最愛・12
病院のベッドの上で、眉根を寄せて不愉快そうに、父親は寝ていた。意識は取り戻していた。玄関前に倒れてるのを発見して通報してくれたのは新聞配達の高校生。凍死しなかったのは、足もとがふらつくほど前夜、呑んでいたアルコールのおかげ。
お父さん、と、一緒に来た弟と二人で声をかける。こんな場面はよく知っている。そんなことをぼんやり思いながら。搬送されてくる急病人、事故遭難者、集中治療室の、殆どカプセル状態のベッドの中に横たわる患者、そして駆けつける家族。
「……十年前なら」
父親はしっかりしていた。点滴を受け暖められて、目を開けないまま口だけを開く。口調は俺や弟よりよほどしっかりしてた。でもまだ、目蓋は開かない。痛んでいるくせに強がるのは、血筋か。
「門柱の裏に鉄パイプが隠してあった。物騒な客が多かったからな」
俺の背後で弟が苦笑する。そうしてさりげなく俺の肩を掴む。大丈夫だよ、そう言っている掌。
「涼介、啓介」
「はい」
「なに」
「金は幾らかかってもいい。東京のホテルにで避難しろ。クラブルームにな」
高級ホテルにだけある、一般客とは仕切られた上層階、専用フロントを通さなければ入室さえできない、該当階のキーがなければエレベーターも止まらない、保安に優れた、隔離された空間。
「人相が変わっていた。あれはヤバイぞ。涼介、お前を呼べとしつこかった。あれはもう、ダメだ」
父親の言う意味が俺にはなんとなく分かった。更正とか、対話とか、反省とか、そんなものが成立する可能性はない、という宣告。
「……はい」
俺は父親の判断に従った。医師としても親としても、信頼できる人だった。
「お父さんには、ごめいわ……」
「お前は被害者だ。堂々としていろ。啓介」
「おう」
「日本には、あとどれくらい居られる?」
「一週間、くらいは」
弟が答える声に、俺はぎょっとして振り向く。……なに?
一週間?一週間で、お前、何処にいくっていうんだ。アメリカに?
当たり前だった。弟の生活と活躍の本拠地はそこで、日本へは一時帰国に過ぎない。でも俺はそのことをすっかり忘れていた。何年も離れていたことさえ記憶から消されて、こいつはずっと、今までもこれからも、俺の隣に居ると思っていた。
「なるべく長く、居るよ」
弟が言ったのは父親にではなく、俺に向かって。慰めるためのみえみえの嘘だ。俺の顔はそんなにも酷かっただろうか。不安で泣きそうにでも見えたか。見えたかもしれない。実際、そういう気分、だった。
「金、とりあえず俺が出しとくよ。親父、元気になったら水増し請求、するからよろしくな」
好きにしろと父親は答え、それきり口を閉じる。また意識を失ったらしい。俺たちのためにムリをして喋っていたのだろう。
「……、アニキ」
男の手に力が篭る。俺は逆らって前に出た。父親の眠るベッドに触れる。気性のしっかりした人だけど、目を閉じてると疲れは隠せない。
……ごめんなさい。
弟は暫く、俺がしたいようにさせてくれた。父親のベッドに寄り添う俺の背後に、黙って立って、待っていてくれた。でも。
「行こう。面会時間、もう過ぎてるよ」
シーツに置いた俺の手を、そっと包むように持ち上げる。その仕草の鄭重さに、俺は逆らえなかった。手を引かれるままに病室を出る。見舞い客で混雑する入院病棟を避けて、俺たちは外来病棟の駐車場に車を停め中庭を抜けていた。日曜の外来に人気はなく、がらんとした屋内。
