最愛・11

 

 

 抱きしめられて眠った。

 夜中も男の腕は緩まなかった。俺は何度か目が醒めて、楽な位置を探って姿勢を変えた。そのたびに男も俺にあわせて抱き方をかえてくれたが、腕は一瞬も緩まなかった。

 横向きに仰向けに向き直り、目を閉じる俺を男は何度も、背中から間おから抱きしめた。俺が動きを止めて眠るまで、背中や肩をそっと撫でていた。慰撫するように、安心させる、ように。

 バカなことをすると心の中で思う。女の子を慰めるような仕草だったから。男のことをそう思う以上に、俺は自分を心からバカだと思った。女の子みたいに慰められて安らぐ。男が眠って動かなくなると、忘れられてるみたいで、不安で、わざと動いて姿勢を変えた。

 そのたびに文句も言わず、目覚めて付き合ってくれる優しさに、癒される。

 何度か繰り返してようやくやってきた睡魔に、本当に意識をゆだねたのは夜明け前。カーテンの外はうっすら、明るくなりかけていた。意識を完全に手放してしまう、寸前。

「……、だよ……」

 男が何か、言っていた。

「あんた俺のもん、だよ……」

 意味がよく分からない。言葉の続きは聞こえなかったから。何かを男は言っていた。なんて言った?

 普通に考えれば、庇護するという言葉だろう。男の態度もそういうのを連想させる優しさだった。俺に与えられるには不自然なほど柔らかく、両腕で俺を自分の胸に囲っていた。

 でも。

 なんだか違う気がするのは、声が。

 優しいよりも、怖い感じだった、からだ。

 

 夜明けに眠った、俺は数時間で目覚める。覚めようとして、さめた訳ではなく。

「……、寝てな」

 俺が枕にしていた腕と、俺を冷気から守っていた胸がなくなって、寒さに目覚めた。身じろぎすると即座に声を掛けられて毛布が顎を受けるほど引き上げられる。薄く開いた目に映ったのは手早くシャツを羽織る男の背中。耳に聞こえるのは来客を知らせるインターホン。

 出るのか?無視していればいいのに。音は、親戚や友人の来訪を告げる音響ではなかった。親しい連中は呼び出しボタンの前に暗証番号を押すから、呼び鈴は和音の優しい響きになる。これはその音ではない。来訪というより外敵の襲来を知らせるような警告音。

「俺の客かもしれないから。……あいつの弟が、猫連れて来る約束なんだ」

 そういえば弁護士をたてて、証拠の雑誌や証言も添えて、死んだ婚約者の遺族と最後の交渉をしたんだった。俺はその日に事件に巻き込まれて、その顛末を聞くどころじゃなかったけど。

売春婦との結婚を拒んだ男の我儘は、娘が異国で売春婦だったことを隠したい遺族との間でどんな決着がついたんだろう。彼女が可愛がってこの男に懐いていた猫が我が家へ来るのなら、成立したんだろうか、示談。

「……可愛いか?」

「猫?すっげぇ可愛いぜ。捨て猫でね、用水路の中で鳴いてたのを俺が拾ったの。飼ってたのあいつだったけど、俺によく懐いてる」

「連れて来てくれ」

「いいよ。今日からはあんたの飼い猫だ」

 優しく言って出て行く男の、言葉の意味を考える。彼女の買っていた猫を俺が飼うのか?そうか、俺は本当に彼女の身代わりなんだな。もちろんされでいい。お前のために、お前のオンナの代わりになってやるよ。

 男が柔らかな猫を抱いてくるのを、俺はパジャマのままベッドで待っていたが。

 男は戻らず、代わりに鳴ったのは内線のインターホン。

「……はい」

 男からなのは分かっていた。起きて来いって言うのかなって、俺は気楽に考えながら音声ボタンを押した。

『ごめ……、アニキ、来て……』

 声を聞くなり飛び起きる。息が混じった、苦しそうな声。

『動けなくしたけど……、俺も……』

 ちょっと今、動けない。そんな言葉を背中に聞いて、駆け下りる階段。

 

