最愛・一

 

 

 前橋きっての大病院のあととり。

 というだけで、女は浮かれて、求婚を待っていた訳ではなかった。

 彼女の祖父は地方銀行の頭取で、曽祖父は創業者。父方も母方も財界に勢力をもち、特に金融業界には一種の閨閥を形成している。

 その閥に入りたいと望む経営者は多く、病院の院長も民間企業の経営者である限り例外ではない。ただやはり、株を持っていればそれで社長になれる不動産屋や流通業と違って、未来の院長は医師である筈で、見合い相手が少なくとも、財産だけが取り得の馬鹿でないことは見合いをする前から保障、されていた。

 交換した経歴書の写真はスーツ姿で、おそらくは成人式だろう、まだ少年の気配さえ残した容姿端麗な青年が笑っている。ついその気になりかけて、でも気を引き締めた。これはずっと以前の写真だ。現在の相手は既にこの写真から十年近い年月を経ている。女の色香より男の艶は失せやすい。既に、薄ヒゲにまみれたおじさんに、なり果てていて、だからこんなに昔の写真を、添えてきたのかもしれない。

 仲人は口を極めて見合い相手を褒めちぎるが、いつでも仲人の話は、『素晴らしい』『他には居ない』『二度とない』話ばかり。信用する馬鹿は居ない。

 それでも見合いすることを承知したのは、やはり写真に惹かれたから。本当にこんないい男が三十前までも独身で居る筈がない、と思いつつ。

『お医者様は、修行時代が長いから』

 仲人は言った。確かにそうだ。卒業と就職はごく順調にいっても二十五か、六か。それから数年の、滅茶苦茶に多忙な研修医を含む修行期間を経て、三十になってようやく、結婚に向かう余裕が、出るのかもしれない。

 ホテルのレストランで会った。デザートの充実した美味しい店にしてもらった。経費は相手方の負担だと、最初に伝えられていたから。オトコがスカでも食べ物が失望を埋めてくれるだろう。そんな気分で居た。

 結果は……、大当たり。

 物凄い美青年だった。腰が痺れるような色香さえ感じた。それは彼女だけでなく、仲人も、付き添いの母親も、呆然と言葉を失ったほど。青年はその雰囲気に戸惑いつつ、名前を名乗った後でお見合いは初めてだから緊張しています、なんて言ってから、笑った。

 日が射したよう、だった。

 あまり口数は多くなかった。食事のマナーは良かった。緊張しながらの食事が終わって、デザートワゴンが運ばれて、好きなものを好きなだけ選べるのに、彼女は見合い相手の前であれこれ注文することが恥かしくクリームブリュレをほんの少ししか食べられなかった。それを惜しいとも思わなかった。

 承知の言葉を用意して交際の申し込みを待っていたのに。

 伝えられた言葉は、身辺多忙につき、今回の見合いはなかったことにしてくれ、という返事。

 納得できなかった。

 仲人に理由を問いただして、ようやく漏らされた内情は、見合い相手の弟の、こと。アメリカでプロレーサーをしているというその存在は、経歴書には記されていたけれど気に止めていなかった。インディでいい線をいく花形ドライバー、といわれても、車にもそのレースにも興味がなかったから、知らなかった。

 知らないものはないも同然で済ませる、女にありがちの欠点を彼女も備えていて。

 弟の婚約者が事故死して、弟も急病で入院。……本当は、婚約者は自殺で弟は自殺未遂。

 そんなことを教えられても、気持ちは同情へ動かず、ただ身の上に響く痛みとして、見合いの不成功を惜しんだ。

 

 

『首吊りでなくてよかった』

 ということを、何回も、何十回も、百回も、千回も、何万回も、繰り返し、思う。

 首吊りでなくてよかった。あれは後遺症が酷い。

 首吊りでなくてよかった。それなら手遅れだったから。

 首吊りでなくてよかった。生きていて、くれた。

 大量の睡眠薬による死を、選んだ弟は兄に発見されたあとで、何度も繰り返し胃洗浄を受け弱って、今はそれこそ『死んだ』ように両親が経営する病院の、一番いい個室で眠っている。付き添う当直の『兄』の目には腫れた口元が痛々しい。それは今回の自殺未遂による傷ではなかったが、自殺の原因に直結してはいた。