ふと、俺の脚が止まる。前を歩いていた男がどうしたの、という風に振り向く。なんでもないと、俺はかぶりを振って歩き出す。本当になんでもない。ただ、ちょっと、馬鹿馬鹿しい危惧を。
ここはあの加害者が、昔、勤務していた場所だから。
物陰にあいつが隠れていそうで怖くなった、なんて情けない恐怖を、口には出せなかった。
「箱崎でいい?TCATの隣だから便利だし」
成田と東京の中継地。そこからお前、アメリカに帰るのか。
「……親父ね、財布とられてるんだ」
病院を出てタクシーを止める。俺を先に乗せながら、弟はそっと言った。
「俺が会ったときも親父ンときも、汚い格好で痩せてて、潜伏も限界、って感じだったよ。早晩、通報されそうな風体だった。でも……」
俺たちの父親の、財布は厚い。社会的地位とやらに相応の現金も入っているし、ぴかぴかのゴールドのクレジットカードも。財布自体もクロコダイル皮で、確か百万円近い金額だ。なんで知っているかというとこの弟が、荒れてた時代に引き抜いて質屋に放り込んで、渡された札に呆然と帰って来たことがあったから。
「カードは止めた。けど現金がね……。警察、なにしてるんだろう、ね」
昔は散々、敵対した機関に弟が愚痴る。タクシーの運転手に俺は、自宅に行ってくれと頼んだ。
「危ないよ。このまんま、東京に行こう」
「一旦、帰ろう。支度したいんだ」
「危ないってば。うちは見張られてる。分かってるだろう?」
「……頼む」
運転席から見えないように、俺は弟の膝に手を触れる。かわいい男はそれだけで軟化した。
「まぁ……、ちょっとだけな……」
自宅に戻って、弟が袖に短い鉄パイプを隠し持ちながら家の周囲をぐるりと廻る、間に俺は自分の部屋に上がる。着替えや本、そういう支度をしようと思った。出来なかった。疲れ果てて、部屋の置くのベッドに倒れこむ。身の上に起こってることが現実とは思えなかった。
レイプ、されたのは生々しく覚えてる。でもそれから、どうして俺の弟と父親が傷つけられなきゃならない。俺があの若い男に嘘をついたからか?それを恨める筋合いでもないだろう。
でもきっとそんなこと、言ってもムダだ。軸の歪んだ相手に言葉は通じない。そういう相手は今までにも何人も居た。俺だって昔は、夜の峠で男たちを率いてて、事故も揉め事も起こった。言葉の通じない動物が時々、世間には人間の皮を被って紛れ込んでいる。そういう奴らに、分からせるには。
「……、アニキ?」
部屋のドアが開く。ベッドの上で仰向けのまま、俺は顔を覆ってた肘をずらしてドアを見る。弟が立っていた。俺の視線を受けて、それは男に豹変した。大股に俺の部屋を横切り、ベッドの上の俺に覆い被さる。マットレスは音もなく沈んだ。俺は、仰向けに腕を伸ばして、俺の男を抱き締めた。
……なんて、ことだ。
安心する。こうやっていると心が緩んでいく。でも。
「……、ッ」
男は苦痛の声を漏らす。俺はびくっと、すがり付いていた腕の力を抜く。そう、これは怪我をしているんだった。俺のせいで、俺を庇って、俺の、ために……。
「ダイジョーブ。ちょっと攣れただけ」
俺が謝るより先に弟が笑う。笑って、俺に優しいキスを迫る。目を閉じて受け入れた。そうしてそのまま、俺はそんなつもりで、膝をそっと、シーツの上で開いたが。
「……、ホテルに着いてからな……」
男の熱も萌しつつある。腿に当たるそれを感じてる俺に、男はそう告げてカラダを俺から剥がそうとする。させたく、なかった。
