最愛・4
人を傷つけた。
随分久しぶりに。
十年ぶり、くらいだったかもしれない。
それでも身体は反射的に動いて、気づいた時には、床に相手は倒れてうめいていた。
うめく相手を眺め下ろしながら、俺がぼんやり考えていたのは、まだなまってないな、なんて、そんなことだった。
いつもの悪い癖だ。切迫すると現実感がなくなる。夢のなかか、シミュレーション訓練みたいな気分に。玉突き事故の怪我人が住人も運び込まれたときや、主任医師が執刀中に脳溢血を起こしたときや、そう、最近では。
弟に抱かれた時。
現実感がなかった。心理恐慌を起こさないための自己防衛とすると、俺は案外、脆いのかもしれない。
なんて考えながら溜息を一つ。そして相手を引き起こす。去年の四月、うちに就職したばかりの看護士。高校時代にはアマチュア・レスリングの全国大会に出て、今でも趣味はボディビルという、ガタイのいいヤツを。
高齢の老人を車椅子ごと、軽々と担いで車に乗せる、腕力は頼りになるけれど。
案外、喧嘩はしなれていないんだと、分かった。
まぁ、そりゃそうだ。真面目に部活をしてなきゃ全国大会には行けないし、部活に精を出す不良なんか居やしない。不祥事を起こせば表舞台には立てなくなるのだから、喧嘩は、避けていたのだろう。
手当てをして家に帰すつもりだった。それかせ出来なくなったのは、そいつの眼鏡が割れて目蓋から、血が流れていたから。傷口は、案外、深い。俺は眉を寄せ、外科医を呼んでくると言って立ち上がったが。
「すいません、ごめんなさい、すいません」
血だらけの顔で相手は、俺のスラックスの裾を掴んだ。
「ごめんなさい。言わないでください。ごめんなさい」
一生懸命の懇願には、気持ちが動いたけど。
「言いつけに行くんじゃない。診察をしてもらおう。必要があれば眼科医に連れて行く。それだけだ」
うちの病院に眼科はない。
「だ、大丈夫です。大丈夫ですから」
「大人しく待っていろ。いいな」
時刻は午前、九時。夜勤あがりで着替えていた俺と入れ替わりに、医局に入った主任医師はまだ、問診室に入っていなかった。すいませんちょっとと、声をひそめて呼ぶ。医師は介護士を診察し、眼科へ連れて行くことと、警察に通報することを俺に指示した。
「……傷害事件ですか?」
俺がそう言ったのは介護士を庇いたかったからだ。院長の息子であって見ても業務上の指示通達には逆らえないが、それでも。
「性犯罪は、繰り返すんだよ」
目ざとい医師は、気づいていたのだろう。スラックスの前を押さえて歩く俺に、この更衣室で、ナニがあったのか。俺がこんな、十歳以上も年下の相手に、何をされようとした、のか。
「通報は被害者の義務だ。もちろん、被害者のプライバシーを守る義務が警察と医師にはある。ちゃんと話しをするから、通報しなさい」
職場内で起こった事件だった。責任者である主任医師に決定権が会った。気が進まないながらも、俺は救急車の手配と、警察への連絡を庶務に頼んだ。
呼ばれてきた警察は、まず眼科に連れて行かれた看護士の調書をとり、それから俺と現場の確認。馬鹿馬鹿しかったが真面目に、俺はされたことを再現した。更衣室に入ってロッカーを開け、白衣を脱いで突っ込んだとき、更衣室の扉があいた。早番の出勤時間は既に一時間も前で、確かにおかしかったが、誰かが遅刻か、忘れ物でもしたのだろうと思って気にしないで居た。俺のロッカーは主任教授の隣に、介護士たちより一回りおおきなのを貰っている。
足音がロッカーの壁を回って、俺の背後に来た。それでも俺は気にせず、一晩すごして皺になったシャツを脱ぎ、新しいのをハンガーから外していた。そこで。
背後から、抱きつかれて。
片手で押さえつけられて、もう一方で露骨に前を揉まれた。そりゃもう、スラックスのジッパーが壊れる勢いで。
咄嗟に声は出さなかった。いつも出ないのだ、俺は。危なくなって、助けを呼べば、誰かが助けてくれる、なんて思ってない。……むしろ。
窮地を知られれば新しい敵を呼ぶ、だけって気がして、悲鳴は、上げない。
背後で相手は、俺の顎に手を当てて口付けようとした。俺は顎を引いて、肩を竦めてそれを避けた。そこまでは相手が絶対的に有利だった。力は、向こうが強かった。
俺が勝っていたのは、悪意。
焦れた相手が俺の身体をかえして、正面から俺を抱こうとする。肩を掴んで向きを変えられた、瞬間。
相手も見ずに、俺は足を、上げて思い切り、相手の股間を蹴りつけた。
容赦は、しなかった。
崩れるところを狙って顔面を。崩れた後も、何度か蹴ったかもしれない。多分、蹴っただろう。無抵抗になったあとも、相手が悲鳴を上げ始めてからも。
過剰防衛になるかもしれないよと、警察官は言って。
どうして、抵抗力がなくなった時点でやめなかったのかと、俺に尋ねた。
相手が憎かったのか、と。
俺は、首を横に振る。相手が誰かなんて見えていなかった。ただ怖かっただけだ。起き上がって来られるのが怖くてたまらなくて、蹴り続けたのだ、と。
不審そうな警察官に、ダメを押すために告げた。以前にも。
