの生ジュースと、紅茶を何度もポットで。食事は食堂で作られたらしいサンドイッチに、ハチミツとカッテージ・チーズを添えられたスコーンと」

「私は少し、取調べを受けたよ」

「……お察しいたします」

「一通りだったがね。そこで思ったんだ。何があるかは、分からないものだと」

 いつ、軍隊内の政争に巻き込まれて、命を消されるか分からない。

「君に何も、してやれなかったなと、思った」

 愛している女だが妻ではない。俺には地位に相応の資産があるし、死ねば家族には恩給が与えられるが、それらを受け取る権利は、この女には、ないのだ。

「心残りを、残して死にたくないからね」

 受け取ってくれと言いながらポケットの宝石箱を渡す。指輪ではなくてネックレス。値札に書かれたゼロの数では、愛情は表現できない。でも感謝の証拠にはなるだろう。

「駄目かな?」

「……いいえ。ありがとうございます」

 受け取ってくれた女はそれを、肩からかけたバッグの中に納める。ちらっと、小型の改造拳銃も見えた。

「ヒューズ中佐と」

「……ん?」

「お話し、なさいましたか」

「……少しね。どうしてそんな顔をする?」

 答えた途端、本当に泣き出しそうに悲しい目をして。

「わたしを棄てないで」

「君が何故、そんなに不安がるのか分からないよ」

 本当に分からない。ともかく、ハンカチを渡して涙を拭わせるつもりが、それを女は顔に押し当てて本格的に泣き出してしまう。もう、どうしたらいいのか。

「棄てないで……、引き離されるの、いやです……」

「君がそばに居てくれなくて、私がまともに生きて行けるとどうして思うのかな」

 公私共に、随分な迷惑をかけている。

「ずっと一緒だよ」

「……、うそ……」

「どうしてそんなことを言う」

「……あなたが中佐を好きだから」

「それは間違っているよ、リザ」

 それは間違っている。本当に違うんだ。

「あなたは中佐のことだけ好きなのよ。愛しているんだわ、今も」

「違うよ」

 違う。あれは傷口。ただそれだけのこと。第一、あれはもう結婚して、奥方に可愛い娘まで居るんだ。不倫は嫌いだ。こっちが悪かったことになる。あいつの方がどれだけ強引に出てきても、妻子を承知でのればこっちが、どうしても悪役。

 そんな、馬鹿馬鹿しいまねが出来るものか。

 それから暫く、女は泣いていた。不幸な結末に怯える風情が可哀想で、男はずっと、女を抱き締めていた。

 事件が起こって、状況は流れ、境遇も変わっていく。

 明日、何が起こるのか、それは誰にも、分からない。