何も持ってくるなと言われてその通りにした。何処にも誰にも連絡をせずに、治療を受けていた病院から抜け出して、早朝から開いている駅前のスタンド式のカフェでカッフェコレットという、グラッパ(ぶどうの焼酎)入りのコーヒーを飲みながら男を待った。

若い給仕は愛想が良かった。こんな田舎の温泉街には珍しい洗練された姿の美形の客にそわそわ、話しかけたそうにしていた。

その相手になんとなく、銀色の美形は目じりで笑いかけた。久しぶりに外出できて銀色は大変に機嫌が良かった。まだ肌寒い季節だったが空が明るくて世界中に光が満ちていた。

 爆音とともに現れた男はバイクのエンジンを止めて店背に入ってきた。革の手袋を脱ぎながら銀色の隣に立ち、自身もカフェを注文して飲み干す間中、片手は銀色の腰にまわっていた。久しぶりに会えて触れてもらえて銀色はますます上機嫌、店を出てバイクの後ろに座れと示されたときには嬉しくて、空を飛べそうな気がした。

 バイクが高速を走る間も降りて郊外の山道を走っている時も、男の固い腹に腕を廻しヘルメットのカバーを上げて背中に顔を埋めて抱きついていた。久しぶりに会えたボスが恋しくて仕方がなかった。連れて行かれた山中の別荘は掃除が行き届き食料も運び込まれていたけれど使用人の気配はなく、男が自分で暖炉に火をつけてくれた。

 用意されていたワインに銀色が不満を告げると麓の町にアマローネ、濃い口フルボディの赤ワインを買いに言ってくれた。オラと投げつけられたワインを受け止め喜びのままにくちづけて、そのまま縋ると、応じて抱いてくれた。昼間の情事はあまり好まない男だったのに。

 暖炉の前で服を脱いで裸になって抱き合っていると、出会った若い頃ことを思い出した。ボンゴレ本邸の御曹司の部屋にも冬は暖炉があった。それは飾りで、空調が整ったボンゴレ本邸で実際に使ったことはないと御曹司は言って、火を入れてくれよという銀色の願いを叶えてくれたことはなかったけれど。

ザンザス、と名前を呼ぶ銀色に男はなんだと問い返す。なんでもねぇと銀色は答えたが、抱き合いながらまた呼んだ。だからなんだと男はまた尋ねる。なんでもねぇよ呼んでみてぇだけだと、銀色は笑ってまた答えた。絨毯の上で、惚れた男に全身で懐きながら。

 セックスもした。したけれどペッティング、というよりも、単なるスキンシップの繰り返しが多かった。いつもは煩がってすぐに引き剥がす男が我慢強く触らせてくれた。なんの遠慮もなく銀色は男に絡みつき名前を繰り返し呼んだ。ザンザス、ザンザス。

 用意されていた夕食を食べる時もワインを飲む間も隣から離れなかった。肩を男に押し当てて体温を感じながら過ごした。甘えたいだけ甘ったれてしたいだけキスをした。夜になってベッドに行くぞと言われたけれど暖炉の前がいいと言い張ってそこに枕と毛布を運んでもらった。隣で抱いて眠ってくれと懇願した。願いは叶えられた。

 銀色は笑う。嬉しくてたまらない。嬉しい、幸せと男に繰り返す。男はそうかと答えて髪を撫でてくれた。銀色は男の胸の中で安らかに目を閉じる。

最後だと分かっていた。次の朝は来ない。

でもそれは素晴らしく優しいやり方だ。今夜、眠っているうちに撃ち殺されて裏手の山に埋められるのだろうと覚悟の銀色は最後に一緒に過ごしてくれた男に心から感謝した。怪我をして役に立たなくなった手駒を生かしておくほどボンゴレは甘い組織ではない。機密を知っている暗殺部隊の幹部であれば尚更に、後腐れなく始末しなければならない。

この業界で忠誠の代償が毒薬や弾丸であることはよくある話。実際に何度も目の当たりにしてきた銀色は命乞いをしなかった。恨むどころか感謝して目を閉じる。おやすみと、さようならの代わりに告げながら。

