Please, give me YOU.

 

   抵抗は、本気だった。
 証拠に俺の顎はがくがくで、下腹は身動きするたびに痛む。ガキの頃から十八番の蹴りはともかく、膝にのりあげて押し伏せたあと、普段ぜったい喧嘩には使わない右手で殴られたのは物凄くショックだった。本当に、本気で真剣に嫌がられてんだと分かったから。
 それも肘を掴んで、仰向けに床に貼り付けるように押さえ込む。逃げ出そうと彼はもがく。好きなだけ暴れればいい。この体勢じゃ下になってる彼の方が体力を、物凄く消耗するから。俺はただ彼を痛めないように、力を入れすぎないよう気をつけながら待てばいい。彼が疲れきり、荒い呼吸とともに大人しく、なるのを。
「……離、せ」
 ヤだ。
「離してくれ頼む」
 ごめん、出来ない。
「ナンかしてみろ。舌噛むぞ」
「いいよ」
 答えて、口付ける。何度も夢見た、甘い唇。
 十代の、半ば過ぎから、もう十五年以上。
 愛し合ってきた、俺の大事な人。生まれた家を出て、アメリカへ渡った俺と前後して、彼もこの国へやって来た。ロス郊外の住宅地。留守がちな互いの生活を考えて、管理が簡単なマンション。
 日本に居る頃から、俺たちはドアの内側じゃ、夫婦みたいに暮してた。
 こっちに来てからは外でも、そのつもりで暮した。バーで手を繋ぎあい、空港での再会時には抱き合いキスを交わして。誰も俺たちを奇異には思わなかった。時々、彼や俺に気のあるしつこいのがまとわりついて、それでどっちかが拗ねたり揉めたりもしたけど、それも結局、愛し合ってたからこその、イベント。
「明日の朝、あんたが死にたかったら、一緒に死んであげる」
 俺を愛して、優しくしてくれたあんたに。
 あげるよ命ぐらい、いつでも。
 言うと彼は、そこでようやく、きつく瞑っていた目を開く。初めて、俺を真正面から見つめた。俺のココロを震わせる黒曜石の瞳。濡れたそれがみるみる潤んで、ぽとりと。
 落ちた雫が、フローリングの床にしみを作る。ワックスを、随分掛けられてないんだろう。乾いた床だった。抱き締めた肌も、表面のしなやかさとは裏腹に、内側はかさついて軽い。そんな感じがした。
「……どうして」
泣くなよ。泣かないで。あんたがますます乾いちまう。
 昔、そう、月に一度は日を決めてワックスをかけてぴかぴかに、二人で磨いてたリビングの、この床が鏡のようだった頃。あんたは花びらみたいだった、よ。露を受けて蜜を含んで開いたばかりの、すべすべのか花弁にくちづけながら
 その感触を独り占めできる幸せに、俺は酔い痴れていた。
「ひどい……、どうして、お前……」
 泣かないで、頼むから。
「俺をこんなに、しといて捨てたくせに。お前なしじゃ生きてけないように、しといて……」
 あんただけじゃないって。
 あんたが居なきゃ生きていけないのは俺も同じ。
「手、離してくれ。頼む、から」
 だから、それは、出来ないんだってば。
 離したら即、俺は息が出来なくなる。あんたが居ない限界に耐え切れなくってここに戻ってきた。野生の獣が自分の縄張りを、もたなきゃ生きていけないように、俺もあんたが居なきゃダメなんだ。
「罰は十分だ。俺はもう、地獄に落ちた。お前が居なくて、辛かった」
夜毎あえぎ、のたうち苦しんでようやく、お前を忘れることが出来そうだったのだ、と。
「やっと馴れたんだ。お前が居ないのに。頼むからもう、このまま……」
 そっとしておいてくれ、と。
 涙ながらに繰り返される哀願を聞きながら。
 俺が思っていたのは奇妙な共感。そしてなにより、危機を脱した安心。まだ、忘れられてはいなかった。今ならまだ間に合うのだろう。この人を腕の中に引き戻す、こと。
「お願いだから啓介……、お願い、だから」
 触れないでくれと。
 祈るような呟き。
 その甘い、唇にくちづけた。
 あたまをふって避けようとするから、肘の拘束を外して腕の中に、抱きこんで動けなくしてから。
 深く絡める。唾液を互いに、啜りあう。流し込む俺の蜜を、最初はどうしても受け取ろうとしなかった俺を、拒みきれずこくりと喉を鳴らしてからは、自由な腕は俺の、髪と背中に、絡んだ。
 圧し掛かっていた膝を外す。下は固い床で、さぞ痛かったろうと思い、さすりながら拡げた。もう抵抗は、しなかった。柔らかな生地のチノパンを剥いでシャツをたくしあげ、胸元に股間にキスを落として、丹念に舐めて緩めた彼のナカに、俺が踏み入ったときも。
 キツク貪る。俺がどんなに彼に餓えていたか、ちゃんと伝わるように。彼は応えてくれた。くれたけど、ずっと、顔をそむけて、泣いていた。
 ねぇ。
 なんで、泣くの。痛い?
