熱病 side R


                              by あき

 目が覚めたときの気分はよかった、ひさしぶりに。
 このところよく寝られない日が続いていたから、よけいに。
 気持ちよく寝られた理由はすぐわかった。
 俺の体に手をまわし、もう片方の手で髪をなぶっている、弟。
 ひさしぶりに感じる啓介の体温だった。
 あんまり飽きずに髪で遊んでいるものだから、笑いながらそう言うと、
「起きたの? ごめん、オレ、起こした?」
 すぐに心配そうにのぞきこんでくる。
 窓からはいる街灯やオーディオの待機電力のかすかな光で、なんとかお互いの顔くらい なら見える。
「いや。自然に起きた。それより何時だ?」
「んーっと、じき3時ってとこか」
 まだそんな時間か。それでも5時間ぐらいは寝たな。
 安眠できたのはひとえに啓介のおかげなので、礼を言う。
 もっとも、啓介はそんなことどうでもいいといいたげで、俺の熱のほうを気にしていた。
 ラクになったし、下がっただろうから、もういいっていってるのに、強引に熱を測らさ れた。体温計を押しこまれ、腕と体をつかっておさえつけられ、文句を言おうとしたら、 キスで口をふさがれた。
 最初はただふれあうだけのものだったけど、そっと舌でつつくと、応えてくる。
 でも俺を気遣ってか、ほんとにやさしい蕩けそうなキス。
 啓介のやさしさにうっとりして、体温計のことなんか忘れてた。
 ピピピピピ――
 そんなのほっておけばいいのに、啓介は律儀に従う。
 まだ離したくなかったのに。
「36度8分。まだ微熱があるな……」
 経験的にもう大丈夫だってわかってたし、安心させたかったから。
 朝まで寝ればひくって言ったら、
「だ・か・らぁ、そういうこといってっから、倒れるはめになるんだよ、いっつも。ちょ っとは学習しろよ」
 怒られた。
「……啓介、おまえには言われたくないな。なんど踏みつけて壊した? 怪我した? い いかげん片付けろよ、あの部屋」
「いーじゃん、怪我してるのはオレで、誰にも迷惑かけてないだろっ?!」
 ふーん、おまえ、いい度胸じゃないか。
 そのたびに俺がふりまわされてるのは、俺の気のせいか?
 睨み付けてやったら、とたんにしゅんとして。
 なんで、こいつは、20歳すぎたいい大人のくせにこんなに素直なんだろう? わかり やすすぎる。
 で、必死になって反論してくるんだぜ、きっと。
「でもさ、アニキだってオレと大差ないぜ。いつも言ってるだろ? おかしいと思ったら、 休めって。いくらアニキだって、機械じゃねーんだから、ちょっとは体いたわってやれよ。 ほんと医者の不養生を地でいくタイプだよな、アニキって。それから……全然ちがうけど、 ついでに、訊きたいことがあるんだけど……」
 ほらな。思ったとおり。
 だが、次の言葉は完全に予想外だった。
「自分がさっき何してたか覚えてる?」
 いきなり切り込んでくるとは思ってなかった。
 俺の認識があまかったな。後日、完全に熱が下がってからだとふんだんだがな。
 面に出しこそしなかったけれど、かなりまずいことになったと思った。
 いったん聞こうとした以上、啓介のことだ、最後まで突っ走るだろう。
 全力の啓介をはぐらかすのは、俺でも頭を使う。それなりに戦術と準備が必要。いまの 俺には……、ない。
「確かに熱で朦朧としてたけど、覚えてるだろ?」
 もちろん。
 というより、わかる。
 熱で意識はとんでた。でも、かすかに感覚が残ってるから。
 なにが引金になったか知ったら、笑うぜ。 
「じゃあ、オレが何をいいたいのかも、わかってるよな」
 当然だろう。俺を誰だと思ってる?
