普段、袴は穿かないですごしている。

 藩内では超名門に生まれたからだ。正装をする必要は登城、それも藩主の御前に出る時くらいしか必要なかった。それも最近は内々の略式を許されることが多い。

城内の詰め所で仲間と政治談議をしたり桂から説教されたりしていると、藩主や世子から御前へ来いと声がかかる。面倒なので袴もってきてねぇから出られねぇ、という言い訳をニ三度繰り返したら、無礼講の御酒を下さるので庭から伺うようにという呼び出しに変わった。

 藩主自身が中庭の花を見ながら酔い、余興に詰めの間の家臣を呼んだというなら格式はさほど必要ない。さほどであって、なくはないのだが乱世にあって実力は正義と同義語。混沌の政争をクーデター決起によって征し、藩内の政権を桂に投げ渡した後は幕府との戦争に専念、最前線で指揮を執り緒戦に完勝、四六の有利な講和条約で休戦協定を結んだ、まだ二十歳にもならない隻眼の若者には藩主も閣僚も遠慮深く接する。

 弱みが、あるからだ。一族郎党を藩内の政敵に謀殺された過去を若者自身は口にせず飄々と暮らしているが恨んでいないはずはない。唯一、若者の手綱を取れるのは桂だが、それも江戸で捕縛されていたのを救出された恩があり、昔ほど頭ごなしには物が言えなくなった。

 その隻眼の若者が、今日はおかしい。長裃を着ている。寝起きが悪いくせに夜が明けたばかりの時刻に駕籠でやって来て、袴をずるずると引き摺りながら行政機関である表の廊下を歩いている、と。

「晋、待て。裾がたくれている」

 今日も早くから祐筆の間に詰めて書類整理にいそしんでいた桂が気づいて文机から立ち上がる。駆け寄って、この短い距離で既にぐちゃぐちゃ皺になってしまった若者の長袴の裾を形よく直してやった。

 長裃、というのは通常の袴の丈を倍近く伸ばし、裾を引きながら穿くアレで通常の裃より更に改まった礼装とされている。ただの袴も大嫌いなこの若者が、それを穿くのは十三歳の元服式以来。もちろん、まともには着こなせない。

「ヅラァ、裾もって歩いてくれぇ」

 戦乱以来、別人のように口数が少なくなってしまった隻眼の若者。ただ桂にだけは昔どおりの態度と口調で、甘えたことも口走る。

「ヅラじゃない桂だ。どうした今日は、誕生日か?」

「オヒメさんのお屋敷に呼び出された。このチョーシじゃ、着くの夜中になっちまう」

「あぁ、なるほど」

 長州藩の城の奥には豪奢な屋敷が新築された。そうしてそこには将軍の異母妹が住んでいる。世子の結婚相手として。それは休戦条件の一つだった。政略結婚よりもう一つ余計に悲惨な和平の生贄として、将軍家の息女がここへ、人質を兼ねて嫁がされたのだ。

 もっとも、長州の藩主も世子も、個人としては悪い人間ではない。むしろ優しく思いやり深くさえある。世子は最初の妻を病で亡くして今回は再婚、それに年齢も三十に近い。十代半ばのお姫さまとはお似合いとはいいがたいことを本人も自覚していて、祝言は挙げたがまだそっとしている。

放置ではなく、花見や観劇には折々招いて話をし『口説いて』いる。少しずつ仲良くなっていきましょう、という優しい姿勢に最初は暗い顔ばかりだったお姫さまも気持ちを解いて、最近は笑顔を見せるようになった。

 藩士のなかには幕府に反感を持つものも多く将軍家姫君の降嫁を快からず思うものもあった。が、武門の習慣で『嫁に貰う』ことは『人質をとる』という意味が濃く、悪いことではない。さらに、政治の実権を握ったコチコチの桂が主張する、

『政治は男子のなす事。婦女子にその憎悪を向けることは許されない。第一、主家へ嫁いで来られたからには将軍家姫君であろうが乞食の娘であろうが主筋だ』

という正論に押され口を閉じた。

「裾は持ってやる。だが、晋、お前の歩き方がそもそもなっていない。引き摺るな、蹴り上げろ」

「ああ、そうだったな。こう、あイテっ」

「顔を打つほど勢いをつけなくていい。ちょっと待て、呼吸を合わせるぞ。イチニ、イチニで、右左、右左、だ。せーの、イチニ、イチニ」

 二人三脚というより二人羽織の要領で袴の裾を抓んでやった桂と四股を踏むように足を上げる高杉は長廊下を歩いていく。奥の屋敷は遠い。桂はそのまま、しばらく戻ってこなかった。

