住む場所を、ヴァリアーの砦に移そうと、御曹司が決めたきっかけは銀色のオンナの食事。マフィアのファミリーらしく朝食と夕食は基本、部下たちと一緒に摂っている。けれどいつまでも銀色の前には自分と同じものが並ばなかった。
「……」
若い御曹司は聡い。しかもお坊ちゃんらしくなくおっとりが少なく、他人からの悪意に敏感な性質。幼児期までの育ちが下町の売笑街だったせい。消化が良くて美味そうな魚や肉が並べられているけれど、それは館の厨房で作られたものではなく、ルッスーリアが街から買ってきて自室の簡易キッチンで料理したもの。
「……」
その理由を御曹司は問わなかった。ボンゴレから出される食事をこのオンナに食べさせるのは剣呑だと思っているのか、それともこのオンナの分の食事で出ないのか。どちらにしろ、この情婦を排除しようという養父とその周辺の意思。
ふん、と、思った。やっていられるか、と。
引越しは簡単だった。こボンゴレの若い御曹司は自身の意思を通すという力には素晴らしく恵まれて生まれついている。言葉を変えれば我儘っぷりに、周囲がついあわせてしまう、という適性に恵まれている。
転居は前夜に自身の直属部下に通達され、翌朝には主だった人間は居なかった。朝食もたべずに出て行った跡取り息子とその側近たちを、顔色を変えて追いかけてきたのは沢田家光。
「何を考えているザンザス。破滅するつもりか?!」
来訪者にはまたしても、ランチのパリバリピッツァが出された。小麦粉のドゥではなく、ポテトの極薄切りを重ねて焼き付けたパリッパリの生地の上に、ぷりぷりのエビとアボカドかせ並べられチーズをかけ色よく焼かれている。黒胡椒の風味が冴えて、エビの歯ごたえと甘さによくマッチして、実に美味い。
「酒は要らない。……元気そうだな、スクアーロ」
滴を纏った冷えひえのシャンパンを注いでくれる銀色のオンナに沢田家光がそう声を掛ける。昔馴染みのこの銀色がやせ細っていたのは沢田家光にとっても思いがけなくて、心配で、自分の処置を後悔しもっと足しげく様子を見に行けば良かったと反省の余り、彼女のことを『取り戻した』若い御曹司に、もとに戻せとは言いに来なかった。
「引っ越し祝いだ。飲め」
それを咎めにやって来た門外顧問を逆撫でするような台詞を若い御曹司は口にした。家光は額に青筋を浮かべたが、この食卓では相手がボス。主人の勧めに逆らうわけにもいかずフルート形のシャンパンに口をつける。マスカットに似た香りと甘酸っぱい味は、普段、こんな華奢な酒を好まない沢田家光の舌にもしたたかに染みた。美味い。
「とにかく」
食前酒を腹の中に流すと、興奮で忘れていた空腹を思い出してしまう。思わずピザに齧りつく。イタリア人らしくなく朝食をきちんと食べるザンザスのランチは軽く簡単なものだ。その習慣を家光も知っている。
付き合いは長い。若い御曹司がほんとうに幼い時期、ボンゴレに引き取られた当初から知っている。アタマが良すぎて人見知りの強い子供だったけれど、家光に対してはそれなりに、懐いたというほどではないがそれなりに親しんだ。身内の相克が渦巻くボンゴレ一族の中で、傍流であるが故に継承に絡まないこの男は、引き取られた御曹司に優しくしてくれた。
「……オマエはボンゴレの後継者なんだぞ……」
勧められるままシャンパンのお代わりを飲み干す。銀色のオンナが食べ物や飲み物を出してくれるようになったのは何時からだっただろう。それはボスのサブ、一番の腹心の役割。紹介した守役が信頼され重用されていくのは喜ばしいが、まさか。
こんな関係になるとは思わなかった。
「普通の男と同じようには、振舞えない立場だ」
歴史と伝統あるボンゴレの跡取りとして、若い御曹司は育った。養父ということになっている九代目が下町の娼婦に生ませた私生児。その出生の卑しさは親族たちの間で何度も問題になったが、本人の自意識と資質は誰よりもボンゴレのボスに相応しかった。
「要求があるならオレが取り次いでやる。本邸に帰れ。スクアーロとのことは……」
家光が言葉を濁す。出来れば人払いをと言いたかったけれど、ピッツァを食べ終えて残ったシャンパンをデザートのイチゴに掛けて、機嫌よさそうに食べている御曹司が側近たちを身辺から追うとは思えなくて諦めた。
