序章・その地下で

 

 

 話があると散々に告げられていた。会いたいという意思表示が繰り返されていたが無視を決め込んでいた。呼び出された先がボンゴレ本邸ではなく門外顧問の本拠地だったから、無視はしやすかった。

 沢田家光はしつこかった。最終的には妻子を連れてヴァリアーの砦へ乗り込んできた。名目は妻がルッスーリアにセミドライトマトの作り方を習いたい、ということ。実際はボンゴレ御曹司への強制的な面会。

「……」

 若い御曹司は会いたくなかった。家光だけではない。最近は誰とも会いたくない。ヴァリアー幹部の面々とも必要最小限の報告を聞くだけで自室に篭っている。しかしさすがに今回は面会しない訳にはいかなかった。ボンゴレの門外顧問はこの世で一番愛している妻子を人質に差し出してまで若い御曹司に会いたかったのだ。

「なんの、ようだ」

 病気療養中、ということになっている御曹司は着崩したヴァリアーの制服姿で、自室で対面した。この部屋に家光が訪れるのは初めてではない。ボンゴレ本邸を出て独立した若い御曹司の様子を見に足しげく定期的な訪問を欠かさなかったおせっかいな、男。

「スクアーロのことだ」

 沢田家光も単刀直入に答える。御曹司の眉根がきゅっと不愉快そうに寄る。子供の頃から仕えてきた側近に関する説教を、この相手からは散々に聞かされていた。聞き流していたが無視できないこともあった。でも、もう、終わってしまったのだ。全部。

「あいつは消えた。てめぇの説得の成果だ」

 別れろと繰り返し、この昔馴染みは二人に告げていた。ろくな結果にならないから別れろ。愛しているのなら別れろ。相手を大切に思っているのなら別れろ。とにかく今は別れろと、繰り返し、しつこく。

「いまさら何の用だ」

 御曹司は聞く耳を持たなかった。年上の側近を情婦にした時から父親や周囲の反対は覚悟の上。祝福されよう、という気持ちは少しもなかった。

 情婦は時々、心弱く揺れた。沢田家光に言われるからでなく、関係を間違っていると自責する気持ちが最初から強かった。それでも御曹司が伸ばした手を取り腕の中に入ったのは愛していたから。どうしようもない、理性では抗し難いほど。

「スクアーロについてだ」

 繰り返す沢田家光に。

「いらねぇ」

 御曹司は即答する。突然に情婦が姿を消したとき、衝撃も受けたがとうとうとも思った。予感はしていないでもなかった。情婦は最近、ことに不安定だった。夜も眠れて居ない様子で顔色が悪くて痩せた。どうしたと若い御曹司が珍しく尋ねてやっても無理して笑うだけで、その後で目を泣き腫らした。

 出て行くだろうな、とは予想していた。止めたかったが敢えてそうしなかったのは、好きにさせてやった方が慈悲かもしれないと思ったから。大変な重圧の下で情婦は暮らしていた。自分が手をつけて以来、ボンゴレのボスである養父から排斥するべき敵として認識され暮らしさえ不自由だった。それがあんまり可哀想でヴァリアーに居を移したのだったが、それでも、実家や本人に対する嫌がらせは止まなかったらしい。

 度胸のいい快活なオンナがしょんぼり、元気をなくしていく様子が憐れだった。それでも手放せなかったが、放してやった方がいいのは分かっていた。居なくなられて寂しく、消えたオンナを恨めしく思っているけれど、でも。

それでよかったのかもしれないと思う。少なくとも自分の傍に居るよりは安らかで暮らせるだろう。捕らえて閉じ込めていた鳥が逃げてしまった、ような気持ちで御曹司はここ暫く、鬱屈しつつ、かすかに安堵もして暮らしていた。

「彼女が」

「いらねぇって言ってるだろ」

 行方を探し出してきたのでも、もしかしたら伝言を預かっているのでも、知りたくなかったし聞きたくなかった。

知ったら、聞いたら、探して追って連れ戻してしまう。

今すぐ本当はそうしたいのをギリギリで耐えている。子供の頃からそばに居たアレが居ないと息をすることさえ億劫で何もかもがつまらない。食事も酒も味気なく、何をする気力もなかった。熱を失って心が冷えていく。精神の鬱屈が肉体まで蝕んで、ほんとうにだるくて動くのがかったるい。

「妊娠していた、ことは知っているか」

「……」

 若い御曹司は正直だった。知らないと顔に書いて沢田家光を正面からまじまじと眺めた。聡明な御曹司は同時にすーっと、色々なことを悟った。オンナが出て行ったことに関しての。