 手首を切って、死んだ弟の婚約者。

 ……切ったのは自宅ではなく、弟の部屋の隣、兄の部屋との境目にある、二階のサニタリールーム。

大理石の浴槽を据えた一階の広い風呂とは違う、気軽にシャワーが浴びれるちいさな部屋。彼女はやがて家族の一員になる女として、実家にも頻繁に出入りしていた。

 遺書はなかったが、あてつけの自殺ということは明白。検死が終わって葬儀に行った弟は、婚約者の遺族にぼこぼこに殴られて戻った。抵抗も反撃もしなかったらしい。

 兄は、なにも言えなくて、出来なくて。

 せめて手当てをしようと、持ち出した救急箱ごと弟に、ごめんと謝られて。

『ごめん。一人に、させて』

 そんな言葉で拒まれて手を引いた。

 それでも気になって翌朝、女が死んでいたサニタリールームを挟んだ隣室のドアを叩く。返事は無かった。眠っているのか、返事をしたくないのか。そっと押したら鍵はかかって、いなくって。

 ……寝顔だけでも、見たくて、ドアを開けた。

 弟は眠っていた。母国より海外で評価の高い若手レーサーは、ぴくりともせずに。

 その寝息に不自然さを感じて脈を取った。異常に遅く、滞っていた。

 それからは。

 口移しで水を無理に飲ませ、上体をベッドの上から落として、胃を圧迫して薬を吐かせる応急処置、救急車の要請、救急車の中でも脈の遅滞に慄きながら処置を続けて、病院に到着した後は専門の器具を使った胃洗浄、点滴。発見が早く処置が的確だったせいで、命に別条はないと担当医は診断を下したが。

 分かっていても心配で付き添う。当直だったが実家の病院だということと建物内ということで、個室での待機を黙認された。眠り続ける弟に付き添う。時々、不安に耐えられず、顔に掌をかざして呼吸を確かめながら。

 気温は下がり続ける。兄は立ち上がり、特別室らしくあつらえられたクローゼットの棚から純毛の毛布を引き出して被せる。弟は起きない。疲れ果てた表情で、それはもう、眠らせてくれと懇願、されているようにも見えて、切ない。

 こんなに愛しているのに。

 どうして、こんなことになったんだろう。

 大学を卒業して国内のチームに参加、一年後には米国へ渡った弟。それきり、時々の手紙しか音信がなくなって、五年。

 ようやく帰国するという連絡がきて、それは『婚約者』を両親に紹介するためだった。国際結婚の覚悟をしていた両親の前に、連れられてきた女は日本人だった。アメリカに留学し、そこで就職していたんだという。実家が同じ群馬で、そんなことから気があったらしい。彼女は弟との結婚に備えて、既に勤務先は退職していた。殆どもう嫁に来たのと同じくらい、気軽に高橋の、屋敷と呼ぶのが似合いの豪邸にも出入りして、気軽に家事を手伝ったり弟の部屋に泊まっていったり、して、いた。

 先を越されたなと両親は笑い、今時は皇室だって弟が先手を打つんだぜと弟が笑い、いずれ義妹になる女も笑った。あわせて笑いながら、何処かに痛みを、感じたのは本当。ドコだったのかはっきりしないまま、寂しいのかなと、兄は自分を分析し。

 それまで手にとろうともしなかった見合い写真に、目を向けるようになった。幾つも集まったうちに一つ、感じのいいのがあった。茶髪で明るくて、すましたつくり笑いが多い中、その子だけはふざけて髪をかきあげた流し目で、去年流行った映画の、ポスターのポーズを真似ていた。可愛かった。

 だから会った。会った印象は思っていたより大人しかったけど、慣れたらそのうち、笑ってくれるだろうか。写真みたいに明るく。ちょっと学生時代までの、弟に似た瞳の明るさで。

そんなことを考えながら帰宅すると、弟が家を出るところ。きっちりしたスーツ姿に驚いて、ドコ行ってきたのさ、と。

 問われたから正直に答えた。叔父さんの紹介で見合い、と。瞬間、弟は表情をくらませた。そんな真似は、以前にはしないことだった。

 馬鹿だねぇ、身内の紹介で見合いするとあとたたるのに、見合いの女なんてロクでもなかったろ?

と、弟は言って。

 けっこういいカンジの人だったぜと、俺は答えて。

 そのまま出て行った弟。見送って、部屋に帰って、疲れてベッドに倒れこんだ、ことまでは覚えている。

 あとは少し、記憶の混濁がある。とぼけてる訳じゃなく本当に、切れ切れにしか、覚えていないのだ。

 確かに、女の子を、抱いた。

 でも夢の中みたいに現実感がなくて。

『……、アニキ』

 はっきり覚えてるのは翌朝、俺をそう呼ぶ震える声に目覚めて。

『なに、してんの……?』

 気付けば朝日の中、俺は自室でなく、弟の部屋で寝ていて。

『なにした、の』

 顔にまさかと書いた弟が、怒りより呆然とした表情で、俺を見詰めていて。

 俺は、裸で。

 隣には弟の婚約者。

 眠り続ける彼女も全裸だった。

 