 言葉の形こそ違え、答えろと命令されて。
「……おまえだって、俺がどう答えるかぐらいわかってるだろ」
 おたがい訊かなくていいことを訊きあってる。とっくにわかりきってることを。
「じゃあ、言うまでもないな」
「そういわれて、はいそうですかってオレがあきらめると思う?」
「いや」
「で、どうすればいいと思う?」
「おまえ、それを俺に訊くのか」
「だって、オレ、アニキみたいに頭よくねぇもん」
 おまえ、免罪符にしてないか、それ。
「そうだな……、たいていSexに訴えるってのが、おまえの常套手段だが……」
 病人相手には使いにくいか?
 返ってきた返答からするに、そういうわけでもなさそうだ。
 そうだろうな。そこで頷かれでもしたら、俺が心配しなくちゃならない。
 啓介が俺のいうことをきくとも思えないが、一応意思表示だけはしておく。
「やめてくれ。せっかく下がった熱が、また上がっちまう」
「そう思うなら、言えよ。――何が、あった?」
 腰に馬乗りになり、両肩を押さえつけてくる。シーツどころか、マットにまで沈みそう だ。
「オレはアニキのことなら、なんでも知っておきたいんだよ!」
 子供っぽい独占欲――俺のにくらべたら、数段……、ぬるい。
 思わず呟いたことばが、届いたとは思えなかったが……。
 啓介にはわかったようだ。
 こういうときには本能と勘で生きてるヤツだとつくづく思う。俺とは正反対だ。実の兄 弟なのにな。
「知らないほうが、いいこともある――って、なんだよ、それ……。すると、なにか?  オレに知られちゃ、まずいことでもあんだな?」
「……」 
「そうかい、わかったよ。言わせてみせっからな。……覚悟しろよ」
 不敵に笑われて。
 ひどくクラクラした。
 うれしくて。
 ……だって。啓介の意識のすべてを独占できるってことだから。

 まず、ベッドサイドのライトがつけられ。それから。
 いちばん最初にされたことは、拘束。両手を後ろにまわされ、今まで着ていたパジャマ で。でも足にはなにもされなかった。
 そのまま、うつぶせに転がしておいて立ち上がり、俺のウォークイン・クローゼットを あさる。
 不思議だ。
 俺がほんとうに逃げたい時には、敏感にそれと察して縛るくせに。
 こいつには探知機でもついてるんだろうか。
 引っ張り出してきたのは1本のネクタイ。それだけでなにに使うのかわかった。
 ベルトでも持って来るかと思ってたが、どうも違ったようだ。
 俺の読みもあてにならないな。
 さらに思ってもみなかったことに、啓介は部屋を出て行った。
「逃げるなよ」と言い置いて。
 逃げようかとも思わないでもなかったが、迷ってるうちに啓介がもどってきてしまった。
 おー、感心、感心。逃げなかったじゃん、とか言って。
 近づいてきて、俺の顔のそばで掌をひろげてみせる。
「これなにかわかる?」
 掌の上には半透明のちいさなチューブが3つ。青、ピンク、紫と。
 なぜか毒々しい。 
「こんなふうに使うつもりはなかったんだけどさ、ちょうどあるの思い出して」
 啓介の表情にそれがなにか見当がついた。
 自分でも強張ったのがわかる。
 反射的に逃げようとして、足で膝裏を踏みつけられた。
