部屋の主は朝に弱い。低血圧だし、そもそも夜の仕事だから朝は眠りにつく時間。枕をした後は客が一緒に眠りたがる時は付き合う。でも夜の眠りは仮眠の浅さで、そもそも誰かと一緒に眠るのが苦手だから、眠ったふりをしていることも多い。

「……かえるの?」

 この相手以外は。

「うん。あぁ、起きるな、寝てろ」

 熟睡していた。カーテンを引いて薄暗い、夜明け前の部屋。死に近いほど深く眠っていた。共寝の相手が先に起きて身支度を整えるのも気づかずに。

「ふろ、はいったの?」

 薄暗い部屋の中にボディソープのいい匂いがした。

「使わせてもらった。悪かったか」

「ぜんぜん……。つかうにんげんでにおいってかわるね」

 シトラスグリーンの同じ香りでもオンナが身に纏うとふんわり柔らかくて甘い。掴んだ手首を引き寄せて、きちんと服を着込んだ女を自分の上に倒れこませる。

 女の重さが気持ちいい。贅肉はないが引き締まって筋肉のノッた肢体が男にはひどく貴重に思えた。健康的な質量は夜の蝶たちとは異質で、なんだか懐かしい。むかしの感じがする。

「いっしょにはいりたかったな、って、おもって」

 抱きしめて一瞬のキスをして、ホストは掴んでいた手首を離してやる。枕に触れられて反射的にねじ上げる寸前、細さにはっと気づいてやめた手首の先には、紙幣が何枚か、女にしては節だった指に挟まれ、カサカサ音をたてる。

「こんどな」

 朝の女はいつも優しい。金を払われて置いて行かれる男がそろそろ、それを苦しがっていることを分かっている。

「気前、いいね」

 女の感触に目が覚めた男はシーツのウエで上体を起こしながら枕の下に差し込まれる紙幣を見て言った。枕営業は常習的ではなく、気に入った客に気に入られ意気投合したときだけ。だから定価が決まっている訳ではないが、この相手との約束は五枚。若くていい女だから金時クラスの枕の代金としては格安だ。今朝はそれと同じ枚数が上乗せされていた。

「よく見えるなぁ、お前」

 女の感嘆は素直なものだった。が、薄暗い部屋の中、一瞥だけで枚数を数えられた男を自己嫌悪させた。

「元気で居てくれたお祝い。おかげで楽しかった」

「こっちの台詞だってそれはさぁ。ちょっと、待てよ。送ってやっから、車だす」

「アルコール抜けてねぇだろ。迎えがもう、下で待ってる」

「……じゃ、そこまで送る」

 男は勢いをつけて起きた。毛布の下は下着も身につけない素っ裸。『営業』の場所が自宅なのも、脱いで抱いてそのまま眠ってしまうのも、眠ったら熟睡してしまうのも、この女とだけだ。

「顔、見られるぜ?」

「あんたそれがヤなの?」

「別に」

「イヤじゃないんだ。買春は犯罪じゃないワケ?ヤバイんじゃない、特殊警察のエリートさん?」

「そんな真似した覚えはねぇなぁ」

 ばたばた顔を洗い、天パの髪と戦い、服装を、といってもジーンズにトレーナーという気楽な姿だが整えれる男を待ちつつ女は煙草を取り出し自分で火を点けた。寝室の片隅、出窓の端に一個だけ置いてある灰皿の近くへ寄って、細く窓を開ける。見下ろす街は繁華街近く、夜の住人たちが多く住む、豪勢なマンションと安アパートが混在する特殊な住宅地。そんな街でも朝の新しい空気は冴えてすがすがしい。

