昔みた夢・9
一週間と一日ぶりの、東方司令部への、帰還。
大佐と副官を待っていたのは、大佐が意識を失いかけ、さすがの副官も絶句したほどの仕事の山と、そして。
「お帰りなさい。お勤め、ご苦労様ですー!」
にこにこ、嬉しそうに尾を振る大型犬。その両手には書類が抱えられ、表情は明るく悪びれず、仕事をさぼっていたのでないことは明確だ。しかし。
「ハボック少尉、これは、なに?」
「よくぞ聞いてくれました〜。離せば長いことながら、将軍が、風邪ひいて寝込んじまいまして」
実務は殆ど焔の大佐に任せきりの老将軍だが、居るのと居ないのでは随分と違う。そろえた書類にサインがもらえず、とりあえずの判断で緊急案件だけは進めてます、そっちの棚のが仮進捗中ので、こっちが……。
「いやぁ、もー、みんなで中尉のお帰りを待ってました〜」
大佐ではなく副官の彼女を、という正直さを咎める気力もなく、帰って来たばかりの女性中尉はすとんと、机の前に座った。フェリーが茶菓を差し出す。かっぷになみなみ、注がれたそれに口をつけ、喉を湿らせてから。
「とりあえずお任せで、緊急案件から持って来てちょうだい」
言葉と同時に前後左右から差し出される書類が、ばさばさと、彼女の机の上に小山を作り上げる。それらは中尉の下読みを経て大佐に廻されていく。分量の絶対的な迫力に、さすがの大佐も普段のサボリ癖を発揮する余裕もなく、せっせと読んではサインを繰り返す。
「帰って来るなり、なんてことだ」
昼食に出る暇もなくて、フェリーが買って来てくれたホットドックを片手で齧りながら、大佐はグチった。いつもお使いに行くハボックではなかったせいで、マスタードが入っているしソーセージの焦げた味が足りないしで、不服だったが空腹なのでコーヒーで流し込む。そのハボックは、二人が処理した案件の伝達に走りまわっていて、とてもではないが、昼食を買って来いと言い出せる雰囲気ではなかった。
「本当にそうですね」
中尉まで行儀悪く、サインの片手間に新聞紙に包まれたホットドックを齧りながら、同じく紙コップの紅茶を飲んで、喉を潤した。
「でも落ち着きます。おかしい、でしょうか」
「いや。私もだよ」
慌しくて、忙しくて、喧騒と早口のやりとり。それでも、何故か暖かくて落ち着く。感慨にふけりかけたら、手は動かしてくださいねと、厳しい副官から牽制が投げられたが。
「わたし、東部を好きでした」
「私もだ」
短い会話で休息は終わり、またせっせと仕事を続けていく。日が暮れる頃にはなんとか、大急ぎの案件だけは片付いて。
「お疲れ様でしたー」
「お疲れでお帰り早々、お疲れ様でした」
「いやぁ、さすが中尉。お見事です」
「もう一人、上司を忘れていないかねファルマン君」
「今夜は明日の事態にうなされずに眠れますー」
「わたしは未決済書類の悪い夢を見そうよ」
「中尉、大佐のついでに、家まで送りますよ」
肝心の大佐の意向も確認せず、金髪で長身な少尉が公用車の鍵を指先で廻すと、
「……今日だけ、そうしてもらえたら嬉しいわ」
本当に疲れているらしい女性中尉は、出張用の荷物を片手に立ち上がる。夜勤のブレダがトントンと、二人の上司が今日、命がけの勢いで決済した書類を整理していた。
運転席に少尉、助手席に中尉が乗り込んで、後部座席に大佐。この三人で密室に入ると、何故か一番、緊張して見えるのは。
「……で、中尉」
一番階級が低い少尉ではなく黒髪の大佐。それをバックミラーでちらりと眺め、金髪の少尉はエンジンを掛ける。
「約束、守ってくれました?」
「あなたには謝らなきゃと思っていたわ。ごめんなさい」
なにを言い出すんだ君は。そういう表情で、大佐が中尉を見た。