「……外に、囲ってやればいい」
本邸には連れて帰れない。だが別れろとも言い出しかねて、大人の男はそんなことを言う。御曹司はアドバイスを黙殺した。
「それが彼女の為だ。オマエだって分かっている筈だ。だからこそ、一時は……、その……」
他の男に彼女を譲ったのだろう、と、本人の前で言うのも酷で、また途中で言葉を切る。
イチゴを御曹司は一つしか食べなかった。残りは、皿ごと、隣に座った銀色の前に押しやる。やる、喰え、という仕草。
「……」
果物は銀色のオンナの好物。御曹司も嫌いではなかった筈だが、ここしばらくデザートは殆ど銀色のオンナに押し付けている。若いボスのかなり露骨な仕草を幹部たちは見ないフリをした。
銀色のオンナはデザートを差し出されるたびに黙って受け取り口をつける。けれどその都度、銀色の長い髪の間から覗く耳朶が紅潮して、美味そうだなと御曹司は思いながら眺める。イチゴよりそっちを食べたいと考えながら。今日は一層、染まりっぷりが鮮やか。門外顧問の前でそんなことをされて戸惑っているのだろうか。
「……」
沢田家光まで目を逸らしながら耳朶を赤くしている。案外、純情なところがあるのかもしれない。そんな家光を、ナプキンで唇を拭いながら、じっと御曹司は眺める。
こいつは本当に知らないんだろうか。
あのジジイは何故、こいつに知らせないのだろうか。
ボンゴレの血の継承に関する、こんなに大切なことを。
「……」
分からねぇな、と、思ってナプキンを置く。さっとその前が片付けられ、食後のカフェが蒔絵のオールド・イマリで出される。沢田綱吉の前にも同じものが置かれ、面会時間が残り少ないことをコーヒーの香りが教える。
「おかしいぞ、最近のオマエは」
家光は最後にそんな風に嘆いた。
「イギリスで何かあったのか?いや、その前だな。イギリスに行く前から、オマエは様子がおかしかった」
子供の頃からそばから離したことがない銀色のオンナを置いていったり、キャバッローネに『嫁がせる』という打診に了承の返事を寄越したり。痩せて不幸そうな様子にガマンできず取り戻したのは、まぁ、らしくないことはない。が、その後で彼女を庇うために、ボンゴレの本邸から出るというのは何事だ、有り得ない。
ヴァリアーの本部は中世の古城を改築したもので、ボンゴレ最強部隊の砦らしくそれなりに広く豪華だが、ボンゴレの絢爛とは比べようも無い。数少ない側近とこんなところに引っ込んで、これからを過ごそうなんて、許される筈が無いのは分かっているだろうに、どうして。
「なんだか、自暴自棄を起こしているように、見える」
「……」
若い御曹司は返事をしない。目を閉じたのは感心を相手に悟られないように。よく見ているじゃねぇか流石に、と、思った気持ちを自身の中に押し込めておくため。
「お前は大切な人間だ。それを忘れないでくれ」
というあたりで、沢田家光は立ち上がり、一旦は辞去した。ランチを終えた一行はバラバラに執務室へ向かう。というよりも、今朝、やって来たばかりの部屋を使う舞うにとりあえず、カーテンや壁紙を全部とり外して盗聴器や異物の存在を確認しているところ。
「おい」
一時よりかなり元気になってきた銀色のオンナは壁を叩いていく。左手に音叉を持ち何かを叩くと、技手の左腕に振動がよく伝わって『音』を聞きやすいらしい。その共鳴の響きで向こう側に空洞がないかどうかを確認しているのだ。甲斐甲斐しく働く背中に、ソファに座った御曹司が声をかけた。
「来い」
「……」
「ちょっとだけだ」
来い、と重ねて言うと、しぶしぶという様子で音叉を床に置き、ソファの御曹司の前に立つ。
「引っ張られなきゃ分からねぇのかオマエは」
嫌味を言うとムッとした表情で自分から膝の上に乗った。腿に当たる尻の感触は以前よりずいぶんとマシになった。
「余計な、ことを」
「……なぁ、ザンサス」
「考えるな」
「オレよぉ、どっかで囲われたっていいぜ?」
「馬鹿いってねぇでもっと喰え」
「喰ってる」
「前よりは、な」
手元に引き取った時点では胃が小さくなっていて、いつもの食事の半分も食べ切れなかった。ルッスーリアが嘆きながら食べやすいものを少しずつ増やしてくれて、今では普通に大人の一人分を食べきる。けれど。
