最愛・10

 

 

 冷たいシャワーを最大水量で心臓の上にかけた。

 皮膚がぎゅんって縮んだ。叫び声を上げて飛び出したいのを、歯ぁ食いしばって浴び続ける。

 体温が奪われて手足が冷え、荒かった呼吸も急速に収まる。皮膚の内側を暴走してた熱も、それにつられて、沈んでいった。

 寒い。冷たい。寒い。

 でも水を浴び続けた。浴びてなきゃいけない気がした。これは罰だ。冷たい水にどれだけ打たれてみたって、彼の痛みが分かる訳じゃないけど。

 でも、何もしないでいることは出来なかった。

 心臓むけて手に取ってたシャワーを壁のフックに掛け直し頭から浴びる。髪から背中を伝う水流はぞっとする針を含んでいた。裸の無防備な全身に冷たい水が這い回る。……こういうモノなのかな……?

 どんなキモチなんだろう。レイプされる、って。

 俺はされたことがない。勿論、した事もない。同じ部屋に入った後で強引に引き据えるのとレイプは違う。はじめた後でイヤダって言う真似を、無理にさせるのともずいぶん違うだろう。歩いている途中の路上で引き摺られて、川原の橋の下なんかで、ヤられんのはどんな気持ちなんだろう。

 彼をレイプした男の罪が、俺にも一脈、通じてる気がする。彼があんなめにあったことと俺とは無関係じゃない。彼を痛めつけたのは俺の手じゃなかったが、それは偶然の結果かもしれない。俺だってかなり彼に、乱暴で残酷な真似をしてきた。セックスの時は服従さたいのが俺の性で、泣きながら震えながら、俺の欲望に従う彼に、胴奮いするほど欲情した。ちょっとでも逆らえば肩に噛み付いて威嚇した。大人しく、してろって。

 傷つけたのは俺じゃない。でも、男って分類の中では俺も犯人の一人。彼を自分のオンナにしたくって舌なめずりを繰り返し、唾液をぼたぼた、たらしながら周囲を徘徊した。彼に、先に、牙をたてたのは俺だ。俺と彼の初夜は合意だった。レイプじゃない。でも乱暴は、した。

 無防備に明るかった生娘を、抱いてオンナにして涙と愁いと艶を添えさせたのは俺だ。いいオンナになったけど、それは彼自身には幸福なことじゃない。証拠に泣いて震えてた。俺が知ってる彼は、そういう人じゃなかった。

 繰り返し虐待された猫みたいに、人の、男の、手が触れただけで竦んで泣き出す。

 彼はひどく怖がってる。彼をレイブした犯人だけじゃなく俺まで。その事実が俺に痛みをもたらした。傷つけてことを今更思い知って、後悔。

 ……ごめんね……。

 全身を水で鞭打って、こんなことで、詫びになんかならないの知ってるけど。

 ……ごめん。

 泣きたい気分だった。涙が出なかったのは彼に、先に泣かれていたからだ。

 涙の代わりに水を浴び続けていたら。

「……。啓介……」

 浴室の外からそっとちぃさな声。寝室に残してきた彼の声だ。でもシャワーの水音が邪魔でよく聞こえない。俺は水流を止めて、

「使うの?待てよ、すぐ出る」

 濡れた髪もそのまま、すりガラスのドアを開けた。

「使わない。ただ、お前、もう三十分もシャワー浴びつづ……」

 横開きのドアをずらして、俺が脱衣場に足を踏み込んだ、途端。

「啓介、お前……ッ」

 彼は目を見開いた。俺は彼の方をなるべく見ないようにして、棚に積み上げてあるバスタオルを手にする。濡れた皮膚から水滴を拭う。

「水を浴びてたのか?冷えきってるじゃないか」

 俺の体温を確かめるように、俺の裸の腕に手を延ばしてきた人を。

「触るな」

 言葉だけじゃなく拒んだ。伸びてきた手を払いのける。彼は傷ついた顔をしたけど、俺はそれどころじゃなかった。触るなよ、近づくな。こっちを見ないでくれ。せっかく収まった熱が再燃する。目を合わせただけで多分、俺のはあんたに奮い立つ。

「……、けい……」

 そんな声を出すな。もれる息ごと唇を塞いで、舌の根も歯の裏側も嘗め回したくなるから。俺はあんたには危ない男なんだよ。あんたを犯したくって地団駄踏んでるオス。あんたの呼吸の音までほら、俺の耳ははっきり拾うんだぜ。今、口ン中で舌を動かしたね。

 心配そうな表情が背けた視界の端で揺れる。顔をそむけてるけど俺の神経はあんただけを追う。彼の服装に乱れはない。ない筈だ。俺は、ナンにもしてやしない。……今夜は。

「啓介、戻れ。湯に漬かって温まるんだ」

「俺、部屋に行くから」

「風邪じゃすまないぞ、肺炎でも起こしたらどうする気だ」

「俺に構うなよッ」

 でかい声が出た。そんなのを、出すつもりじゃなかった。俺は自分が思ってるよりひどく動揺してた。三十分前、シャワーを浴びる前、抱こうとしたベッドの上で彼が、俺を怖がって震えて。