「いまさら逃げよーなんて、おせーよ」
 そのまま膝を前へ押しやられ、自然に腰だけが高く浮き上がる。
 脹脛をそれぞれの足で押さえられて、身動きできない。
「いやだ……、啓介」
「どの色がいい? アニキ」
 妙に明るい啓介の口調が……、怖い。
 逃げておくべきだった。後悔しても後の祭り。
「啓介、いやだ。……こんなのは、いやだ」
「んっと、最初はやっぱスタンダードかな」
「啓介っ――!」
 必死の叫びに、
「なら、言う? なに隠してんの?」 
 顔を寄せてきて、囁く。
 その口調はひどく優しかった。
 優しすぎて、背筋に悪寒が走るほどに……。
 思わずぎゅっと目を閉じた俺に、くだされた最終判決は――
「残念……。時間切れだわ」
 口調とはうらはらに、乱暴な手が俺を暴く。
 双丘をひろげ、奥を探り、指が進入してくる。
 擦りつけられた指に、つめたいぬるっとした感触を感じて。
 その感覚にすくんだところを、指が掻きまわした。1回だけ。すぐさま出て行く。
 身体の奥で溶け出す、それを感じる。
 ゆっくり、体温で溶けてゆくのを、まざまざと感じて。そして、突然、熱くなる。
 ――やっぱり、これ……、か。あのチューブがもたらすのは。
 この感覚には覚えがある。それはもう腐るほど。啓介に焦らされて、焦らされて、どう しようもなくなったときのものと、同じ……。
 理性の箍がはずれそうなまでに追い込まれたときと。
「――――!」
 啓介の指が再度進入してきたときには、それだけで、頭の芯まで痺れた。
 奥から背筋をつたわり、脳髄までを繋ぐ、物理的なまでの疼き。
 指がなかでまわると、瞼の裏で光弾が飛び散る。
「――っ、うぁ……」 
 啓介の指が数回にわけて、熱を運ぶ。
 ささやかなその動きだけで、つのる。
 餓えが。
 押し殺せない、愉悦。
「ああ、忘れてた。やばい、やばい」
 言葉とともに吐き出される啓介の息を肌で感じただけで、イってしまいそうだ。
 なのに、そんな逃げは許さないとばかりに、縛られて塞き止められる。
 引き起こされて、屈辱的なことをされているのに。
 啓介の手と、正絹が触れただけで、体が、跳ねる。
「っん、……あ…………」
 息が苦しい。頭が痺れる。身体の奥が、アツ、い……。
 そのまま、仰向けにされて。
 思わず、光源を避けて、横をむく。 
 自分でしたことなのに、肌をこするシーツの感触にさえ、悶える。
 こぼれ落ちる涙が、冷たい。――肌が熱いせいだ。
 必死に、遠ざかりそうな理性をたぐりよせる。このまま墜ちていくのはたやすいけど、 俺にもゆずれない線はあって。
 ここであっさり手放してしまえるようなプライドなら……、俺ももうすこし楽に生きら れたのだろうけど。俺から、それを取り上げたら、なにもなくなるから。俺には、それし かない、から……。
「気持ちいい? どう?」
 ナカで指が踊る。ひどく生々しく感じる。
「……ヒィ、ッ…………ん、あぁぁぁ、やめっ……」
 指1本だけ。もう片方の手は、俺の膝の上に軽くのせられてるだけ。
 それなのに、掌からひろがる。啓介の熱――。放射状にじわじわと。ゆっくり。
 外したくて、体をよじると、反対の足に啓介の唇……?