 俺、乱暴にしてる、かな。
「……くせ、が」
 綺麗な顔を、ゆがめて彼が笑う。自分自身を嘲笑するみたいに。抱いてる俺の胸が痛くなる哀しみ。いっそ、罵詈雑言を投げつけられた方がどれだけマシか分からない。
「違うよ、やっぱり……。別の身体の、癖が、ある……」
 嘆く彼の、はだけたシャツの間から心臓に指先を這わせる。揺すぶると感じて下肢は緩むけど、それたけじゃここはダメなの。痛いの。
「前はお前、俺の……、おれ、だけの……、だった……」
 今もそうだよ。俺の、心臓は。
 あんただけのもの、だよ。
「ひどい……、お前……」
 彼の中で達して、彼の胸に崩れた俺を、抱きとめてくれながら。
「気が狂うほど俺が憎んでる、お前の妻、の、においつけて、俺を抱くなんて……」
 匂い?
「殺して、やりたい」
だから、いいって。
「お前の、妻を……」
 あいつのことは、今、言うな。
「呪い殺して、やりたいよ」
 あんたが、そんなに真剣に、憎むほどの女じゃない。
「けいす、け。……けー、すけ」
 なに。
 優しく抱き締めて、抜かないままで二度目の交わり。
「は……、ァ、ン」
 熱がようやく昇ってきたのか、そこで初めて、彼の唇から零れ落ちる、言葉。
「ナニが嫌、だった……。言ってくれれば良かった、のに。すぐに、なおしたのに」
 あんたのなかにも外側にも、嫌なとこなんか一つもないよ。
「俺が時々痛がった……、から?忙しかった、から?お前のそばに居てやれなかったから……?」
 ううん。
 そんなの、あんたが、くれた愛情と優しさに比べれば些細な、ないも同然の欠点。
「俺……が、女じゃない、から?」
 再び、涙が、流れて彼のこめかみと床を濡らす。
「お前に、子供を生んでやれない……、から?」
 俺、ガキなんて要らないよ。
 あんたのガキなら、そりゃ欲しいけど、でも。
 ガキにあんたをとられるくらいなら、要らない。
「それでいいって……、言ったくせ、に……」
 言ったね。嘘はついてない。
「女と結婚、した、くせに……」
 初めて、聞く恨み言、だった。
 そうした時は、そうかと言っただけで。俺をこの部屋に引き止めてくれず、反対もされなかった。もちろん歯が浮くような、祝福も受けなかったけれど。
「ひどい…
…」
 うん。
 ごめん。


 眠らなかった。
 眠れなかったんじゃない。
 意識してそうした。勿体無かったから。
 リビングの床に転がったまま、眠る男の、寝顔を見て居たかった。
 ただ一人だけ愛した、男の。
 夜があける。世界が目覚めていく。朝になれば、男は服を着て出て行く。俺をここに、棄てて。
 そんなのにはもう、耐えられないと思った。
 それくらいなら、……いっそ。
 立ち上がる。静かにそうしたつもりだったのに、男は咄嗟に跳ね起きて俺に手を伸ばす。足首をきつく掴まれ床に引き戻される。されるがままに、したがった。
「どうする?」
 落ち着いた声で問いかけ。一緒に死ぬかと、俺に尋ねてる。
 死ぬといったら、すぐに、命を絶ちそうに見えた。
「……ショク」
「ん?」
「朝食、作るから、離せ」
 暫く俺を探るように見て、その後で足首は離してくれた。けど。
「着るな」
 クローゼットに近寄ることは許されない。仕方がないから、シーツを羽織った姿のままリビングを抜ける。男が脱ぎ捨てたジーンズを引き寄せ、尻ポケットから潰れた煙草を取り出して口に咥える。がさごそ履きながらライターで火を点けたのを見て、灰皿の代わりにコーヒーカップの受け皿を持ってきて置いてやる。
 灰皿どうしたの、と、男は尋ねなかった。
 俺も答えは、しなかった。棄てたよそんなの。お前の匂いがするものは全部、とは。
 床に座って、そっと男の、髪をなでる。男は気持ち良さそうに目を細めた。幸せそうに煙を吐き出して、俺の掌に頭を預けてくる。