「毎日セックスなんて、とても出来なかった。泊まったのは軍の宿舎だから階が違ったし、引継ぎの仕事が多くて、疲れてて、それどころじゃなかった。最後の日だけ、ちょっとだけ仲良くしたかしら。ねぇ、ロイ」
「……プライバシーだ」
苦い表情でコメントを拒む上司に、二人の尉官は流し目を見合わせて笑う。
「あいつとは?」
質問が、肝心なところに来て。
「口はきいていたようよ。仕方ないわね、無視も出来ないわ」
「……夜中に宿舎を抜け出して会いに行ったりは?」
「分からない。言ったでしょう、階が違ったの。そのへんはあなたが調べて、結果を私にも教えて」
「承りました」
若い男が笑う。明るさがなんとなく眩しい。暮れていく西の空が赤い。こんな空はセントラルでは見れない。高い建物に隔てられて、グラデーションを楽しめるほど空の面積がないのだ。
「ありがとう。おやすみなさい。……大佐も、ごゆっくり」
「君もな」
優しい女が車を降りて、見送った公用車が路地を曲がるなり。
「……、大佐?」
ぱたんと、後部座席の黒髪が倒れた。
「ちょ、どうしました大佐、具合が?」
「……眠い。疲れた」
「え。大丈夫ですか。そこで寝ないでくださいよ」
「どうしていけないんだ」
「一週間ぶりなのに」
「セックスしたいなら、着いたら起こせはいい」
「えぇー。メシ食って飲んで喋りましょーよー。んでちょっとヨッパライ気味になってから、浮気した?しなかった。調べていい?ちょっとだけだぞ、って盛り上がって……!」
「ハボック少尉。運転しながら寝言は止めたまえ」
「それだけを楽しみに、大佐と中尉が居ない東方司令部を、体力にモノ言わせて支えて待ってたのに。うぅぅうう」
「泣き真似はやめたまえ。鬱陶しい。……帰ったら、すぐに食事して眠る。地獄のように眠ってやる……」
「えぇぇえぇぇぇー」
「セックスするなら食事時間を入れて、帰宅から一時間以内だ」
「時間制限、酷いですよ」
「ホットドックが食べたい」
「は?」
「昼間のがいつものようじゃなかった。欲求不満だ」
「あんたホントに色々、酷い人ですね」
そんなことは司令部を出る前に言ってください。そう言いながら、男は駅前のロータリーに車を突っ込んで方向転換。司令部裏口に出るホットドックの屋台は昼前から日暮れまでの営業で、まだ居てくれることを祈りながらアクセルを踏んだ。
「おばちゃん、待って!」
公用車から飛び出した若い男を、片付けかけていた屋台のおばちゃんは多分、仕事をさぼって夜食の調達をしていると思っただろう。
「お願い、一個、じゃない、二個売って。一個は辛子ぬきで、パリバリに焼いて、一個は粒マスタードで!」
「はいはい。大丈夫だよ、まだ火は落としてないから。軍人さんは時間が不規則でタイヘンだねぇ」
「うん。えらい人が我儘で、下っ端は特にね」
そんな会話を、車の後部座席で聞いていた。夕焼けも若い男の声も、鉄板で肉が焼ける匂いも、何もかもが明るくて優しい。
セントラルの、暗くて陰鬱で、悪くて重くて息苦しい、夜霧に満ちた闇のような世界とは何もかもが違っている。
明るくて優しい方がいい、いいに決まっている。なのに、引力は、何故か暗い穴の方が強い。太陽が絶対に西に沈んでいくように、逆らいきれない力がそこに、ある。
「ヨカッタヨカッタ。買えましたよ、大佐。あとはまぁ、適当にカンヅメあけて、ビールのんで、そっちを二十分で済まして、風呂は明日の朝として……」
人が言う事を一々、生真面目に受け取るな馬鹿者。だからお前はもてんのだ。あぁそれにしても、やっぱりセックスはするのか。それは勿論、するんだろうが。