「んっ、ぐ、ぁ……はぁ、は、ぁ…………」
 声を飲み込む。
 すると、啓介のを耳朶の中に直接吹き込まれる。
「ねぇ、なんで、我慢しちまうわけ? 聞かせてくれたっていーじゃん、声」
「――――ッ! ん、ッ……」
 責め苦にしか思えない、唇から逃れたくて、反対を向けば。
 今度は、そちらの耳朶に感じる、吐息と舌。
 体ごとずりあがろうとすれば、肩に噛みつかれる。
 痛かった。ホントに。
 でもそれすらも、快感で――
 声も抑えられなかった。
 俺の嬌声にかさなる啓介の笑い声。
「アニキ、そんなに気持ちイイ?」
「けー、すけ……やめ……ろ」
「げ。アニキ素直じゃねぇなぁ。さっき熱があったときはあんなにかわいかったくせして」
 そんなこというのか。
 俺でなくなった高橋涼介になんか、興味ないくせに。  そんなことしたら、3日とたたずに飽きるくせに……。
 罰だといわんばかりに、指の動きがすこし大きくなる。
 欲が、あふれる。
 腰が浮く。
 落ちて、上体が撓む。
 解放して欲しいのに、そこに見えてるのに、追いあげるくせにわざと遠ざかる指――。
 代償として、乳首を痛いほど吸いあげられる。吸われてるのに、反対に注ぎ込まれるの は、痺れ――懸命に繋ぎとめてる理性を麻痺させる、もの。
「けい、すけ……」
 目をあけて、訴える。やめろ――と。
「アニキが喋るんなら、イかせてやるぜ」
 どうする?――と、中の指に訊かれ。
 脚を蹴り出した。溺れたくないから、無我夢中で泳ぐ者のようにして。
 意識してのことじゃない。
 もう、俺の体はいうことをきかない。
 なのに、啓介は
「アニキがそんなだったら、言うことなんかきいてやらない」
 うれしげに宣言した。
 臍に舌が差し込まれ、ぴちゃぴちゃと音をたてて舐めまわされる。
 出したくても出せない熱が蓄積してゆく。
 理性もなにもかも、熔け出してゆこうとしてる。
 ――――だめだ! それだけはダメだ。啓介相手だからこそできない。
 虚勢でもかまわない。
 独占欲と喪失の恐怖に狂っている俺は、晒せない――。
 啓介に耐えられるものじゃないのはわかってるから。
 なんど頼んでも、すがっても、啓介は頑なだった。
 話せ――それの1点張り。
 もう、声も上手くでない。声帯すら働かない? 
    感覚だけが俺を支配する。
 ――盲目の飢餓感。
 膨れあがる。
 それでもなお、俺は身を焦がす焔に灼かれながら、探しつづけた。
 突破口を――。
 啓介の意識をそらす、何かを。
「ア、ッ……イヤァァァァーーー」 
「さっさと吐いてラクになろうぜ。そんで、ふたりでたのしーことしようよ」
 だから、この台詞はわざとだった。
 啓介を逆撫でする、台詞。
 おまえだって、隠してることくらいあるだろ?――と。
 右頬が鳴った。
「この……この…………」
 怒りのあまり声にならないのか、後が続かない。
 短い沈黙の後で出てきた言葉は、俺の求めていたものだった。
「……男か?」
 ――――助かった……。
 それがいちばん最初にうかんだ言葉。
 見つけた。突破口。
 まだ針の穴のように小さなもの。だが……。
 あとはそれを俺が引き裂いて、大きくしてやる。
「そうだと言ったら……」
 慎重に、息をととのえ、言い放つ。
 体中で逃げ出せない熱が踊ってる。アツ……い。
 しかしその一方で、啓介の表情に冷静になってゆく自分を感じてた。
「…………もし、そんなことだったら、アニキも相手も殺してやる……」
 搾り出すように言う。
 いつもの啓介の声じゃない。
 でも、だからこそ、俺には至上の音楽――。
「いや……、アニキは殺さねぇ。足の腱切って2度と歩けないようにして、オレの奴隷に してやる。嫌とは言わせねー」
「……」
「――そうなのかよ? アニキ」
 自分に正直で偽ることのできない啓介は、まるでニトロだ。かすかな衝撃でも、取り扱 いを間違えると、大惨事をひきおこす。この俺でさえ――いや、俺だから、アクセルをま ちがえて踏んでしまったことは、何度もある。