翌朝、目が覚めた世界がもとのままで、自分が息をしているのが信じられなかった。呆然としていたら、先に目覚めた男が居間の奥のキッチンから出てきてカフェのカップを手渡してくれた。

反射的に受け取りながら、おはようもいえずに呆然と男の顔を眺める。眺められても男は不審な表情をしなかった。男は男で、きちんと理解していた。銀色の覚悟も誤解も。

もしかしたら、それは誤解ではなかったのかもしれない。男も最初はそのつもりで、でも出来なかったのかもしれない。床に起き上がって毛布をまとったまま渡されたカフェを飲む銀色を背後から長く男は抱きしめた。そんな風にされたのは初めてのことで、銀色は戸惑い、抱き返すこともできなかった。

二人とも結局、その件に関しては何も言わなかった。別荘で何日間か、殆ど何も喋らずにすごした。銀色はそれでも少しは話しかけたが、男が殆ど返事をしなかった。銀色が作る簡単な料理を食べて少しの酒を飲んで、他は殆ど、背中から抱きしめていた。

セックスもしたけれどそれはおまけ。抱きしめられて、時々は抱きしめて、過ごす時間は幸福だったけれど銀色は心配になってしまう。こんなことをしていていいのだろうか、と。いい筈がなかったから。

食べるものがなくなって、銀色は先を促した。なぁ、そろそろオマエ、戻んなきゃならねぇんじゃねぇか、と。男は黙って銀色を眺めた。

やがて屈まれてくちづけをされて、銀色は目を閉じながら笑った。内心でほっとした。よかったと思った。ちゃんと決意を出来たのだと、そう解釈した。さようならのキスだ、と。

優しい時間が長くなったことには感謝した。男がひどく逡巡し、決意を固められず苦しんでいる様子だったから心配していたのだ。ちゃんとしろよ、出来るよなぁと声をかけたかったけれど逆効果かもしれないと思って黙っていた。

 銀色には不思議なほど未練がなかった。始末されるきっかけが出来て良かったと心から思っていた。色々、ちょうどいいタイミングだった。これ以上歳をとって老いたくもなかったし、衰えたくもなかった。カフェバーの給仕に見惚れられる姿のままで、ずっと愛していた男とさよならをしたかった。

愛していた。でも忘れられて良かった。さくっと始末をして、忘れて結婚して、子供を作って暖かな家庭を築いて幸せに暮らして欲しかった。自分ではどうしても与えてやれないそれがこの男の人生の救いになるのかもしれないと、ずっと考えていた。

 抵抗をする気はなかった。大人しくじっとしていた。自分を撫でる男の掌が優しくて甘い気持ちになった。雲の上に居るような夢心地。その夢を、男の声が破る。

「オレと一緒は、もう嫌か?」

 巧妙な尋ね方だった。イヤだと銀色は言えなかった。男のことを愛していた。少しもイヤではないのに嘘はつけなかった。でも。

「終わりが、来たんだぁ。しょうがねぇじゃねぇか」

 永遠はこの世に存在しない。何もかもがいずれは衰えて滅びる。その時が来たのだ。仕方がないではないかと、銀色のオンナは長く愛し合ってきた男を一生懸命、諭そうとした。

「幸せだったぜ。思い残すことはねぇよ」

「オレの隣はもうイヤか?」

「一緒に居るより居ねぇ方が、オマエに都合が良くなっちまったからなぁ」

 戦いがあった。怪我をして、どうやら回復の見込みがないらしい自分のことを足手まといだと、銀色は冷徹に判断した。始末されて良かった。幸福な思い出と愛情を抱いて眠るつもりだった。

「出来ねぇんなら、自分でやるぜ?」

 気性は激しいけれどウエットなところのある男だと、長い付き合いの銀色は知っていた。自分を抱きしめる男の脇の下へ手を伸ばす。そこに銃があることを知っていた。伸ばした右手を男に掴まれる。