「……、アニキ……?」
だから、無事な右肩を思い切り。
「……、なに……?」
爪をたてて、引き寄せた。
「どったの……?……アニキ?」
どうしたも、こうしたも、ない。けれど本気で男はよく分からないようだった。俺も本当はこういうとき、どう誘ったらいいか分からないが。
「……、っ」
さっきとは色の違う声を男が漏らす。男の持つが当ってる腿を、俺がうごめかしたから。
したいのか、と男が目で訊いて。
したいと、俺は目を閉じる。
片手の不自由な男が俺の、ベルトを抜くのに苦労していたから、自分でしようと思ったら払いのけられた。仕方ないから身じろぎのふりで腰を浮かして協力。するりと剥かれて、下着も退けられて、醜い場所を男の、目に晒す。
熱い舌が、絡みついてくる。
びくん、と全身を撓らせながら、俺は情けなくて泣きたい気持ちだった。こんなことが何だろう。たかがセクスのためにどうして、俺の弟や父親が傷つかなきゃならない。
「……、たかが、じゃねぇよ……」
男は優しかった。俺の動揺を受け止めて掴み潰すためにわざと性急に扱われる。ナニも考えられなくなる。
「そのタメにイキモノって生きてんじゃん。……、だろ……?」
そうだろうか。お前がそう言うならそうかもしれない。でも、やっぱり俺には理不尽に思える。俺はセクスを強要されて、被害者のはずなのに、どうしてお前や倒産にまで迷惑をかけて苦しめなきゃならない。
「あんたのこと、愛してんの。俺も、親父もね」
囁きながら唇が寄せられる。俺は自分から絡めた。男が嬉しそうに目を細めたのが、見えないけれど気配で伝わって来る。こんなことでやお前が嬉しいなら、俺はずっとお前にキスしてやるよ。お前が喜ぶなら、脚なんか幾らでも披く。
「あんたのこと傷つけさせたくねぇんだよ。……、愛してるから」
「……、ん……ッ」
昨夜も繋がった身体は男の形を覚えていて、ごく簡単な準備だけで、含んで慰めてやることが出来た。
熱い。暖かい。重なった男に縋りつくように腕をまわしながら、俺は不安におびえていた。俺はやっぱり、あれが怖かった。暗闇の中で俺をムリに犯した。同意のないセクスは残酷すぎる暴力で、俺の心は衝撃を忘れてない。その上に、家族にまで、怪我を……。
「……、だいじょーぶ……、俺が、居るよ……」
優しく揺れながら男が俺を抱きとめて、安心しろという風に頬擦り。
「楯になっても、あんたにもう、触れさせねぇよ、指一本」
嘘、つき。お前は帰るんだろう一週間でアメリカへ。俺は一人になって、それからどうすればいいだろう。
勤務先は休職。落ち着けば復職は可能だが、いつ落ち着くか分からない。院長の父親は入院、家族はばらばらで、あと一週間で、この家に一人で残されて。
「……、居るよ」
男は優しかった。俺に本当に優しかった。
「あいつが逮捕されて、カタがつくまで、居るよ。あんたのこと心配だから」
そんな言葉を俺に言って、俺は全身を喘がせて返事をした。歓喜だった。そうして、口を開こうと、して。
愕然と、凍りつく。
強張った俺を抱き締めて、男が深く、俺の中に入って来る。俺は悲鳴を一声あげて敷布に崩れ落ちた。すかさず男が俺に被さるが、体重をかけないよう肘をついて、覆い被さる姿勢で、そう、まるで俺を、何かから庇うように。
「……、は……」
男の満足の吐息を上の空で聞いた。それよりショックなことがあった。俺はさっき、何を口走ろうとした?この男は俺になんと言った?