 力技で強引にこられたら、俺には対抗手段はほとんどない。
 だが、言葉と、躰と、そして頭を使った駆け引きにまで引き摺りこめば、俺の独壇場だ。
 俺ですら鼻を背けたくなる腐臭に根ざす狡知に、素直な啓介がかなうはずがない。
 かなわないと知りつつ、それでも踏み込んでくる啓介が……、愛しい。
 それは啓介の俺への執心を表すものだから。
 俺が、俺でいられる、なによりの養分だから―― 
 いままで、ずっと抜かれなかった指が、外へ出ていく。
 漏れそうになる喘ぎ声を、血が出るまで唇噛んで、殺す。
 いまの俺には、それだけで、十分な責め苦になった。
 もうそろそろ限界だ……。
 肩を鷲掴みされ、揺すぶられて。
 唇をあげる角度、頬の筋ひとつにまで気を配って、微笑む。
 ――おまえがいちばん綺麗だといってくれる表情で。
 ――おまえがいちばん好きだといってくれる俺で。
 啓介、おまえだけに見せる媚態で――
 誘う。
 俺をこんなオンナにしたのは、おまえだぜ。責任とれよ。
 おまえが飽くことなく、水と養分を与えつづけるから、こんなになったんだ。ぜんぶ、 おまえのものだぜ、啓介。
 花開いた俺を、奪えよ。
 待って、待って、焦がれた熱い塊を受け入れたとき、それだけでのぼりつめてしまいそ うだったが、啓介の辛そうな声が俺を引き戻した。
「……ち、……しょう、……どーし、て、……だよ」
 行為に没頭しているように見えて、そうじゃないのがまるわかりだった。
「なんで……なん、だよぉ……」
 呼びかけたが、応えてくれなかった。
 応えてくれるまで呼びかけた。
 啓介と目が合ったとたんの笑みは100%本物だった。 
 快感にひきずられそうになる体を叱咤して、言葉をつむぐ。
「けー、すけ、誰が……そうだって……はぁ、ン……言った?」
「……」
「俺は、そうだ……とは、っ……言ってない、ぞ」
「だって……」
「そうだとしたら――と……、言った、だけ」
 急に啓介は動くのをやめてしまい、つい抗議した。
 気になって集中できねぇという啓介に、懇願する。
 ただし、態度はあくまで卑屈にならないようにして。
 全部話すという約束と交換だった。
 今の啓介なら、落とせる。だからOKした。
 拘束と、飢えから解放してもらえた。
 やっと――。
 我ながらよくもったと思う。
 ご褒美だろう。2回も天国までいかせてもらえた。


「で、どういうことなんだよ?」
 おまえせっかちすぎる。
 俺はまだ余韻に浸ってたいのに……。
 まだ、中におまえがいるのに。
「俺に啓介以外の男なんかいないよ。いるわけないだろう」
 体をねじって視線をあわせながら、言う。
 啓介は背中から俺を抱いてる。
「じゃあ、なに隠してるんだよ?」
 ため息をつく。
 わざとらしくならないようにせいぜい注意して。
 そして、故意に啓介が傷つく切り出し方をする――いわく、女と別れるの、もう少し上 手くなれ、と。
「どういうこと?」
「このあいだ、押しかけてきたんだよ、おまえの『彼女』が」
 予想通り、啓介の顔が色を失う。
「ちょ、ちょっと待って……」
 あわてて、自身を抜き、俺と向かいあう。
「おまえに女がいることくらい知ってたし、見たことだってあるけど……」
 極力、淡々というのがポイント。ここはへんに悲しそうにしたりしないほうがいい。
 ほら。啓介のすまなそうな、顔といったら――
「まあ、な、俺だけ相手にしてたんじゃ、おまえのほうは欲求不満になるだろうし、かと いって俺が全部相手をしてたら、俺がもたないしな。それでもいいか、とは思ってたけど ……」
 うまく嘘をつくコツは、本当のことを混ぜること。
 あと、自分で嘘を信じること。本気でそうだと思い込むこと。
 だから、いま、俺は悲しいんだ。
 悲しくなくても、悲しいんだ。こんな笑みしかつくれないくらい。
「でも、俺にその尻拭いをさせるのだけはやめてくれ」