その力は、この男らしくなく弱い。数日間の苦悩の痕跡がある気がしたオンナは、かわいそうにと指を握り返した。何をそんなに悩み苦しんでいたのか。オマエらしくもなく愚かだ。さっさと始末をして、忘れてしまえばいいのに。

とっくに覚悟をして、終わりを待っていた銀色のオンナには余裕があった。愛されたまま終わりを迎えられるのは幸福なことだと思っていた。

けれど。

「出来ねぇ。生きろ」

 男が短く告げる言葉に動揺する。男は既に別の決意をしていた。え、と、オンナが戸惑い目を開けて男を見上げる。そんな要求をされるとは思わなかった。

「ムリ、だぁ」

「死ぬな。生きろ」

「だってよぉ、もぉ、役に立たねぇんだよぉ」

 怪我をした。足首の砕けた骨はもとに戻らない。人工骨を入れて普通に歩く分には不自由がないけれど、以前のような敏速な体重移動は出来ない。剣は腕だけで振り回すものではなく、上級者になればなるほど足捌きが重要。ああ、もう使い終わったんだなと、銀色は自身を既に棄てた。

「厄介者に、なりたかねぇんだぁ。慈悲をくれぇ」

 暗殺部隊の人間として数多くの死を見てきた。自然と自分の終焉に対する覚悟も定まってくる。数多く存在する命の一つごとに必ず訪れる時に過ぎないという客観視と、一流を極めてきた剣士としての誇りのままでそのときを迎えたいという欲求は何の矛盾もなく薄い胸の中に在る。

「駄目だ。生きろ」

「おぉい。ボォス」

「生きていろ。それだけでいい」

「オマエなぁ、無茶言うんじゃねぇっ!」

それがイチバン苦しくて難しい。だって命はその為に生まれてくるのだから。みんなそうしようとして足掻いて苦しんで、力が尽きて、出来なくなるのだから。

「出来ないなら連れて行け」

 あっさりと告げられた言葉の意味を銀色は暫く理解できなかった。右手が開放される。脇の拳銃に導かれてようやく、一人で死ぬな一緒に殺せと言われたのだと分かる。

「……おぉーい、なんだぁ、どーしたぁ?」

 いつからそんな甘ったるい男になったんだぁ、という、失礼な銀色の問いに。

「三日前からだ」

 男は怒らずに答える。この別荘に二人でやってきた最初の夜、やはり男は自分を始末する予定だったのだと銀色に悟らせる声音で。どおりでらしくなく優しかった。それはいいけれど、でもどうして今、生きろと言いつつこの男は優しいのだろう。

「この中に」

 オンナを抱きしめたまま、何日も黙り込んでいた男は口を開けば淀みなく喋る。頭のいい人間が考え込んだ挙句の言葉に、知能は低くないが単純でシンプルな思考の銀色が、敵う筈もなくて。

「オレのも色々、入ってるらしい」

「……オマエの?」

「長かったからな」

 関係は長かった。年数だけではない。ほんの少年の頃からだ。色々まだヤワく、心や体に染み込むことが多い時代からの相手。

「の、ナニが……?」

「名前は知らねぇ。なくせないモノだ」

 なくしたら生きていけないなにか。それはもしかしたら愛情とかいうモノだったかもしれない。

「だとしたら、クソの役にも立たねぇぞぉ、ソレって」

 昔の自分の台詞を盗用されても。

「そうだな」

 男は怒らない。銀色を愛おしそうに抱きしめたまま。抱かれて銀色は嬉しいけれど、苦しさの方が強くなる。

「役に立つものだけで生きてくワケでもねぇ」

「おぉい、ヤワイぞぉー」

「知らなかったのか?」

「知るかぁ、ちょ、ヤメロ、ぉ……ッ!」

 服を脱がされそうになって銀色は暴れた。このまま抱かれたら逆らえなくなると思った。抱かれるまでもなく逆らえず、抱きしめられながらボロボロと泣き出す。愛おしい相手と今生は終わりだと、せっかくつけた覚悟が揺れてしまう。

「オレの為に生きろ」

 愛されながら囁かれる言葉に否と、逆らえる筈もなかった。