「昔は、もっと……」
その細いカラダの何処に入るんだと真顔で尋ねたことがあったほど、ばくばくと、大の男の一人半分は食べていた。好物だと、もっと恐ろしい量を食べる。籠一杯の葡萄をぺろりと食後に片付けたこともあった。
「なぁ、なぁザンザス」
「……なんだ」
少しは元気になってきた様子のオンナを抱きながら若い御曹司が尋ねてやる。両手はオンナの背を撫で回し、門外顧問の来訪で傷ついた場所がないかを探している。
「オレよぉ、こんな、完璧じゃなくってもいいぜぇ?」
「なにが」
「色々、全部。ンなにしてもらわなくっても、いい」
「なにを言っているのか分からん」
「大事にして貰いすぎて落ち着かねぇんだよ。オマエらしくなくってぇ」
「いてっ」
背中に痛そうな処は見当たらなかった。だから掌を前に廻して胸を探ろうとしたら、ガリッとその指に噛み付かれてしまう。
「てめぇ、飼い犬のくせに主人の手ぇ噛むたぁいい度胸じゃねぇか」
「おぅ、ソレがいいんだジューブン。首輪つきの外飼いでいいぜぇ。オマエが庭に出てくんの待ってっからよぉ」
同じ食卓に座って、ベッドの中で一緒に眠ってくれる待遇をくれなくてもいいとオンナは言っている。愛人・情人というより、今はまるで、まるで……。
「なぁ、もしかしてオレがカワイソーでこんな風にしてくれてんならぁ、もう大丈夫だぞぉ」
他の男の手に渡されて痛めつけられたのは治った。
「嫌なのか」
「ぜんぜん、ヤじゃねぇよぉ。けどなぁ」
「不満なのか」
「クセついちまうのが、ちっと怖かったりは、するなぁ」
銀色が正直に告白して、ちゅっと目の前の唇にキスを落とす。優しく重ねなられる相手のソレの感触を貪るのに夢中で、御曹司がもう一度、胸に這わせた指に今度は、噛み付くことが出来なかった。
「オマエに用意、されてる花嫁に……、わりぃし……」
嫌味にならない言葉を捜しながらオンナが言う。キスの合間のささやきを聞きながら御曹司はまた迷う。教えてやろうか、やるべき、だろうか、と。
花嫁は用意されているのかもしれない。成人時の滋養協に合わせた候補者が数人、着飾って待機しているかもしれない。けれど自分にはもう、ボンゴレの利益の為に彼女たちの手を取る義務はなくなった。
「……」
好きな女を、選べるのなら、たぶんコレだと、自分の心の中を探って考える。子供の頃から姉のように、時には母親のようにうるさく傍に居たオンナ。目の前で処女を失う場面も見たし、自分自身の最初の相手でもある。
「……」
けれどもコレは、自分を選ぶだろうか。ボンゴレの血を引いていない自分の、偽りを許すだろうか。
「……」
「どー、したぁ?」
物思いに沈んだ御曹司を心配そうに銀色が眺める。門外顧問が指摘するまでもなく、イギリス留学の前から様子がおかしいことに銀色も気づいている。
「……」
「ちょ、おい、おぉおぉぉーいーッ!」
「うめせぇ」
「待てぇ、まだ部屋ン中、チェック終わってねぇッ!」
「見せてやりゃいいだろ」
隠しカメラがどこかにあるとしたらボンゴレ本部が独立暗殺部隊の動向を監視するために仕掛けたものの筈。いまさら隠すことでもない。
「夕べのぶんだ」
昨夜は突然の転居の宣告で、オンナは自分たちが暮らした部屋の『痕跡』を消すのに忙しく、愛し合うどころではなかった。
「いまヤったら、眠っちまうぅ」
「ねむっちまえばいいだろ」
「ルッスだけに調べさせんのわりぃよぉ」
「明日すりゃあいい」
情けなさそうに嘆きながら、でもオンナは逆らわず服を脱がされる。現れる素肌に顔を押し付けて本増資は深呼吸。この、匂いを嗅ぐと、やすらぎを感じる。
「けどよぉー」
「もう、黙れ」
酷いことをしているのかもしれない。
たぶん、している。確実に。
「ン……」
だまして抱いている。だまされているのに嬉しそうに、笑うおんなが本当に可哀想だった。
「あー、きもちぃー。すっげぇ愛してるぜぇ……」
ため息とともにそんなことを口走るオンナに、オレがボンゴレの後継者じゃなくてもか、と。
尋ねきれない若い御曹司も、オンナのことを、確かに愛していた。