「……ごめん」
「知ってても、けっこう、ショックだった……」
 ――嘘。
 俺はあんな女に嫉妬するほど安っぽい『オンナ』じゃない。
 あれはただ生物学上、女なだけ。
 磨かれて、崇められて、愛でられるためだけの存在じゃない。そうして、……貶められ る貴種じゃない。
 あんな女など、眼中にない。
 ほんとうに、俺を傷つけたのは――
「ごめん……ほんと、ごめん」
「いいよ、べつに…………」
「それ、いつ?」
「ん?」
「その、女が来たのっていつ?」
 目を伏せた。
 思い出していたから。
 瞳の中にある真実をみせるわけにはいかなかったから。
「2週間ぐらい前、かな」
「ごめん、アニキ。ごめん」
「いいよ、もうすんだことだし……」
「もう女なんかつくらないから」
「……そんなことしなくていいよ。ただできれば俺の見えないところでしてくれると、う れしいかな」
 前半はほんとう。
 でも後半は嘘っぱち。
 こいつはいい男だ。ルックスも、体も、金も、女にはたまらないだろう乱暴なくせに、 べたべたに甘いところもあって、もてる。色事には長けてる。はっきりいってうまい。
 女が吸い寄せられるのは当然で。自ら据え膳状態になりたがるやつらを前に、健康な若 い雄が無視できるはずがない。男の生理として、手が伸びる。これも当然。
 それが複数回にわたれば、女が勘違いするのも無理はなく。
 俺は女を責めるつもりも、啓介をなじる気もない。
 ささくれだつ部分がないといったら、嘘になるかもしれないが。
 だが。
 おそらく啓介にとって俺以上のオンナなんかありえない――それ以上に、俺にとって、 啓介以上の存在などありえないが――。
 傲慢といわれようが、自信過剰といわれようが、21年間の蓄積が俺に言わせる。そう でなければ、いま俺たちが罪を重ねて、禁忌を犯してなお、淫靡に幸せであるはずがない。
 だから。
 俺が恐れるのは、自分自身――。
 この俺が、醜悪な俺が、啓介に嫌われやしないかと、それだけが怖い。
 啓介はすぐきれいだ、きれいだと俺をほめるが、それは俺の抱えている暗黒が深いこと の裏返し。外面如菩薩、内面如夜叉――とは昔の人もうまい具合に表現するが、そのまま 俺、だ。
 その俺が――
 啓介に俺の見えないところなど作らせるわけがない。
 俺の独占欲は啓介の体――爪の先から髪の毛1本にいたるまで――はもちろん、その時 間、場所、意識、まとう空気、啓介からもたらされるもの、そのすべてに及ぶ。
 文字通り、すべてに――
 啓介には想像もつかないだろう。
「男なんだし、女を抱きたいって思ったって、なんの不思議もないよ。俺だって男だし― ―そのへんはわかるよ。だって俺も啓介も男が好きなわけじゃないからな。無理はするな」
「アニキ……それほんとに恋人にいう台詞かよ」
 唇をとがらせるしぐさは、幼いときから変わらない。
「仕方ないだろう。俺は現実的なんだ。啓介とは兄弟で男同士で、ただでさえ不自然なん だ。自然にできるところは自然にしておかないと、壊れてしまう。俺はただ俺から壊した くないだけさ」   
 そう。それだけ。
 腑に落ちない顔の啓介をなだめる。
「ほら、啓介には理解できないだろう? だから言いたくなかったんだよ。おまえを傷つ けたくもなかったし……」
「……」
「納得できないなら、それでもいいさ。でもこれだけは覚えててくれ」
「……なに?」
 その首に縋りついて。
 顔をうずめて、言う。
「啓介は啓介のままでいてくれたら、それでいい」
 俺を壊せるのは啓介だけだから
 啓介になら、壊されてもいいから――
 いままでの台詞のなかで掛け値なしのホントの気持ちは、これだけ。



   あの女の一言が、俺のなかの引金を引いただけ。
 あの女が言われたという、啓介の別れの際の捨て台詞。

 ――オレは偽善者は嫌いだ。

 この言葉が。




                               Fin