最愛・14

 

 

 吸い込む空気が乾燥してて、喉が痛くて、俺は眉を寄せる。

 ロス・アンジェルス近くのサーキット。周辺は殆ど砂漠。年に何度かのレースには何万もの人間が集まるけど、それ以外には人影もろくにない、そんな空間。

 取り得は月が見事なことだ。明るいものが他にないから。ここには水気がない。マシン開発スタッフやその家族の為に作られた宿舎はあるけど、それは無機質な、人工的な存在で白々しくしらける。街も人も自然発生じゃなく、単に必要があって集められてる。生活の、基盤が、薄い。

 ここに居ると自分が鉢植えの植物みたいな気分になる。人工栄養を与えられて人工照明で育てられてる、ような、嫌な気持ちだ。それは俺だけじゃない。新しいシステムやエンジンの開発のためにここに閉じ込められたスタッフは、三日もするとみんな顔つきが変わる。ギスギス、してくる。俺もしてるだろう。

 ここには水気がない。女も居なきゃ、子供も老人も居ない。それは不自然なことだ。そうして多分、不幸なことだ。若いオスだけが集まってる群れは、狼も猿も、死亡率が一番高い。女と遊ぶことと喧嘩しか、男はすることがない。女を取り上げられたオスは攻撃性を上げていく。共食いギリギリまで。

 女は必要。どうしようもなく。ヤれない女でいい。掃除のオバチャンで構わない。他人の妻でも母親でもいいから、その辺を歩いて時々笑って、声を聞かせてくれればそれでいい。俺のチームは、その点で不幸だった。監督は妻帯者たけど別居中、チーフメカニックは単身赴任。それでも普通の時期なら時々は、誰かの恋人が遊びに来てくれて、それでスタッフ全員の気持ちが安らぐけど。

 今は開発中で、外部からの来訪者は謝絶。呼吸さえ苦しいような精神的な圧迫の下で。

 男たちはどす黒い、青っぽい、不健康な顔色になっていく。

 嫌な顔だな、と、俺は目の前の若い男を見た。

「……、って、聞いてんですか……ッ」

 強い語尾の抗議の後で、吐き棄てられたスラングは聞き取れない。英語でのインタビューにはなんとか答えることが出来るけど、早口で喋られるとよく分からないし、俗語は完全にお手上げだ。こみいった交渉はマネージャーがやるし、チーム内の意思疎通も同様。レーサーの中にはスタッフとコミュニケーション欠かさないタイプも多いが、俺はチームをマメに仕切る方じゃなく、そういう雑事は監督に任せてる。

 だから、スタッフ一人一人の性格や気質を理解してはいない。目の前の男は二十歳を超えたばかりに見えるけど、人種の違う相手の年齢は読みにくい。ただ表情で、相手が俺を嫌ってることは前から、分かってた。

「風紀とか、そんな前にさ……、こういう真似は……」

 こいつが俺を睨み出したのは俺が日本へ、短い帰国を果たした後だった。嵐のような帰国の前後で、俺は似たようなことをしてる。違うのはさせてる人間だけ。以前は俺に無関心だったのが今、こんなにむきになって、滅多にスタッフと一対一にはならない俺を、タイム計測の帰りに待ち伏せてまで、抗議してんのは。

「……、の、人も……、そんな真似させられて、かわいそうじゃないか……」

 昔の女、娼婦あがりだったあいつとは違う、匂いを敏感にかぎつけたからか。

「勝つために、汚い真似すんのもプロかもしれないけど、やっていいことと悪いことが……」

「俺も困ってるんだ」

 口を開くと、若い男は驚いて黙った。俺がスタッフと直に言葉を交わすのは滅多にないことだ。

「そういうつもりで連れて来た相手じゃなかったから、困ってる」

 あんな真似を、させるつもりじゃなかった。

「事情があって、日本には帰せない。連れて来た責任があるからこんな場所で放り出す訳にもいかなくて困ってる。どうしたらいいと思う?」

 問いに男は答えず、俺の顔を、驚きのままで眺めた。

「はなし、してみてくれないか」

 部屋の鍵を尻のポケットから取り出して。

「あれにあんな真似させないで、守ってくれる奴が居たら、いつでもあいつのことは譲るつもりで居るぜ」

 言いながら渡した。男は戸惑いながらも受け取った。それから俺は自室には二時間、帰らなかった。時間を潰す場所もないからミューティング・ルームで仮眠した。俺がそこに居る間、俺の部屋で何があってるかチームの連中は薄々、察してる。いつもならすぐ届くコーヒーが出てこない。毛布だけ、そっとマネージャーが持ってきただけで、周囲はみんな、俺を腫れ物に触れるように扱う。

