雷鳴
スーツケースが一つずつ。
弟には、うさぎの入った籐のバスケットを余分に持たせて。
他にも、本やパソコン、酒、ビデオ。……車。
運びこめたのは、船旅だった、から。
四泊五日の、近海クルーズ。東京湾を出発した旅客フェリーは名古屋に一泊、博多に一泊、釜山に一泊、そうして最後に、博多にもう一泊。
そこから、弟はヨーロッパに旅立つ。
一週間後には、俺も後を追う。……だから。
それまでの時間、ひたりと寄り添っておくために。
「新婚旅行、行こう!」
言い張る弟に、前半抜きと釘をさしつつ、俺は旅立ちの用意をした。少しでも心地よく過ごせる場所。移動に時間をとられないで、移動中もずっとさばに居れて、人目を気にしなくて済む場所。自宅か東京のホテルに篭ることも考えたが、それじゃ『旅行』にはならない。日常からの、逸脱でなければ。
「うわ、俺、船旅って初めてだよ……」
車に荷物を積み込んで、そのまま車ごと船へ。船腹の駐車スペースで誘導され、車のキーを係員に渡して荷物のタグを受け取る。奥にはエレベーターもあったが近い階段を上がるとそこが、ホール兼フロント。名前を名乗りタグを渡すと、奥からモーニング姿の客室責任者が出てきて部屋まで案内してくれた。
船の等級差は激しい。それは、ホテルの比ではない。
もちろんそれは値段に応じている。旅行中は一日五食の食事つき、飲み物は24時間フリー、それで通路側窓ナシのツインは7万円代から。そうして俺と弟がリザーブした。
「こちらとなっております」
二部屋続きのロイヤルスイート、リビングルームのガラス張りが自慢の、70uの部屋は、その10倍。もちろん、食事は一般客のダイニング・ビッフェとは別の、エグゼクティブ・フロアのための個室かルームサービスが選べる。
荷物が運び込まれた後で、弟は持っていたバスケットの蓋をあける。大人しくしていたうさぎがひょいと姿をあらわす。突然目の前に広がった海に驚いて、一目散にガラス窓へ向かう。時刻は昼下がり。ゆっくりと船が岸壁から離れる。
ブリッジの更に最上階、殆ど足元に海を見下ろすような位置の、部屋。まるで空中庭園。見渡す限りの海原を支配している気分になれそうだ。
「うさぎ、ほら、水とメシ」
弟が用意されていたミネラルウォーターの蓋を開け、用意してきた器にあける。盛り付けてあったフルーツバスケットを絨毯の上に置く。けれど、うさぎはそれどころではない。足元まであるガラスに身体をこすりつけるように、横向きに右に左に動いている。船と一緒に、海原へ漕ぎ出している、つもり?
「……アニキ」
ソファーにゆったり、座った俺の背後から、弟が腕をまわす。肩を背中を抱き締めて。
「奥、行こう」
ベッドのある寝室へ。
「俺には水は?」
「ほしいの?」
「うん」
とってきてくれる、冷えたペリエ。
「リンゴも、食べたい」
「意地悪言うなよ。後で」
「食べたい」
言うと、歯軋りしたそうな表情でそれでも、フルーツバスケットからリンゴとナイフを取り出す。わりと上手に、剥いていく。うさぎが近寄ってきて、皮を端から、しゃくしゃく食べていく。
「はい」
指に持って口元に差し出されたそれに、噛み付く。口に咥えて両手で受け取って、味わって食べた。イライラしながら弟が、それでも我慢して待ってる。タバコを懐から取り出し、思い直してテーブルの上に置く。タバコを吸って暫くは、俺がキスを嫌がるから。
ゆっくりと、俺がリンゴを食べて。
うさぎがりんごの芯をもらって、食べている。
「……イコ……」
「海の色が」
「……ん?」
「どんどん、明るくなってくな……」
大きな船だが速力は出ている。太平洋を横断することも出来る豪華客船。しかし、一ヶ月二ヶ月単位のクルーズは時代に適合しなくなって、最近は一週間足らずの短い旅程の中で、寄港地ごとに乗客を入れ替える形式が増えている。
「そんなん、どーでもいーからッ」
弟が俺を揺らす。俺は内心でほくそ笑む。……これだから、旅が、スキ。
一緒に外に出て、他人に『兄弟』として振舞った後でこいつは、ムチャクチャ激しく俺をほしがる。絆を確認、したがる。されるのが好きだ。だから、旅が、スキ。
手を伸ばす。引き寄せて、くちづける。離れた瞬間、身体が浮いた。
「……ッ」
さすがに、驚く。抱きかかえ、られて運ばれる奥の、寝室。
寝室にも、浴室にもちゃんと窓がとられていた。
せっかくの景色と光を、分厚いカーテンで遮って。
俺たちは、ベッドの上で抱き合う。
キングサイズのばかでかいのの他に、『マネージャー』という立場の俺のためにエキストラ・ベッドが入っていたけれど、それが使われることはないだろう。
……うさぎの昼寝、以外には。
恋人同士のように。巣穴にようやく、戻れたつがいの獣同士みたいに。
愛を確かめるため?
いやもっと、深く激しく、わがままに。
相手が自分のものであることを確認する、ために抱き合う。
繋がりあって、揺れあう。
「……ッ、」
ひくっと、俺は身体を痙攣させて、耐えきれない涙をこぼした。
辛いんじゃない。痛いんでもない。
ただ、強すぎて。
過度の刺激に、身体が勝手に反応する。
『新婚』なんて言葉がどうしても恥かしくって、聞いていられないほど昔から、抱き合ってきた相手。
もしかしなくとも互いに一番、縁の深い体。長く、深く、繋がりあってきて……。
知り尽くしてる、筈だった。お互いに。……なのに。
最近の俺はおかしい。
まるで歳のいかない、経験の浅い、開発途上のカラダみたいに、自分が敏感になってるのが分かる。
最近の、このオトコも、おかしい。
知らないくらい、信じられないくらい、深く入ってきて……、響く。
嫌じゃない。不愉快じゃない。ただ、怖い。
離れられなく、なりそうで。
手放せなくは、もうなっている。ヨーロッパに旅立つ日程上の、ほんの一週間の別離が今から、とても辛い。考えただけで泣き出しそうな、くらい。
「……、ぁー」
満足そうに、オトコがうめく。快楽に掠れてる声が嬉しくって、俺はますます、震え出す。
……気をつけなきゃ。
ヘンな声を、あげてしまいそう。
油断したら、多分、唇からもれてしまう。まるで女の子みたいな嬌声。十代の頃さえあげた覚えのない、甘ったるい、鳴声。
……いっそ……
「嵐、こねぇ、カナ……」
俺を深く、抱きこみなおしながら肩に、擦り付けられる、言葉。
そう、大嵐。
波にもまれて、明りは消えて。轟く雷鳴に、何も聞こえなくなってしまえばいい、のに。
「ずーっとあんたと、こーしてたい、よ……」
そうしたら、言えるのに。
お前をどんなに、俺が恋しく、思って、いるか……。