 祝福されない子供だ。結婚もしていない養子が私生児の父になることをクラシックなマフィアである養父は喜ばない。今まではなんのなのと言ってもたんなるセックス、若者にありがちな悪い遊びで済んできたが子供が出来たとなればそうはいかない。何もかもが世間に晒されてしまう。それをボンゴレのボス、重厚な九代目が許すはずは無かった。

「……で?」

 と、沢田家光に問い返す御曹司の表情はやや明るい。だから出て行ったのか、子供を秘密で産む為に。なら産んだら戻って来るだろう。子供のことは誰かに預けて育てさせて、そのうちのことにすればいい。養父は高齢だ。全ては時が、解決するだろう。

「アイツが、どうした?」

 聞きたくないと言っていたくせに先を促す若い御曹司を沢田家光は痛々しく眺める。嬉しそうな気持ちが押さえきれずに目元に現れている。こんな歳で女の妊娠を告げられれば違和感や嫌悪が先立ってもおかしくないがそんな様子は無い。コレは本当に彼女を愛していたのだと、思えば憐れになる。

「金を届ける方法があるのか?」

 沢田家光はオンナに優しかった。御曹司にも、少なくてもボンゴレ上層部の中では一番、本当に優しかった。だから困り果てたオンナが門外顧問にすがり付いて、頼られると嫌とは言えない気質のこの男が自身のダミー会社の内部にオンナを匿っているというのは自然な想像。

話があるから会いに来い、というのはそういうことだったのかと御曹司は思った。それなら最初から行けばよかったと顔に書いてある。オンナが自分に会いたがって門外顧問に面会を催促したのだと思うと愉快でしかたがない。いっそこのまま、この男の石油掘削会社に出向いてもいいような気がした。

でもとりあえず、指輪を外す。上流階級にとって宝石は装飾というだけではなくいざというときに持ち出せ換金も容易な財産。もしもに備えて常に身につけているそれをとりあえず、オンナが世話になっている礼に、家光のシャツのポケットに突っ込むつむりで近づく御曹司の前に、すっと差し出される一枚の、写真。

「……?」

 裏返されている、今時は珍しい光学写真を御曹司は手に取る。表に返して顔色を変えた。一気に、真っ青に。

「子供は始末された」

 残酷な事実を告げなければならない家光の口調も苦く、表情は沈痛そのもの。この男は銀色のオンナと縁が深かった。八年前、まだ十四だったオンナを八歳だった御曹司の警護役を兼ねた側近に推薦した家光はそれ以後、オンナの後見役のような立場を自負していた。

「母体は無事だ。だが眠らされた」

 始末をされたという処置の後なのだろう。オンナは裸で台の上に横たわっていた。男物のジャケットが掛けられて、肩から太腿までの肌を辛うじて隠している。目を閉じ意識のある様子は無い。

 シャツは、沢田家光のものだ。ボンゴレの関係者には珍しい水色の作業着。

「俺なりに全力を尽くしたが、守ってやれなかった。すまない」

「……」

 謝るべきは、沢田家光ではない。恨むべきなのもそうではない。それを知りつつ、若い御曹司は目の前の男を睨む。

「死んでいる訳ではないんだ」

本当は、これは恩人。何度も警告を繰り返してくれた上に、今、自分の妻子を危険にさらしてまで真実を教えに来てくれた。

「自棄を起こすな。彼女は死んでいない。ボンゴレリングをそろえれば彼女を起こすことが出来る」

 沢田綱吉はその時、若い御曹司に希望を与えたつもりだった。

「お前が正式な継承を済ませた後にそうしてやれ。短気を起こすな。これは考えようによっては完璧な保護だ。……今、起こしたら同じ事になる」

 本人までもが殺害され排除されようとするだろう。だから今は眠らせておいてやれ、と、沢田家光がいう言葉には理屈が通っていた。

「守ってやれるようになってから、起こしてやればいい」

 ボンゴレのボスの座を継承して、ボンゴレリングを手中に収めて、そうして取り戻せばいいと、沢田家光は御曹司に告げた。この豪胆な若者が唇を 真っ白にして衝撃を受けているのが可哀想でならなかった。

「彼女はお前を待っているさ。お前の夢を見ながら」

 希望を与えたつもりだった。それが絶望であったことを後に沢田家光は知って臍を噛む。慰めになっていなかった。本当はボンゴレの血を引いていない若い御曹司にとっては。