 俺はマネージャーに礼を言わなかった。黙って受け取って肩に掛けた。ソファに転がり脚をはみださせながら仰向けで、天井のライトが眩しいふりで目元を腕で隠す。どうしてこんな事に。それはもう、何百回も、繰り返した後悔。どうしてこんなことに?

 二時間後、若い男が俺を探してきた。鍵を返しに来たのだ。俺は起き上がり、受け取って、もうそいつと口をきく気をなくしていた。そいつは別人になってた。さっきまで、皮膚の表面に張り付いてた青黒さが消えて、白人らしい薄い皮膚には若さに相応しい弾力が蘇り、血の色が透けそうなほど血色がいい。話し合いがどうなって、何があったかなんて、聞くまでもなかった。

「……、ミスター、あの……、ご相談が……」

 俺を呼ぶ敬称も、呼びかける声さえ変わる。二時間前までの、チームのトップレーサーの俺に噛み付いてきた凶暴さは影も形もなくて、丁寧に礼儀正しく、俺に話し掛ける。

「抱いたか?」

 相談の中身を聞きたくなかったから、俺は単刀直入に尋ねた。男の頬には見る見る、赤身が増していく。正直は美徳かもしれないが、俺の気分を逆撫でる。

「かわいそうってのは、どの口が言ったっけな」

 とどめをさして席を立つ。掌の中で鍵が重い。この鍵で閉じ込めて、大事に出来たらどんなにいいだろう。そのつもりでこんな遠くまで、連れて来た人なのに。

 ドアを開ける。俺の部屋は一応、ここじゃ監督の次に広い。奥の寝室、手前のリビング、サニタリーにミニキッチン。そして書庫やパソコン、事務用品を置く為の小部屋。日当たりの悪いその部屋にはパソコンも資料も置いてあるけどベッドもあって、その上では、俺のオンナが眠ってる。

「……、ん……?」

 シャワーを浴びたらしい。髪が湿ってる。触れると気付いて目を開けた。俺を見て、ゆっくりと微笑む。

 こっちに来て二ヶ月。殆ど外に出ない、日の当らない生活は彼の、もともと白い肌を透き通りそうに変えていた。

「……、啓介……?」

 抱き締める俺の肩に、嬉しそうに頭を預けながら。

「どうだった?」

 それが気になってしょうがないらしい。瞬きを繰り返しながら尋ねる。

「途中で俺、分からなくなったんだ。どうだった?満足してたか?」

 何が分からなくなったの。なにしてるのか分からなく?それは失神して?それとも夢中になりすぎて?

「最初は随分、悦んでたけど」

 だろうね。あんたはいいオンナだ。腹が減ってる時は尚更、底まで響くアジのオンナだよ。男は悦ぶさ。あんなに若い男なら尚更。

「お前にちゃんと、従順になったか?」

 ……、もう、止めようよ。

 止めてくれ、そして俺に、レーサーを辞めさせて。もう辛いんだこんなこと。狼どもに食わせるつもりで、あんたをここに運んできたわけじゃなかった。

「なに、言ってる。俺はお前のオンナの代わりだろう?」

 殺したあいつは、会った時から、娼婦だったけど。

「彼女にさせていたことを、俺もしてるだけだ」

 あんたは俺がオンナにした。俺の大事な人だった。

「啓介?」

 抱き締めたまま動かなくなった俺に、彼は不審そうな声。俺は答えず、彼を抱き続けた。

このまま固まって石になって、誰にも触らせずに閉じ込めてしまいたい。

「……、するか?」

「いいよ」

 もう、何度か繰り返された会話。ずいぶんこの人に、俺自身は触れていなかった。

 痛々しくて、とても出来なかった。

「……、そうか」

 そのことを彼が淋しがってると、気付いてたけど……、それでも。