 愛しているよ、啓介。
 世界中からゆるされないほどに、深く。
 髪に、絡めていた指を外す。からんできた髪を飲み込む。これでもう、どうなったって、お前と一緒。
 俺がそうするのを男は、切なそうにじっと眺めていた。
 もう一度リビングへ。それから、廊下を通って、玄関へ。
靴は履かなかった。音がするから。ドアを閉めれば、それも無駄だと分かっては、いたけど。
オートロックのこのマンションの鍵は、一旦かかると、三十秒は開かない。
それだけあれば、十分、だった。
夜明けの廊下に人影はない。奥のエレベーターを呼んで乗り込む。がちゃっと、大きな音をたてて俺の……、俺たちの楽園に続いていたドアが開く。物凄い形相でこっちを向いた男に扉の間から、顔だけ見せて微笑み、俺はドアを閉じた。
行く先は屋上。


二重の柵を乗り越えて、男がやって来るのを待つ。
だいぶたってから呼吸を乱しながら、男はやって来た。多分、階段で先回り、しようとしたんだと思う。十七階分を一気に登って。でもお前、知らなかっただろう。屋上に、階段から通じたドアは閉鎖されたんだ。階段で屋上に上がって、それから最上階のベランダに忍び込んだ泥棒が出たから。
俺の姿を見て男がほっとした表情。でもすぐに怒ってなにかを叫ぼうとする。その前に。
「近づくな」
 風にさらわれないように、大きな声で、言った。
「飛び降りるぜ。脅しじゃない」
 本当に、俺はそれでも、いい。
 俺の本気を、男も察したらしい。手前の柵を越えようとした動きが止まる。
「お前が……、帰って来てくれないなら、飛び降りる」
 二度、棄てられるくらいなら。
「帰って来て。また一緒に……、暮そう」
 暮して。
 寝顔を毎晩、俺に、見せて。
 それだけでいいから。他には何も、望みはしないから。
 掃除も皿洗いも、全部俺が、するから。苦手でお前に押し付けていたこと全部。だからお願い、帰って来て。
 言うと男は唇を噛み締め、とうとう。
「俺だって、そうしてぇよ」
 震える声で、告白。
「調子に乗りすぎたんだよ俺たち。抱き合ってキス、してるとこを見られた。親父の知り合いに」
 ……そ、う。
「あいつ怒って、あんたを呼び戻す、なんていうんだぜ」
 俺が戻ると、お前、思ったのか。
「戻して、家、継がせて結婚させるって。それぐらいなら……」
 なら、なに。
「俺が親父の言うとおり、あんたと別れて結婚した方が、マシって……」
 思ったのか。馬鹿。
 俺の気持ちは、どうなるの。
「俺だって、あんたと会いたくって。女、悪い女じゃないけど、でも。それでも、あんたとは、そもそも比べ、られねぇよ」
 あんたを愛しているんだと。
 告白に、俺は唇をゆがめる。嬉しくて、じゃない。
 ウソツキ。なんて、白々しい、いい訳。
「きっかけだろう、そんなの」
 他者からの干渉なんて、自身の覚悟が決まってさえ居れば、皮膚の下には届かない。催眠術でも本人の望んでいないことを、どうやったって、させられないことと一緒。
 家に世間に、圧迫されたふりでお前は、俺を棄てて……逃げた。
 そうだろう?
「……恐かった、んだよ」
 ようやくの、正直な、告白。
「あんたが恐かったんだ。あんたが居なきゃ、生きていけなくなるのが」
 うん、知っていた。
 甘やかすたびにお前は、嬉しさだけじゃない複雑な顔を、したから。
 それでも俺は、お前を抱き締め続けた。俺の腕の中でしか、息ができないように。
 何かを男は言い募ろうとする。俺は聞きたくなかった。
「……で、どう、するんだ?」
 結論を、求める。
「俺を捨てるか?それともお前を、俺にくれるか?」
 二者択一だ。二つに一つ。
「答えろよ、早く」
 街が目覚めて、俺の言葉が騒音にかき消される、前に。