「好きな男と寝てるだけだ。そいつが優しいから小遣いやっちゃいけないって法律はこの国にねぇ」

 客が一見でなく、接待側が見不転でない場合、その関係が売春であることを立証することは殆ど不可能。

「そんなにお気に召してるンなら契約に切り替えませんかお客様。そっちがお得ですよ?」

 けれど罪は存在する。子孫繁栄のために与えられた快楽を金銭で遣り取りしてきた大罪の代償は今ここで、愛を囁けないこと。

「曜日とか日付とか決められねぇんだ。不規則勤務だからな」

「かまわないよ」

「お前の仕事の邪魔になる」

「ならないよ。俺、枕、そろそろやめよーと思ってるし」

 マンションから出て廊下を歩き、エレベーターを呼ぶ。廊下からは見えないが朝日が昇ったらしい。一瞬ごとに世界が明るくなっていく。

「やめるのか。残念だ」

「あんたは別。いつでも遊びにおいで。代金はさぁ、お互いの生命保険の受取人になるってゆーので、どぉ?」

「入れてねぇよ。特殊警察だぜ」

 仕事が危険過ぎて、民間の保険会社には加入を断られる。

「国家公務員共済保険なら入ってるが、そっちから出る金の受け取りは法定相続人限定だ」

 国民の血税から支払われる死亡見舞金を愛人の懐に納めることは出来ない。

「じゃあ結婚しちゃいましょう」

 エレベーターが到着。男は先に乗り込んで女のためにドアを押さえてやる。開扉ボタンを押すのではなく腕を上げドアを押さえてる仕草、覆いかぶさる姿勢が女にアピールことを知っている職業上の習慣で。

「考えとくよ」

「うん、考えといて。いつでも遊びにおいで」

「店にな。また行かせてもらう」

「……うん」

 男のまとう空気が澱んで重くなる。ふられてしまった。

 エレベーターが一階に到着。オートロックマンションの玄関先には迎えの車が横付けされていた。

「行ってらっしゃい」

 男は乗り込む時と同様にエレベーターのドアを押さえた。女が先に降りても今度は追わず、箱の中から見送る。ひらひら手を振って女は朝日の中に出て行った。車から降りた運転手が回りこんで後部座席のドアを開けるのが見えた。顔は見えなかった。

 閉じようとするドアを力ずくで開きながら、男は車が玄関先から離れるまで見送る。それから、腕を引いてドアが閉まるのを待って、自分が住む階数のボタンを押す。

 明るい世界に出て行けるのに。絵に描いたような健康な体と笑えば引き摺られそうに魅力的な美貌を持って、仕事から察するに頭もいいんだろうに。

「なんで俺なんか買いに来んのかなぁ」

 理由は分かってる。幸せじゃないから。原因は分からない。なんで不幸せなんだろう。あんなに綺麗なのに。

 痛々しいくらい綺麗なのに不幸な女は他にも知ってる。そういう女はもと夜の蝶で、金と力のある男に今は囲われて、でも男には妻子が居て愛人にさける時間は少なくて、っていうのがお決まりのパターン。あれは違う。男に縋りつかなくても立ってる。むしろこっちが縋ってみたいくらいの凛々しさで力強く。

 なのに、なんで、わざわざ俺なんだろう。

 自分がどんな女に必要とされるかは知ってる。一言でいえばマゾっ気のある女に好かれる性質なのは分かってる。いじめっ子に見えるからだろう。虐められたい欲求自体はアブノーマルではない。それくらい強く執着されたい、関心を持たれたいという現われは愛されたいという意味で、むしろ、健全な欲望。

 でも。

 あの女は少し違う気がする。

 本気の望みを感じる時がある。喉を差し出されて、とどめを欲しがられてる。嗅ぎつけられてる。掌の血の匂いを。あの敏い女は自分の本質に、人殺しだってことに気づいている。

 それが目当てで近づかれている。洗い流した筈の血の匂いをくんくん嗅がれてる。ばれてる。でも、嫌悪されていない。むしろそこを気に入ってくれているらしい態度がずきんと胸に響く。それは自分で分かっているからだ。人殺しこそが自分の本質だと。

人殺しだと気づいているのに抱きしめてくれる女の腕が嬉しくて、彼女だけが本当の自分を分かってくれているのだという気がしてる。多分勝手な思い込み、ホストの商売用の笑顔に入れ込む女と同じくらいの勘違いだけど、ちょっと大げさに言えばその錯覚が生きる支えというか生きていていい証明というか、救いみたいにさえ思っているから。

 殺してやることは、出来そうになかった。