 その場はとりあえず、彼女が目覚める前に出て行ってと、言われるままに、部屋を出た。服や下着はベッドに紛れて、俺は裸のままだった。目をそらす弟の横顔が痛かった。

 それを機に、弟の婚約者はぱったり、家に来なくなった。どうしたのかと両親が問うて、ちょっとと、弟は誤魔化した。喧嘩したのかと問い詰められ、まぁそんなものと、答えた弟に母親が。

 挙式の日取りも決めなきゃならないから、謝って許してもらって、早めにもう一度、連れて来なさいと催促し。

 結婚は、ちょっと伸ばすことにしたから、と、弟が答えた。理由を尋ねられ黙りこむ弟に申し訳なくて、俺は居間から出て、それきり、自宅には、ろくに戻らなかった。

 だから、消息を知らなかった。

 救急車で、弟の婚約者が搬送されてくるまで。そして付き添った弟が、真っ青な顔色で。

『あいつ助かる?』

 俺に尋ねた。努力はすると答えたが、出血多量で既に呼吸停止。人工呼吸器を装着したが、心停止は二時間後、脳波もほぼ同時に停止して。

 変死だったから解剖。結果はあきらかな失血死。弟は警察の事情聴取を受けた。婚約中だったこと、けれどその婚約は解消の方向に動いていたこと、帰宅したら女物の靴があって、来てるのかと捜したら居間にも部屋には居なくて、二階のサニタリーで、彼女が手首を切っていた。

 肘の下をタオルで結んで救急車を呼んだ。

 証言は状況証拠と一致して、彼女の死は自殺と断定された。

 弟は、俺のことを、一言も警察にいわなかった。

 自殺の原因はお前だと、遺族に責められたことも。

 自殺するほど思いつめていた、ことも。

 

 ……怒れよ。

 

 殴るどころか文句も言わず、責めもせず、弟は俺に、なんにも言わないまま、自殺未遂。

 

 ……殺せよ。

 

 そっちがいっそ、どれだけ楽か分からない。

 目が覚めたら、言おう。詫びに死ぬのは、遺書を書いて、俺が死ぬから、お前は……。

 ……お前は。

 忘れろと言うのは到底、ムリだろう。でも出来れば忘れて、そして。

 ……生きろ……。

 どうしてこんなことになったのか。そんなのは分かってる。原因は俺だ。

 意識して犯した罪じゃないから、罪悪感が曖昧だったけど、今、痛いほど思い知る。悪いのは俺だ。

 彼女の死をリアルに受け止めきれなかった心が弟の、血の気のない青い顔には震えて竦み上がる。

 俺は悪いことをした。お前に、悪いことを、した。

 あぁでも首吊りじゃなくて良かった。リストカットでもなくてよかった。

 あれは傷跡が残る。自傷癖の人間はそれを誇示する傾向があるけど、まどもな社会ではそんなことしたら、責任のある仕事をさせてもらえなくなる。

 睡眠薬は、傷跡は残らない。見える場所には、残らない。

 

 

 目が覚めて、ぼんやりした視界と暗い部屋の中、静かに俺を見てる白い顔と黒髪が死んだ女に見えて。

「……ごめん」

 謝った。声は掠れてて、自分が喉、乾いてるって分かった。

「ごめん。……けど、しょーが、なかった」

 眉を寄せる表情まで、あぁ本当によく似てる。当たり前だけど。

似てたから愛した。

「俺の成功は、全部アニキに、もらったモン、なんだ……」

 あの人が居なきゃ、今の俺は居なくて。

 俺を、この世に送り出したのは両親でも。

「恩人、なんだよ、あのヒト、俺の」

 育てたのは、アニキで。

「……ごめんな」

 謝った。手が伸びてきた。首に向けられてて、あぁ。

 絞め殺すのかなと。

 それでも、……、まぁ……。

 それでもいいって、思ったわけじゃない。ただしょーがねぇかなって、諦めが先立って。

 生きていたいわけでもなかったから。

 目を閉じた。でも、手は、首を締めなかった。代わりに毛布が胸元から顎下まで引き上げられて、暖かい。

 暖かさに誘われて、閉じた目のまま、眠りに落ちかけて。

 軋む音を聞いた。喉か、歯か。声にならない、悲鳴か、それとも嗚咽?

 泣かれたって、もうしょーがねぇ。俺は救いようのない変質者。五年も離れていたのに、全然変われなかった。

 日本に帰って来て、五年ぶりの自室で女を抱きながら、想ってたのは、ずっと別の、相手。