 ぎゅっと、手足を縮めて目を閉じて、閉じた睫毛の隙間から涙を溢れさせた、こと。

「泣くほどイヤなんだろ。俺に触られたくないんなら、触るな」

 俺はもちろん、そんな人にはナンにも出来なかった。なにしたって暴力になっちまう。

あんたをベッドに残して部屋を出て、冷水を浴び続けてようやく治まった欲望を煽るなよ。どうせあんた、含んで一緒に燃え上がって、おきが静かに白い灰になるまで、鎮めて納めてくれる気はんないんだろ?

「俺と寝たくないんなら、もう俺の前に来るな」

 欲しい気持ちを押さえれば無理がくる。こんな食いつきたいのにさせてくれない人を憎みそう。もう憎んでるかもしれない。

「待て啓介、温まれ……ッ」

 呼び止める声を振り切って、俺は自分の部屋に入った。裸のままだった。服を着るのも面倒で、そのままベッドの毛布にもぐりこむ。大人気ないってことは百も承知だった。けど俺に、他にどーしろって?

 惚れたオンナとしたいのを拒まれて笑えるまど、まだ俺は悟れちゃいねぇし彼に馴れてもない。無理矢理押さえ込んだ欲望と一緒に彼から離れるのが、俺がいま出来る愛情の証明。

 彼は暫く、サニタリーの前に立ってた。うなだれてるのが分かる。壁と廊下を隔てても彼がなにしてるか手に取るように分かる。そーいや昔からだっけ、俺は隣の部屋に居るアニキが、部屋の何処に居るのか大抵は分かった。机に座ってる時は遊びに行けないけど、離れて本を読んだりしてる時はノックしてもいい。そんな風に自分で決めて、彼の部屋側の壁に押し付けたベッドの中で、ずっと。

 彼のことだけ考えながら暮らしてた。

 よく我慢できたもんだ、あの頃。

 あの頃の俺は今より大人だった。彼がオンナになるのと同時に、俺にも勿論変化はあった。ガキみたいに過敏で脆くて、彼の挙動に気持ちを乱される。ガキの頃だってこんな風に揺さぶられやしなかった。なんで、こんな。

 支配されてるのは彼にじゃない。俺自身の欲。彼を喰える時はひどく上機嫌で、ダメだとおそろしく凶暴で好戦的になる。俺の落差の激しさに彼が時々、戸惑ってんのもよく分かる。分かるけど直せない。セックスした後は意地とか自尊心とか消えて、あんたの足の指を舐めてもいい気分。出来ないと顔も会わせたくないんだ。

 彼が諦めたようにサニタリーから離れて歩き出す。ごめん、傷ついてるね。でも、俺にももう、どーしょーもないんだ。この振幅の激しさは、俺自身さえ持て余してるんだ。

「……啓介」

 ドアの前で立ち止まった人が声をかけてくる。俺は返事をしなかった。でも彼が眠ってないことは分かってる、みたいに彼は立ち去る気配を見せない。

「啓介……、なにか飲まないか。下で」

 ナンにも要らない。今はあんたしか欲しくない。あんたをくれないんなら、声かけるのは止めてくれ。

「さっきは……、ごめん。八つ当たり、した」

 独り言みたいにいって、彼は俺の部屋の前から離れかけて。

「嘘つき」

 俺はベッドに転がったまま応える。彼は驚いたみたいだったけど、静かに俺の、続きを待っていた。

「八つ当たりで泣いたり震えたりしないだろ。あんた俺のこと、強姦したのと一緒にしてる」

 それが、俺の心をしたたかに傷つけた。挑発的な台詞は聞き流せたが、脅し半分で肌に触れた瞬間に怖がって震えられて、俺は彼の挑発が哀しい虚勢だったことを知った。

「……怒ってるのか?」

「怒ってるとかじゃねぇよ。悲しいだけ。もう、寝なよ」

「入っていいか。少し話をしたい」

「止めろって。俺に近づくな」

 俺が怖いんだろ?あんたを痛めつけるって思ってんだろ?だったら離れてろ。俺が見えない場所に。

「そんなに、怒るな。……開けるぜ」

 二度の拒絶を口にする前に彼は部屋のドアを開けた。俺の拒絶は本心からじゃなくて、そのせいで静止が間に合わなかった。真っ暗な部屋の中、廊下の照明を逆光で背負ったシルエット。腰のあたりが異常に気になる、俺はもうマトモなアタマじゃねぇ。

「啓介」

 怖れる気配もなく、彼は部屋を横切って俺が毛布をひっ被ってるベッドに近づく。腰掛けて屈みこむ。ガキに話し掛けるとき目線を合わせるたにしゃがみこむみたいに。俺は背中を向けていたけど、ぱさって彼の髪がシーツに当る音がした。俺のうなじにも触れた。

「少し混乱していたんだ。警察に行って帰ったばかりで動揺、してた。……許せ」

 許すとか、許さないとかじゃない。

「怒って、ないって」

あぁ。俺はまた、どうしてこんなに豹変するんだろう。あんたの身体が触れて髪が当る、それだけで、我ながら声の高さが全然違ってる。

「自分のオトコ、呪い殺したいだけだよ」

 俺の穏やかな話し方にら安心したのか、彼が腕を伸ばす。俺の髪に触れる。慰めてくれんの?