 

 一時間後。

 俺は、勤務先でもある父親の病院の、院長室に居た。

 待合室でなかったのはパジャマのままだったからだ。独りでそこに居た。父親は執刀中だった。

 やがて、ベッドごと運ばれて来た患者は、

「アニキ、そこの医者訴えて」

 麻酔と出血でカラダはだるそうに横たわったまま、ふざけた口調で俺に話し掛ける。元気を装った声。でも目は閉じたままだ。目蓋の青さが男の消耗を感じさせた。

「ヒトのカラダだと思って、あちこち、麻酔なしで縫いやがった。いてぇよぉ……」

 俺が父を見ると、白衣を脱いで机わき、上着掛けに投げながら父は。

「縫合は七箇所。うち、比較的深かったのは左上腕部と左脇腹だ。それ以外は麻酔なしで上皮だけ縫った」

 ならば抜糸の必要はない。この人の腕なら傷跡もほぼ残らないだろう。

「麻酔打ってって、言っても言っても、ぐいぐい縫いやがんだぜ、そこの医者」

「涼介、うるさい患者を連れて帰れ。私のロッカーから服を着替えてな。外は日暮れだ。その格好で歩いていたら別の病院へ連れて行かれるぞ」

 お前たちが来たのも昼前で、とてもパジャマの時間帯ではなかったが、と、父親は冷静にコメント。スーツが数組とタウンウェアが掛ったロッカーの前に立ち、俺は言われるままに着替えて、さらにシャツを一枚失敬した。弟に着せるためだ。血まみれのそれは止血に使われて血まみれで、とぉに医療廃棄物だ。

 弟がゆっくりカラダを起こす。怪我は左半身に集中していて、肘を固定されて不自由そうだった。俺はシャツの袖を通させるのを諦めて前を開き、肩に掛けた。弟は俺を見て、笑って。

「そんな心配しないでよ」

 こまった顔で、俺を慰める。怪我をしたのは自分なのに。

「大丈夫だよ、こんな怪我。なんでもないさ。すぐ治る」

「涼介、お前は暫く休暇をとりなさい。少し身辺が落ち着くまでは、別荘にでも行っていろ」

「別荘より温泉行きたい。怪我にきくとこ」

「好きにしろ」

「何日くらい行けばいい?」

「掴まったらすぐに帰って来い。身柄さえ警察に確保されればもう、今度は身柄を送検されて執行猶予なしだろう。枕を高くして眠れるぞ」

「刃物もってうちに踏み込んだんだ。強盗傷害って五年だよな。強姦って三年なのに。でも情状酌量で短くなって、未成年だし、受刑態度がよけりゃ二年かそこらで出て来るんだろ?」

「啓介」

 父親が弟の名前を呼ぶ。弟は応じて口を閉じた。そして、

「……ごめん」

 俺に謝った。悪いことを言ったって風に、心から。そんな罪悪感にみちた顔をさせるほど、俺は不安な顔をしていたんだろうか。していたかもしれない。

「帰ろう。今日は眠って、明日から旅行に行こうぜ」

 怪我のない右腕を俺に伸ばす。ひかれるように、ふらふら俺は弟と駐車場へ。乗ってきた白いFCの助手席で、弟はシートベルトをしようとして失敗。俺が身体を乗り出して嵌めてやった。その瞬間、弟の手が少しだけ、俺の背中に触れた。

 崩れそうな気持ちを引き起こすように、俺はギアを一速に入れ車を発進させる。弟はなにも言わないで窓越しに外を見てる。自宅について、駐車場に車を入れ、直接玄関に上がった途端、そこに滴り落ちた血が俺の、目を射て。

