江戸城から嫁いできたお姫さまの住む屋敷は奥の敷地の四割を占め広く、仏寺や神社、病院も備わっている。お供は四十人。将軍家姫君の降嫁にしては少ない方だ。お供たちは幕臣としての身分給与を保障されたまま、異国の地へ移された姫君の身辺を守護している。
祐筆取次ぎ会計方といった文官が十人、身辺警護に当たる武官が十人、そこまでがお目見え。残りはお針子や料理役といったお目見え以下の奉公人である。掃除洗濯といった雑役はもとから城に勤めていた女たちが行い、今のところ揉め事は起きていない。
他に女が居ないから。藩主の妻は何十年も前に離縁され里へ戻り、世子の妻は早世して姑も小姑も居ない。加えてよろず調停役の桂が女には堅苦しくも親切な性質で、そこまでしなくともと思うほど頭低く腰低く、江戸からやってきた姫君に仕えている。
その態度の理由を隻眼の若者は知っていた。かつて攘夷戦争敗戦のおり、情けをかけられていながら仇で返してしまった多摩地方の、名主の妹が女武官の中に居る。藩内では実権を握る桂が彼女の前に出ると殆どぺったんこ、平べったくなる様をよくやるぜ、と若者は眺めている。
もっとも、若者も彼女には甘い。ただし桂とは全く別の動機で。
「オイ」
若者はお姫様の輿入れ早々、庭の警護という名目で縁側で昼寝中の女に声をかけた。庭師の衣装を借りて縁の下から近づいたのだ全身泥だらけになりながら。そんな苦労をしなくても面会を申し入れれば叶えられる身分だが、正面きっての挨拶では大げさな形式になってしまう。
「やぁ」
声で誰だか分かったらしい。彼女は縁の上でごろん、寝返りをうちながら呼びかけに、答える。
「元気だった?」
「おう。……よく来たな」
再会、というか、顔は既に何度もあわせていた。輿入れの行列に馬で供奉する彼女の姿を藩主の傍らに控えながら見た。言葉は交わせなかったが若者が合図を送って、それに女が視線で応えたこともある。
「待ってたぜ、ずっと」
講和条件にお姫様の降嫁があるのを見て以来、この女も一緒に来るんじゃないかと若者は期待でそわそわしていた。結納が交わされ条件がすりあわされる中、お供のリストに名前を見つけた時は嬉しかった。
「今度いつ休みだ?外出は?」
「なに、夜這いの打ち合わせじゃ?」
「バカいうな、城の奥に夜這いかけれるか」
そこは江戸城でいえば大奥。大奥ほど男子禁制は厳しくなく、今は真昼間で警戒も緩い。前もって申し込めば家臣が挨拶へ伺うことも可能だが夜這いとなれば別。たとえ目当てが奥方その人でないとしても、露見すれば密通を通り越して謀反の罪になる。
「そこを来るのが情熱なんじゃないのか。腰抜け」
「俺に死ねってか?夜は見張りが厳しすぎる。そんな危ない橋、渡らなくたって会えるだろ。休みもらえ。遊びに行こうぜ、いいとこ連れてってやる」
若者は浮かれている。藩内では有数の名家の若様、戦争時は最前線を支え続けた若さに似合わない豪腕。けれど女を誘い出す様子はただの、普通の若者。
「もうちょっと色々落ち着いてから。今はそよ姫様の身辺を離れられない」
「おー。早く落ち着け待ってる。ナンか用あったら桂に手紙わたせ。それと」
縁の下からオンナの枕元へ布の包みが投げられる。
「藩札だ」
長州藩の内部だけで通用する通貨。
「……戦争で一皮剥けたな。気が利くオトコになったもんだ」
そんな言葉で女は感謝を表現した。
江戸幕府が発行する金貨・銀貨はもちろん、全国で通用する。長州藩内でも。が、それはいわゆる決済用外貨、ハードカレントとしての価値で、普通の生活に金銀の通貨を使うことは、ない。
江戸幕府発行の金貨銀貨を両替するには両替商を通さなければならず、その時点で金銭の出入りは全て把握されてしまう。目的をいちいち尋ねられ、召し使う女中にチップとして渡すと言うと必要ないですと言われてしまった。全ては出入り商人を通されて、物と金の動きを把握される。不自由なものだった。
「ありがとう。これでタバコを買ってきてもらえる。今度、金の用意しとくから両替してくれ」