 下腹が疼く。でも愛情の仕草が嬉しい。口の中が干上がる。さっきまで寒さで鳥肌だってたのが嘘みたいに、身体は発熱をはじめた。俺の肉は、ホントにどーして、こんなに欲望に支配されてるんだろう。

「混乱したんだ、ごめん。もう落ち着いたから……、何してもいいぜ」

 細いけどはっきりした声でそんな風に言われて。

「アニキ」

 俺は、毛布の中で身体を返した。すぐそばの彼に顔を寄せる。彼は自分から唇を重ねてくれた。隙間をそっと開かれたけど俺は舌をのばしはしなかった。触れるだけの、優しいキス。

「愛してたからレイプしちまった、ってのは、オスには現実、有り得る話だよ」

 男の欲望の形は時々、皮膚の下には収まりきらなくなって、場合と状況次第ではその火が相手を、焼いちまうこともあるだろう。

「オスってだけで、あんたのこと犯せる機能はある。どんなカスにもね」

「啓介、そういう話は……」

「聞いてよ。でもね、俺は出来ないんだよ。世界中で俺だけ、あんたには出来ない」

 毛布ごしに抱き締めて髪を撫でながら口説いた。

「好きな相手、傷つけちまう時は絶望が原因だ。手に入らないのが悲しくて暴走しちまうの。ヤっちまったらなんとかなるって思ってる訳でも笑ってくれない復讐でもないよ。悲しくて死にそうだっただけ」

 俺の言葉を、彼は複雑そうに聞いてた。つい先日、乱暴されたばっかりのこの人に、オトコの欲望の暴力性を受け入れろってのは無理な話で、別に俺は、強姦犯人を擁護したいんじゃなく。

「俺は出来ない。もう、出来ない。あんた俺のだもん。傷つけるなら、死んだ方がマシだよ」

 最初は乱暴した。乱暴なことも出来た。あんたがまだ俺のじゃなかったから。今は出来ないよ、指一本させない。自分のオンナを傷つけられる男なんか居ない。居るとしたら、そいつの中でもう、相手のオンナは自分と同じ存在になってんのさ。

 俺はまだ、乾かない傷口みたいに生々しく、あんたを俺のものだって思ってる。あんたと同化してる自信は欠片もない。触れていないと不安でたまらない。

「この世に俺ぐらい、あんたに無害なオトコは居ないんだぜ?」

 言いながら、俺は笑い出しそうになった。我ながらひでぇ嘘だ。俺はこの人を散々に痛めつけた。でも一面の真実。あんたが俺にこーやって優しくて、自分から抱かれに来てくれる限り、俺はあんたに甘い男でいる。

「啓介」

「俺のことまで、怖がんねぇで」

「啓介、だから……。ゴメンって……」

 困り果てた様子で彼が、俺に頬を寄せる。慰めてくれる優しさが嬉しくて、俺は涙を流しかける。今は彼が泣いてないから俺が泣けた。俺がそんなことすると思わなかったのか、彼はどうしていいか分からないって感じに困惑して。

「……泣くなよ」

 抱き締める力を強く、してくれる。

「お前は違う。分かってるから、泣くな」

「……ホント?」

「あぁ。……信じられないなら、しろよ」

 セックスしろって、彼から誘う。

 それだけで、俺はいい。目的は達した。

「いいよ。分かってくれりゃいい。まだ痛いんだろ」

「……口でしようか?」

「……手でいいよ」

 顔を間近に寄せ合って、一つの毛布の下で俺たちはお互いの身体に指を這わせた。俺の息はすぐに上がる。彼は少し緊張してたけど、何度も俺が耳を舐めるうちにほどけてきて。

「……、ン……」

 あまい声を漏らす。うっとり聞きながら、憐れさが俺の胸を占めた。

 知らないね、あんたは。

 オトコを知らない。オスをまだ分かってない。……なぁ。

 あんたに欲情してる男はどんな嘘だってつく。あんたを引き寄せるためなら涙くらい、いくらでも流すんだぜ。あんたが恐怖に耐え切れずに滲ませたアレとは意味も目的も違うんだ。

 たとえアンタの前で愛を誓って指十本、切り落としてみせるオトコが居たとしても。

 オンナはそれを、信じちゃいけないんだ、ぜ……。