夏椿

 

 

「あなたを随分と、捜しておられますよ。何せ十年前の縁で私にまで、お声がかかるくらい」

 新婚夫婦は永田町の洋館を改装し、新婚生活を送っていました。それまで洋館に暮していた前当主の後妻は田舎の本邸へ戻されようとしましたが、それを拒んで横浜の別邸に移りました。まぁ、芸者あがりの彼女には、人の口のうるさい田舎暮らしは、耐えられなかったでしょう。

異母でさえない、後妻の連れ子である『兄』はそれまで、嗣子である弟と殆ど、生活をともにしていました。秘書のように、或いは側近のように。実際は妻だったことを私は、新当主の口から直接、聞きました。十年間、離れたことはなかったと。

ただその婚姻に伴って、『兄』は一時、群馬の本邸へ移りました。それは本人が望んだことだったといいます。新当主はそのまま洋館に住ませるか、本社の執務室の続き部屋、寝泊りするのに十分な設備の場所に置いておくつもりだった。けれど彼は新当主の結婚前後からひどく体調を崩し、休養を、させざるを得なかった、と。

温暖な伊勢の温泉地へ、彼は送られました。早く元気になって帰ってきてよと言う新当主を彼が、そっと抱き締めたとき既に、嫌な予感がしたそうです。予感に随って随行の世話人には、彼をさりげなく監視するよう、言っていたそうですが。

混雑する駅からそのまま、彼は姿を消しました。それが半年前です。真冬の出来事でした。半年間、新当主は彼の行方を、捜して、捜し尽くして、どうしても見つからず。

「気が狂いそうだと、仰っていましたよ」

 私は語りました。彼は答えません。答えることは、出来ませんでした。茶に仕込んだ筋弛緩剤は、心臓を止めないようごく微量ですがまずは、神経の伝達を阻害します。舌は動かす、ことができません。

 ぐらりと崩れた体を畳に伸ばし、座布団を折って枕にし、合皮のベルトを緩めました。彼はかすかに瞬きし、私を見ました。その目は私を責めていましたが、しかし。

「お会いになれば、あなたも後悔しますよ。本当に憔悴して、あなたを心配しています。随分、怨んでもおられましたがね。結婚はあなたが勧めたことだったのに、と」

 その話が持ち込まれたとき、新当主は断ろうとしました。それを止めたのは彼だったそうです。財閥の存続は多くの従業員と、その数倍の家族の生活を左右します。当主にはそれを守る義務がある。彼の言ったことは正しい。新当主は十年も実際には『妻』だった彼に『結婚』をすすめられ、不愉快だったそうです。が。

 それでも我慢して話を受けたのは。婚姻と言う、人生そのものを左右する重大事を、受け入れたのは。

「あなたを守るため、だったそうなのに」

 二人の醜聞は秘密でした。けれど、なくなった父親には知られていましたし、そこからそっと、漏らされた首脳部もありました。新当主が彼に操立てして結婚を拒めば、首脳陣たちの攻撃は彼に向かいます。それが嫌で、受けた話なのに。

「約束、していたそうですね?結婚しても愛し続けると。なのに早々に、あなたは逃げた。嘘は、いけないことですよ」

 諭すように言って私は立ち上がりました。

 電話をかける、ために。

「あんなにあなたを愛してる男を、こんな風に棄てるのはいけない。今から、呼びます。すぐに来れるかどうかは分かりませんが、待っていてください」

 彼の唇が動きました。震えが走るだけで声にはなりません。瞳の色に哀願が浮かびました。やめてと、言われているのは、分かりましたが、私はかまわず、電話の引いてある玄関脇へ行きました。医者の住まいに電話は必須のものです。

……もしもし」

 電話は洋館ではなく本社にします。日曜とはいえ貿易会社には何人もが交代で出勤していて、そのうちの秘書の一人に、本邸へ電話を繋いでもらう。そうすることによって新当主が、会社から呼び出され仕事のことで出かけるような、作為が出来るのです。

 何人もの手を経て、かなりの時をかけてようやく、回線は、彼を探していたオトコに繋がります。既に声が浮きあがった新当主に、私は彼を捕らえていることを、告げました。