最愛・2

 

 

 意識を取り戻したの後、患者は明るかった。

 警察には通報されておらず、代わりに父親が理由を尋ねた。なんとなく、と、患者は答える。困ったような、照れた表情で。

 死のうと思ったわけじゃない。ただちょっとショックで寂しくて、会いたくなっただけ、だと。

 もうしないなと確認されて、しないよと答えた。アメリカから持って来た睡眠薬を取り上げられ、始末されることにも同意した。ナゼこんなものをという問いには、時差がきついから、と。

 アメリカは広い。国内に多くの時差をもつ。各地を転戦するインディレースで、それは必需品なのだと、と。

 笑う弟に、兄は嘘を感じた。感じたのは兄だけではなかった。主治医は親族をさけた内科の主任医師。院長の後輩で、兄弟を幼い頃から知っている医者は、兄に告げた。

 気をつけろ。あれは退院したら、またやるぞ、と。

 兄は無言で頷く。

 自殺未遂から生還して、どうして死なせてくれなかったと医者を恨む患者は、かえって二度は繰り返さない。自分がもう『出来ない』ことを無意識に知っているから騒ぐのだ。落ち着いて治療に協力的な患者は要注意。相手は次の機会を狙って、それで一日も早く回復し、退院しようとしている。

 分かっていた。だから、体力が回復し退院を望む患者をいつまでも置き続けた。生活に不自由のない個室。テレビも雑誌も、電話もパソコンも、望むものは全て揃えられたけど。

 暇をみては様子を見に来る兄に、弟は困った顔で笑う。もう大丈夫だから家に帰してくれないかと、丁寧な申し出。兄はなかなか、うんとは言わなかった。

 ある後の検温時、主治医は学会出張でおらず、代わりに朝の検温にやってきた涼介は、荷物を片付け服装を整えた弟に迎えられ、そして。

俺はもう帰るよと、静かに告げられ、止められないことを知った。

「あと二時間、待ってくれ」

 差し出した体温計を、看護婦の顔をたてて弟は、シャツの襟を外して脇にはさむ。

「十一時で勤務が終わるから、一緒に帰ろう」

「……、あのさ」

「食事をして、そして、話がある。頼む」

 真摯な兄の表情に弟は頷き、大人しく二時間、個室でビデオを見ていた。外国語の解説が入るレースのビデオを。兄が勤務を終え、こちらも私服に着替えて迎えに来た時、

「ちょっと待ってよ。あと10分で終わるから」

 告げられ、もちろんいいぜと答えて、二人は並んでベッドにこしかけてテレビを見る。弟の帰国から半月以上が経っていたが、こんなに近くに居るのは初めてだった。昔は客の少ない深夜のファミレスでもなお、同じシートに、詰めてくるほど懐いていた弟なのに。

35インチの画面に爆音を響かせて走っていくレーシングカー。スペックが、微妙にF1とは違う、インディ。

「重量制限が、ドライバー含まず、だよな」

 ぽつりと、兄がそんなことを言う。分かりきっていたことを呟いてみたのは、沈黙に耐えられなかったから。

「うん。そう。クチの悪いヤツは言うよ。アメリカ出身のF1レーサーは、中年太りになっても故郷に帰ればすむから幸せだ、ってサ」

 思い掛けないほど気軽に、自然に、弟は話に乗ってくる。兄はほっとして表情を和らげた。

「F1のグランプリカーは、ドライバー含んで最低重量が600キロ。インディはドライバー含まずに691.74キロ……、って、あんたにこんなこと、言うのはおかしいね」

当然知っているよなと弟は苦笑する。兄はもちろん知っていたが、弟が離してくれることは嬉しかった。帰国してからはずっと婚約者が隣に居て、ゆっくり話を、する隙間はなかった。

「まぁ、ドライバーも軽いに越したことないから減量はうるさく言われっけど、F1みたくシビアじゃねーかもな。インディはオーバル・コースしか走んねぇから、殆どアクセル全開でさ、ナンてーか、走り屋でいったら、首都高のカンジかな。F1のコースが峠だとすっと、サ」

 そんなことを話しているうちにビデオは終わって、弟は立ち上がる。そのまま部屋を出て行こうとしたから、

「啓介。テープを」

 デッキに入れっぱなしだったテープを、兄は巻き戻し、弟に手渡した。

「あぁ……、サンキュ」

 大人しく弟は受け取ったが、あまり興味はなさそう。どうでもよさそうなのはもう見ないからか。やっぱりまた、繰り返すつもりなのか。

 胸を、搾られるように痛める兄の内心を知らずに弟はすたすた歩いていく。来院者用途は違う地下駐車場に降りて、白いFCの助手席の、ドアを開けてやった瞬間、ひどく懐かしそうな顔をした。

「懐かしいな。これ、12年目だよな」

 兄が18の時に買って、ずっと乗ってきた車。歴戦の名機は年月を経ても衰えを見せず、すべらかに発進する。足もとが固い。街乗りように妥協されてはいるが、今すぐにでも敵が現れれば、追走できる頑丈な爪を、助手席に乗りながら弟は感じた。

「相変わらず、きれーな車だね」

 心から言った。意味を分からず、兄は首を傾げ、信号停車で視線を弟に流す。

「……、歳、とらないね、アニキ」

 弟はじっと兄を見つめた。切ない、ような、熱の篭った目で。

「五年もたったのウソみたいだ。この車がうちに来て12年もたったのも、信じられねぇけどさ。時間って、ウソみたいだよな」

 昨日のことみたいな気がすると弟は言って、兄はそうだなと頷く。兄は車が納車された日のことを思い出していた。弟は。

「アメリカ行くとき、成田まで送ってくれたの、覚えてる?」

 別のことを思い出していた。

「あん時のあんたの顔と、少しも、違わってないよ、今」

 言葉の意味をうまく掬えず、兄は眉を寄せる。老けない、とはよく言われる。時々、病院や街で出会う同級生達の中にはもう、疲れた、やつれた、老け込んだヤツも居るが、学生時代そのままの瑞々しさを保って、兄の横顔には崩れがない。苦労がないせいだろうか。それとも独身で、彼女が居ないから悩み事がないのか。仕事は激務で、そういう意味で、楽な人生ではない筈だが。