「……、アニキッ」

 俺は崩れ落ちた。本当にそんな気分だった。膝からも腰からも力が抜けて、もう。

「アニキ、アニキしっかり……ッ」

 立っていられなく、て。

「……ぁ……」

 広い玄関に座り込んだ俺の、掌をついたのは生乾きの血の上。生臭いその匂いと感触は、俺に草いきれの川原を思い出させて。

「あぁ、あ……、あ……ッ」

 支えようと伸ばされる弟の手さえ拒んで床に、しゃがみこむ。

「ごめん……ッ」

 弟が男に変わって、無事な右腕で俺の肩を痛いほど掴んだ。

「ごめん。ごめんね。分かってて開けたんだ。あいつのツラ見て、留置期限が切れたって分かった。汚い格好してさ、留置所からそのまんま、あんたに会いに来たんだって分かった。開けてナイフ、掴んでんのも見えたけど、わざと刺させてかるく怪我すりゃ傷害でブチ込めるって、思ったんだ。……ごめん」

 惨めったらしい若い男だった。軽く手玉にとれるつもりで、扉を開いたが。

「ごめん、逃がして、ごめんね」

 意外なほど手ごわかった。手強いはずだ、もとレスリング選手。一途に二階に駆け上がろうとする相手を引き摺り戻して、本気で殺しあうくらいに真剣な格闘。二階で眠るオンナには指一本触れさせずに叩きのめすことは出来たが、内線で連絡をとっているうちに危険な加害者は逃亡した。バタフライ・ナイフの凶器は持ったまま。

「ごめん。あいつが掴まるまであんたのそば離れないよ。だから、そんなに……、なぁ、大丈夫だって」

 抱きしめめられてもその腕の中で足掻いた。逃げようとしたわけではなく、ただ無闇に暴れた。ビーカーに閉じ込められたモルモットがパニックを起こしてガラスの壁を掻き毟るように、俺も。

「アニキ……ッ」

 触れてくる男を、必死に。

「アニキ、大丈夫。……大丈夫……。なぁ、門扉はロックしたし、ドアは鍵かけたし、それに……、な……」

 何がどうなったか、俺はうまく理解していなかった。暴れては押さえられ、押さえつけられては悲鳴を上げそれを唇で塞がれる。そんなことしているうちに何時の間にか自分の部屋で、何時の間にか裸で、いつの間にか俺の股には、男の腰が入り込んでいて。

「あなたのカラダ、俺でいっぱい、だよ……。誰が来たって、もう入り込む、隙間なんか、ない、よ……」

 受け止めきれずに俺はがくがくと震えた。震えながらでも、耳朶を舐めるような男の声は聞こえていた。聞きながら、楔がぐっと、また深く打ち込まれる。

「……ァ……ッ」

 そこで初めて、俺はパニックでない声を、出せた。

「あ……、ンァ……、ん、ん……、ッ」

「隙間、ねぇだ、よ……。ダロ……?」

「ん……、ふ、ン……ッ」

「勃ってきたね、良かった。あいつにサれたショックであんた、コッチでタたなくなってたら、どーしよーかと、思った、よ」

「ァッ、ヤ……、い、……、ソコ……、い、ャ……」

「何処も壊れてない。よかった」

「……、ンーッ」

 パニックを起こすほどの恐怖から、逃れるために、カラダの刺激に溺れて、いった。

 

 

 次の、朝。

 目覚めたとき、男は部屋に居なかった。枕もとには飲み物とヨーグルトが置かれていた。

 不精してベッドの中から手を伸ばし、紅茶を飲みヨーグルトを食べる。紅茶は冷えていたけれど喉の乾いた俺にはとても美味しかった。ヨーグルトを半分食べ終えた頃、警備が解除される音が家中に響く。

 やがて足音が上がってきて、左腕にギプスを嵌めた男が。

「アニキ……、驚かないで聞いて。悪い知らせだけど」

 俺を物凄く心配そうに、見ながら。

「親父がやられた。警察の偉いサンと呑んで、別れて、かえる途中に襲われたみたい。タクシー降りたところでね。うちの、門の前で」

 タクシーを待たせているから支度してくれと、男は俺に言う。

「怪我もだけど、一晩、路上に倒れてたから衰弱がひどいんだ。意識は一度、戻ったけどまた眠った。……あいつだったって」

 な、に……。

「警察も捜索してる。とりあえず、俺らは病院に行こう。この家は危ない」

 ……なんで、そんなことに、なる……?