 

 

 お姫さま、とまだ称される将軍家息女の前に、一間を隔てて平伏した若者の姿は長袴の形も肩衣の張り具合も決まって、辿り着くまでの悲惨な苦労は連想できない。桂がまるで茶坊主のような甲斐甲斐しさで姿勢を決めるのを手伝ってくれたおかげだ。

「高杉家の当主・高杉晋助、日は御前へ時候のご挨拶にまかり越しましてございます」

 取り次ぎ役の女官が姫君に申し上げる。若者は恐縮した様子で深々と頭を更に下げた。それが礼儀なのだ。

「そう」

 頷き、目をあて、姫君は手元に差し出された書状に目を当てた。若者はもちろんお目見以上の身分で直答が許される。けれど長い口上を主君の夫人へ向って述べるのは無礼とされているので、言いたい事は前もって書状にしたため、姫様の側近へ差し出してあった。

「……」

 祐筆に朗読をさせず自分で読みながら、姫様の表情はだんだん柔らかくなっていく。最初は疑惑を抱いていた。けれど。

 

『ご懸念の条、心当たりござ候。ただしその件、昨今のことにあらず候。既に数年来、江戸遊学の時よりの縁にて、不行跡の段は恥じ入りそうらえども、近々に里へも結納遣わし、内々のこと公にするべく先日も話し合い候』

 

 要するに。

 

(何を疑われてるのかは分かってるし、その通りだ。でも昨日今日の仲じゃない。俺が江戸に留学してた何年も前から仲良しだった。結婚前にエッチぃことしてたのは反省するけどもちろんちゃんと結婚するつもりで、結納どうするかとか、親に挨拶とか、そんな話をしてた)

 

 という意味。要するに、セックスはしたがレイプではない、どころか前々からの仲なんだよ俺たちは、という釈明。

 

 姫様の護衛の女武官が先日、外出先の料亭で気分を悪くして病院へ運び込まれた。症状が一旦は落ち着きこの屋敷へ戻ってきたが、微熱が続いて四五日も寝付いている。

 料亭へは一人で行ったのではない。同行者が居た。それが平伏している若者。

権勢ずくで呼び出して彼女に無体を働き、そのために臥せっているのではないかと姫様は疑っていたのだ。が。

 

『病状如何、もとより心にかかり候。伯庵殿まで問い合わせ候ところ、心労とのこと、心当たりこれなく、然しながら当方男子にて、責任は一身に負うべきこと心得申し候。本日のお召し出し忝く有難く、さらに本人の枕頭を訪れることお許しいただければ恐悦至極の幸いにて……』

 

 料亭で具合を悪くしたことはもちろん気になってた。侍医の伯庵殿にどんな容態かと尋ねたら心労だといわれた。何をそんなに悩んでいるのか思い当たるふしはない。けどなんか気になってるのなら、男の俺が責任を負うべきだ。今日は呼び出していただけて嬉しい。ぜひ本人に会わせてほしい……。

 

 嘘とは思えなかった。藩主に呼び出されても二度に一度は差し障りを申し立てやって来ないこの若者が暗いうちから長裃を着付けて、朝一番で屋敷に伺候し、平べったくなっているのだから。

「よく、分かりました」

 姫様は読み終えた書状を取次ぎに渡しながら直接に声をかける。御簾も巻き上げられていて、身分のわりにはもったいぶっていない。

「あなたの言うとおりであれば、わたしに言う事はありません。お見舞いのことは本人に問い合わせます。ただ、彼女はながくわたしに懸命に奉公してくれた者です。彼女を愛してくれる殿方に嫁いで幸福になって欲しいと思っています」

 お姫様の言葉を受けて若者は更に畳に深く頭を下げた。普段なら気に入らない姿勢だが不思議と不快ではなかった。自分の女、それも結婚して子供を産ませるつもりの女が心配されていることは、何故だか嬉しかった。