休暇が終わっても日本に残る、と。それは夢と将来を棄てることじゃないか。言われた俺は嬉しいと答えかけた。……冗談じゃ、ない……。
そんなのはダメだ。せっかく努力して苦労して叶えた夢を、棄てるなんてするんじゃない。それは自殺に等しい真似じゃないか。自分の将来を自分で壊すのは。
「いいよ。あんたの方が大事だから」
いい筈がない。いい訳がない。
「夢も今も、あんたがくれたんだから」
そんなことは、ない……。
帰って来たのは昼過ぎだったのに、外はもう日暮れ。
俺は裸で、まだベッドの中。男は服を着て俺の横に腰かけ煙草を吸っている。吸いながらタイミングを測ってる。俺に声を掛けるタイミングを。
「……、あ……」
アニキ、起きて。行くよ。そんな言葉を告げられる前に、俺は口を開いて。
「……、疲れた」
男に向かって呟いた。演技のつもりだったのに本当に疲れた声が出た。男は顔をしかめ、毛布の上から俺の肩を抱いて。
「……、可哀想に。ホントにいきなり、イロイロ、あったもんね……」
俺を労わる声を出す。
「東京に着いたらいくらでも、車ン中でも眠っていいから、起きて服、着て。出発、しよう」
「……動きたくない」
「分かるよ。でもさ……」
「もう陽がおちるだろう」
「うん。夜になる、前に」
「この時間は、外に出たくないんだ……」
子供みたいに我儘を、俺は言い張った。俺が夕暮れに暴行されたことを知っている男はなんともいえない表情で、ぎゅっと、俺を抱き締めて、くれて。
「明日にしよう。頼む。今夜はもう動きたくない。夕方から夜に、外に出るのは、怖い……」
「……、アニキ」
「うちの鍵、掛けたんだろう?」
「うん」
「セキュリティ、セットしただろう?」
「うん」
「お前が隣に居てくれるんだろう?」
「うん」
「夜は動きたくないんだ」
「……分かったよ」
怖い童話におびえる子供を慰めるように、男は俺の我儘をきいてくれた。
「ナンか欲しいものない?食べたいものとかは?買って来てやるよ?」
「そばから離れないでくれ」
「うん」
ぎしっとベッドを軋ませて、男は毛布ごしに俺を抱き締める。
「離れないよ。ずーっとこうしてる」
「……、眠りたい」
「お休み」
「……、眠れないんだ。すぐにうなされて」
「俺が抱いててあげるから安心して、おやすみよ」
「啓介」
「ん?」
「分けて、くれ」
「いいよ。なに?」
「お前の……、睡眠薬……」
底なしに優しかった男が俺を撫でる動きを止める。俺は代わりに、自分から懐いた。
「……、もってない、とか、言うなよ。……、言わないでくれ」
「あんた、俺の荷物から棄てただろ」
「棄てた。俺が探し出せた分は」
でもこの男はしたたかなところがある。全部を俺が、見つけ出した自信はなかった。
「頼む。眠れなくて、辛いんだ……」
男は暫く、黙って考えていたが。
「……、今夜だけだぜ?身体にわるいからね。分かった?」
その言い方がおかしくて俺は笑った。
笑った俺に少し驚いた男は、でも。
「言える立場か、お前が」
苦笑まじりの俺の言葉に自分も曖昧に微笑み。
「俺はいいの。プロ選手だから。無理して、無茶して、身体は大事にしてるけど大事な時名は壊す無茶もして、そういうのが仕事だから」
身体に悪いと知りつつ、睡眠薬を常用してでも時差に悩まされない睡眠を確保して、レースで勝ち抜くのが仕事だと、男は凛々しく笑って俺に言った。
「いいよ。あんたがちゃんと今晩、夕飯、食うなら分けてあげる」
「食べるよ。だから」
「一階、行こうぜ」
「先にくれ。後から、本当はなかったなんて言われたくない」
「さすが、あんたしっかりしてるねぇ。俺そんなずる、思いつきもしなかったぜ」
男が自分の部屋に行って、もって来たのは一粒の錠剤。外国製らしくて見覚えのない形だ。本物だろうかと、じっと俺は、それを見詰めていた。
「行こう」
促され立ち上がる。本物かどうかは、じきにわかると、そう思いながら。
睡眠薬は、本物だった。
証拠に男は眠っている。冷凍食品をレンジで温めただけの食卓、俺が煎れてやったコーヒーを飲んですぐに。
俺は立ち上がり、男に上着を掛けた。それでも心配で寝室から毛布を持って来て着せかける。室温を自動に調節して、これが風邪をひかないよう、気を配った。
なぁ、啓介。
俺もお前を愛してるよ。だから俺が、お前を傷つけたくないと思っても、当たり前だろう?
内部から、セキュリティパネルを操作。十五分後に二分間だけ解除する設定にして、リビングわきの階段から直接に行ける地下駐車へ向かう。ここ暫くの騒動で遠ざかっていたが、真っ白の車は俺を、十年前から寸分変わらぬ忠実さで待っていてくれた。
ロックを解除、ドアを開け、運転席に乗り込む。
十年以上の日々を、俺と過ごしてきてくれた、車。
たまらなくって、セキュリティ解除までの時間、俺はハンドルに額を当てて、ぎゅっと目を閉じ、別れを、告げた。