……大丈夫だよな……。
バレやしない。そう、自分に言い聞かせる。あれから何日も経ってる。途中でリザとも仲良くした。身体に痕跡が残って居ないのは、宿舎の大きな姿見で確認済みだ。バレやしない。
「大佐?眠っちゃいましたか?」
狸寝入りを信じて運転が丁寧になる。こんなに可愛くて若くて優しい、甘い男に、俺はなにを、しようとしているんだろう。
裏切りは、既に犯した。口を拭っているのは何故だろう。そんなつもりはなかった。だが結果からいえぱ、俺は自分からあいつの前に立った。まさか、あんな目にあうとは思わなかったんだが。
そしてあいつに、脅された言葉がずっと、胸の奥で鳴ってる。連れて来るなと、そんな命令を、きかなきゃならない義理は俺にはない。……ないが……。
「大佐、着きましたよ。……大佐」
だがセントラルへ戻ればあいつが居る。それはどう仕様もない現実。あいつは本気で俺と復縁、するつもりなんだろうか。まさか。あれには熱愛中の妻子が居る。でもそういえば結婚三年目で、そろそろ浮気の時期なのかもしれない。もちろんそんな、相手を務めるつもりはない。……ないが……。
拒みとおせるだろうか。今度だってそんなつもりはなかったのに、もう内側に踏み込まれて荒らされた。すまない。本当にお前を裏切るつもりはなかった。あいつから電話で、リザを軍法会議所から出すのに、身柄引き受け者のサインが必要だから来いなんて、今考えればあんな白々しい嘘にどうして、騙されてしまったんだろう。
あいつは本気だろうか。
「……大佐?」
動かない俺を眠っていると思ったのか、後部座席のシートに身体を乗り入れて、俺を抱きとろうとするお前は本当に優しい。あいつはこんな真似を、してくれた事はなかった。お前が明るくて優しくて好きだ。でも、もし。
あいつ脅しが本気なら、俺はお前を守ってやれるだろうか。あいつは残酷で容赦がない。生かしておかないというのが比喩でも、例えば俺がセントラルで、ずるずる身体だけ遊ばれて、あいつの愛人にされたとして、お前はどうするだろう。
呆れて俺を棄ててくれるだろうか。辛くて寂しいけど、それならまだ、マシな気がする。まさかと思うがでも万が一、お前があれに噛み付いたりしたら。
お前は敵わないよ。
置いていくのがお前の為だろうか。きっとそうだ。でも俺は手放せるか?俺に優しくしてくれるのはこの世でリザとお前だけだ。リザは抱き締めさせてくれる。お前は抱き締めてくれる。お前の一途な情熱と温かさに、俺はどれだけ慰められてきただろう。
「大佐……?どーしました?」
抱いて運ばれながら、腕を絡めた俺に、男が顔を寄せて頬擦り。
「眠いんですか?おなかすいた?」
……馬鹿者。
「ちょっと、待ってて」
運ばれたのはお前の部屋。忙しかったせいだろうか、少し散らかってる。ベッドの上に運ばれて、じっとしてると持ってこられたのは冷えたワインクーラー。白ワインをグレープフルーツ・ジュースで割った優しい酒。
「乾杯だけ」
食事も睡眠も要らないからセックスしたがってる俺に、上手に気付いたお前がそんなことを言って、蓋をあけた瓶をカチリと鳴らす。俺は空腹のままで抱き合って、目を廻したことがある馬鹿だ。体力差か、こいつは平然としていたが、以来。セックスの前には必ず、俺に何かを食わせるようになった。
「大好き、ですよ」
俺がおかしいことに気付いたろうに、甘い男はそれだけ言って、服を脱がせにかかる。じっとしていれば何もかも気持ちよく進む、お前とのセックスが好きだ。本当にすきなんだ。
ごめん。
気付いても、多分こいつは、何も言わないだろう。
そんな気がして、ますます申し訳なくて。
……ごめん。