「……お前も」

「ん?」

「若いぜ」

 二つだけ年下の弟は、兄の言葉に少しだけ笑って。

「そう?」

 あきらかに相手に、あわせるためのつくり笑い。その瞬間、老いとは違う痛々しさが浮かんで兄は、そっと目をそらした。

 信号が変わる。

 弟の表情に浮かんだ、年齢に不似合いな疲れの、翳りが兄の心を、痛めてていた。

「なにが食べたい?」

 そろそろ昼食時で、次の信号を右に曲がれば料理屋の多い賑やかな通り。だから、そう尋ねたのだが。

「あんた腹へってんの?」

「あぁ」

「じゃ、このへんで、俺おろしていいよ。後は歩いて帰るから」

「……」

 郊外の閑静な住宅地まで、車であと15分はかかる。歩けば一時間近いだろう。

「啓介」

 車をもちろん、どこにも止めないままで。

「ずっと、考えていたんだ」

 家に帰ってからのつもりだった話を、兄は待てずに、口にした。

「お前がどうして、自殺なんか、しようとしたの、か」

「ごめん。その話、したくない」

「夫婦や恋人同士で後追い自殺は、時々あるけどな、お前は不自然すぎた。状況も、お前の」

「やめてくれ」

「お前の気性を考えても、到底、納得、できないことだった。……彼女が」

「やめろって」

「死んだあの子をお前が、追いかけるのはおかしい。自殺の動機は、本来は逃亡だ。逃げた女を追って男が死ぬのは、不自然なんだよ、啓介」

「車、止めてくれ」

「俺には本当のことを教えてくれ」

「止めろ。サイド、引くぜ」

「彼女は本当に自殺か?」

「止めろって言ってっだろーがッ」

「俺のせいで、お前が……」

「ヤメロッ」

 怒鳴り声と同時に、弟の拳がバンとガラス窓を叩く。運転席の兄は微動もせず、ドアのロックをちらりと確認した。

「……俺のせいなんだろう?」

 車は順調に流れて、高台の住宅地へ。その中でも目立った規模の、屋敷と呼べる、二人の家へ。

 女の死んだ家へ。

「彼女のことを、お前が死ぬほど、悔いてるなら」

「……」

「俺が今から遺書を書いて、彼女と同じようにする。……だから」

「……、やめて、くれよ」

「だから、お前は」

「やめて。……、やめてよ。……、俺は……、俺、は……」

「お前は、死のうと、しないでくれ」

「憎くてしたんじゃねぇ……。ただどーしても、あんたのこと、……、言うって、どう止めても、あついが言い張ったから……ッ」

「俺のせいだな」

「……ちがう……。やり方がマズかったんだ……。アメリカではいい女だと思ってたんだけど、日本に帰ってからは、ナンか違う気がして……、うっとおしくて……、結婚すんの、ヤになりかけて、たんだ。……だから……」

 告白の言葉を聞きながら、自宅の門をリモコンで開いて、車庫の扉も、同様に。

「レイプ、されたってあいつ言ったけど、んなの……、分かんねーだろ……。俺の方の別れ話はあんたとのこととは、無関係だって、言ったけどあいつ、納得、しなくって」

「だろうな」

「あの日、帰ったらシャワー、出しっぱなしでさ。……あんただと思った。思って、ガマンできなくて……、あけたらあいつが、カミソリ当てて、待ってたんだ」

 そして、脅した。結婚をしてくれと。でなければ、ここで自殺すると。何度も繰り返した言い争い。そして、女は最後の、切り札を。

「……脅しやがったんだ、あいつ」

 出した。

「……俺が、殺したよ……」

 車庫の定位置に止められたFCの中で。

 罪人の、告白。

「押さえつけて、カミソリ持った手をもう一方に押し付けて……、俺が殺した。あんたのいうとおりさ」

 脅された瞬間に、胸に沸いたのは恐怖。

「……、怖かったんだ。あの女、生かして、おけなかった……」

 片手で顔を覆って告白する弟を、シートベルトを外した兄は、そっと抱いた。狭い車内で、不自然な姿勢で。

「……俺のせいだ。お前は悪くない」

「違う。あんたとは無関係だよ」

「俺のために口を塞ごうとしてくれたんだろう?」

「……、うぅん……。違うんだ……。……あのね」

「なんだ」

「あいつと、寝たことなら、機にしなくっていたーんだよ、アニキ。……あいつ」

 売春婦だったんだ、と。

 死んだ女の秘密を、婚約者だった男は、ぬらりと、吐いた。

 二人だけの秘密のはずだったのに、何度も約束をした、のに。

 オトコの口は信じられない。証をたてるためならば、別の女の秘密など、いくらでも垂れ流す。

「あいつが俺を脅したのは別のこと。……俺の、秘密を、あんたに、バラすって……、言ったんだ」

 瞬きして、兄はまじまじと弟を見た。弟は顔から手を外し、微笑む。瞳に涙の跡はない。むしろ、凶暴な、好戦的な、覚悟をきめた、ような表情で。

「……部屋、行こうぜ」

 兄を促し、シートベルトを外す。

「俺にも話が、あるよ」

 頷き、兄はドアのロックを開いた。