「吸い過ぎンなよ。じゃあな」
縁の下を這う音がして気配は遠ざかる。包みを開けると、色々な額面の藩札が100万円分ほど入っていた。これでまぁ、こそこそ身辺を伺う女中たちの目とクチを塞ぐことが出来る。
それから。
女は『デート』を嫌がりはしなかった。半日や一日の暇を貰って外出するようになったのは輿入れから一ヶ月あまりたってから。
「で、実家どこだって?」
デートの場所は芝居の桟敷、寺社の休息所、時々は郊外の料亭。外泊はしないけれど朝から出かければゆっくり過ごせる。見物をして昼食をとって布団を敷かせて夕食を食べて、日暮れ前に戻る。
「まだ言ってるの。しつこい」
崖に張り出すように建てられた料亭。中国山脈の雄大な景色を褥の中から頬杖ついて眺められた。
食べて戯れてうとうとして、飲んで抱き合ってゴロゴロして。そんな怠惰、だけれど幸福な時間を満喫している
「色、前より白くなってねぇかオマエ」
事後の倦怠の中、キモチ良さそうに景色に目を細めタバコを吸う女の、裸の背中に男は目を細める。打撲らしい傷跡が幾つかあるが輝くほど白くてつややか。まだ上気しているのか寒そうな様子も見せず腰近くまでの肌を褥の上にさらしている。
その薄い桜色の、肩には自分の家の紋。
「外に出ないから」
「結納上乗せするぜ。その紋の分」
性奴を売りさばく商人がサービスのために彫った機械彫り。ほんの二十分ほどで大した痛みもなく、一生消えない痕跡は残された。
「まー、あれだ。……縁があったンだよ」
この女が性奴を装った間諜だったことを知るのは桂だけ。女を選んだ父親は死んだし、使用人さえ家族とともに炎に包まれ灰になってしまった。
「都合よく、っては、さすがに思えねぇけどな」
高欄で徳利に残った酒をちびちびやっていた若者は女の肌に気をひかれ褥の上に戻った。指を押し当て唇を押し当て顔を押し付けるようにして肌理を堪能する。心安らぐいい匂いがした。
「結婚はしない。何回言わせるつもり」
「なんでだ。似合いのカップルだぜ俺たちゃ。美男美女だし、身分も釣り合うし。オマエが俺と結婚すりゃお姫様も身内に便宜が出来るから助かるんじゃねぇか?オマエが年上なのがアレだが別嬪だからナシだ。結婚したら仕事やめろとかうるさいこたぁ俺ぁ言わねぇよ。まー勤務は日勤に変更だな。夜は帰って来い。宿直は月に二回ぐらいなら許してやる。ただ、ガキが生まれたら一年は産休とれ。産後にムリすっと早死にするからな。……俺の母親みたいに」
「長州になんか嫁げない。身内が村八分にあっちまう」
「戦争の時の恨みか?しつけぇなぁ。十何年も前のことだろ。忘れろ」
「酷い目にあった方は忘れられないさ」
「過ぎたことをいつまでも引きずんな前にいけなくなるぞ。俺なんか半年前のことだって忘れちまったぜ」
世界中を恨み呪って当然なほどの不幸にあって、裏切りの苦い煮え湯を腹いっぱい喉に詰まるまで飲まされて、それでも故郷を見捨てなかった若者は笑う。
「その台詞、君じゃなきゃ、今殴ったけど」
答えつつ女は景色から目を離し仰向けに姿勢を変えた。背中に覆いかぶさっていた若者は身体を浮かし、動きを助けてやる。それから正面から向き合い、腕を廻してぎゅーっと抱きしめた。
柔らかい。でも弾力があって、暖かくて、すごく気持ちがいい。すいつく素肌に心慰められて、若者は目尻を蕩かした。
「必要なんだよ、水に流すってことが。そりゃ俺だって思い出しゃギリギリイテェけど、でも流せなきゃ世間の邪魔になっちまうじゃねぇか」
「なっちゃえばいいじゃない。一緒になっちまおう。なってくれたら、命がけで愛してやれる」
「ユーワク仕掛けンな……」
囁きを交わしながら若者は女の腰を抱き、女は微笑みながら潤う。
「あ、ン……」
とろん、と。
力の抜けた女の濡れた暖かな狭間に包まれて男は深く息を吐く。粘膜の快楽。それ自体、ひどく甘くて優しく素晴らしい。そうして女が伸ばしてくる腕の内側、練り絹じみた色艶の素肌に抱かれることは幸福だった。痛すぎて麻痺した感情の表皮を覆って癒してくれる、そんな気がするほどの。
「……、か……?」
女の身動き、うねりの波に合わせて腰を突き上げながら、若者は尋ねた。
「ん。……、もち、いィ……」
満足の声を上げる女の反応が男の快楽を満足な嬉しさに昇華して。
「オマエの、実家の、領主、か、いっそ、将軍、仲人に立てて、れば」
挑みかかりながら、若者はいいことを思いついた。
「オマエの身内が誰にも後ろ指さされねぇ、極上の仲人あいだに入れて、やる」
断れなくても仕方がないと思われるほどの。
「俺とケッコン、してめでたい、ってオモワせて、や……」
女が腕を差し伸ばす。男は口を閉じてリズムに集中する。ぎゅ、っと、全身で絡み合う。内側では男が絞られて外側では女が包み込まれて、溶け合って、弛緩。
「……ぁ」
「ぜぇ、はぁ……」
ごろん、男は女を抱いたまま寝返りをうち、女の身体を自分の上に寝かせた。重さをかけないように。
男の優しさに女はうっとり、目を細めると、狭間が気分にあわせて潤う。
「……、ん?」
暖かな潮に再度包まれて若い男も隻眼を細くして女の髪を撫でた。女がゆっくりかぶりを振る。はやかったかと男は女を気遣い、そんなことないよと女は男のカンチガイを訂正。食べたりなくて、ぐちゅっときたのではない。
「うっとり、してるだけだ……」
呟く女の言葉は男の気持ちと同じだった。よしよしと撫で、つながりを解かないまま暖かさを堪能。気持ちがいい。すごく。
「なぁ、おい」
胸に抱いた女の頭を両腕で抱きしめ、短い髪の隙間から覗く耳元に、若者が囁く。
「こんなアジ教えとして捨てるなよ?」
率直で正直で素直な不安だった。
「オマエを好きだ。結婚してくれ」
「今度それ言ったらもう会わない」
「あぁ?」
「結婚はしない。君が結婚相手を探しているのならもう会えない」
「……」
若者は口を噤んだ。瞬きを繰り返す。女の顔を覗き込む。がしがしと頭を掻く。分かりやすい苦悩。
「君は可愛い。でも結婚はできない」
「ぐぅの音もでねぇ仲人立ててもか」
「そういう問題じゃないんだ」
「どういう問題だ」
「ここの人間に、なれない。なりたくもない」
「そんなに嫌いか、うちのこと」
「私は世間の邪魔になりながら生きるさ」
「執念深いなぁ、オンナって生き物は。でもうちで一番、はお姫様だが、二番目に威張ってていい女だぜオマエ。俺の女だからな。ヅラが女房もらったらビミョーになるが、そんときゃヅラと勝負してやる」
「本当はお供を辞退したかった」
「俺が待ってたのにか」
「でも姫様があんまりお気の毒だったから、死んだつもりになって来た」
「ふぅん」
それ以上の深追いはせず、つながりを解いて冷えてきた肌を綿毛布に包んで、寄り添いながら夕食までの時間を暖めあいながら過ごし、会席料理を腹いっぱいに食べて。
上機嫌で料亭を出た。その時までは元気で上機嫌。男に差し出された紙片の数字はなかなか迫力があったが、男は頓着せず余白にサインをする。
一家、というより一族に近い、三世代の家族と隠居とそれに繋がる居候、等を含んで二十人で使っていた家禄を今は一人で使っている。
「帰りに菓子屋に寄ってくれ」
「おう。今度の休みは?」
「分からないよ。決まったら連絡するから」
「酒とか反物とか、今度うちに見に来い。お前じゃなくて下女にでも、いいのあったらやる」
殿様からの下賜金やよしみを通じようとする商人や朋輩からの届け物も多く、それらは整理する者もないまま玄関脇に積みあがっている。
「うん。じゃあ、見せろ」
本当に元気で、次ぎの逢瀬の打ち合わせをしていたのに、突然。
「ヅラがそっちに定期便出すだろ。返書の中に別封挟んど、……、おい?」
いきなり立ちすくんで、真っ青になって、そのまま。
「おい、おい、ちょ、ヒジカタ、なに……、おいッ」
突然だった。震えだして、そのまま座り込んだ。
どうされました、いかがされました、と、見送りの仲居や主人が駆け寄ってくる。
「車廻せッ」
若者は、女を肩にひっ担いで病院へ、そのまま運び込んだ。