以前にも、同性からレイプされたことがあって。
それを思い出して、とても怖かったのだ、と。
警察官は俺を見て頷いた。いい年とはいえ、俺の見目はまだ、性犯罪の被害者として説得力があったらしい。その被害は届けられていますかと尋ねられ、いいえと答えて、簡単な現場検証は終わった。
うんざりして、それでも庶務に顔をだし、お世話かけましたと挨拶をしたら。
「まぁ無事で……」
庶務課長も、言葉に困って、口の中で何か呟いていた。
「弟さんが待ってますよ。院長室で」
よりにもよって、一番、知られたくない相手に。
「院長を今朝、送ってこられて、そのまま」
既にこのことを知られているという事実に、俺は疲れ果てた。
奥の院長室の、扉を叩くと、すぐに内側から開いた。中開のドアの向こうでは、弟が。
「アニキ、大丈夫?」
動揺を絵にしたような表情で立っていた。奥の机には、父が腰掛けて、書類を決裁していたが。
「気分は大丈夫か、涼介」
眼鏡を外して立ち上がり、俺に声を掛ける。はぁ、まぁと、俺は気のない返事をした。
「警察は、うまく言いくるめたつもりですが、足だけで蹴ったから、もしかしたら過剰防衛でまた、来られるしれません。少し、疑われてます」
手で殴ればその後がこっちの手に残って、それが障害で訴えられたときの証拠になる。ということを、俺は知っていた。若い頃の経験上。逃げ隠れ出来ない状況では逆にそのことが、不利に働くかもしれない。
「ふん」
と、父は、鼻先で笑って。
「来るなら来ればいい。送検されて起訴されても有罪にならなければいい。ま、不起訴に私は、この病院を賭けてもいいが」
余裕を、見せる。若い頃、監察医を勤めたこともある父には、警察なんてのは怖くもなんともないらしい。
「色男は大変だが、女にもてないで生きていくよりマシだろう。元気ならよかった。啓介」
呼んで、近づいた弟に、財布から抜いた万札を三枚ほど渡して。
「二人で美味いメシを食って帰れ」
学生時代、みたいな扱いだった。おぅよと弟は答えて受け取り、俺に行こうと、促して部屋を出る。
「あの子、どうなりますか?」
俺を更衣室で、乱暴しようとした介護士。
「うちは、クビだ。当然だろう」
「解雇ですか」
「懲戒、がつくな」
「自主退職にしてやってください」
「お前らしくない情けだ」
「まだ十代ですよ」
「業務上の過失なら、若さで温情をかけるのもいいだろうがな、性犯罪は繰り返す。十四歳の中学生さえ、強姦致傷で実刑判決を受ける昨今だぞ?」
主任医師と同じく、世知長けた年寄りたちは、対応が厳しい。
「罰には十分過ぎるほど、俺が蹴りつけましたよ」
「そのようだな。付き添わせた庶務係長から連絡があった。眼科の診療が終わったあと、うちに戻って来て、打撲と骨折の治療だ」
「視力に障害は?」
「眼筋を少し傷つけているが、後遺症はないそうだ」
「よろしくお願いします」
話をそこで切り上げたのは、先に廊下にでて待っていた、弟の気配がだんだんと剣呑になりつつあったから。
「サイドボードの酒を好きに飲んでいいぞ」
そんな言葉で、父親は俺を送り出した。
父親のベンツを運転して、弟は病院へ来ていた。そのまま俺を乗せて帰るつもりで待っていたらしい。助手席ではなく後部座席に乗せられた。疲れてるなら横になれよと促され、そういう訳じゃなかったが、責められたくなくてシートに横たわる。
横になって気がついた。自分が疲れ果てていること。もうぴくりとも動けない。
「メシは、帰ってからがいいね」
昼前のちょうどいい時間だったが、どこかに寄って食事は無理そうだと、弟は俺を見て判断したらしい。俺は声も出せずに頷いた。静かに、ベンツは発車して、地下駐車場から出る。……明るい。
明るさを避けるように、腕を上げて、目を覆った。
「俺も疑われてるよ」
突然、弟がそんなことを言い出す。
「親父に疑われてる。聞かれちまったよ、今朝。親父を送って来る途中でさ、あいつには、医学の知識があったのか、って」
位置を狙いすぎたかなと、笑う弟に、俺は全身を強張らせる。……なんだって?
「手関節内側の親指より、静脈に隠れてない、動脈が皮膚の真下にある、脈を取る場所。って思いながら、女のこと押さえつけて、捜したからさ。静脈切っても200か300、静脈血が流れ出して終わりで献血ほどもない、って、いつ誰に聞いたのかも分からないけど、あれだね。親兄弟が医者だと、耳知識も、バカにはなんないね」
「……、啓介」
「帰ったら、風呂入ってゆっくり眠りなよ。夕べはあんま、眠れなかったんだろ?あんた最近、夜勤にツイてないね。隣で俺も寝てていい?ナンにもしないから」
「父さんに、言ったのか」
「まさか。さぁ、って、すっとぼけたよ」
ほっとして息を吐く。もちろん、父は弟の味方だ。真相を、他に漏らしはしないと思うけれど。
「横になってなよ」
後部シートで起き上がった俺を、痛々しく、弟がバックミラーごしに見る。俺は言われるままに横たわながら、動揺が収まらなくて、息苦しかった。
やがて車は自宅に到着し、介添えされて、俺は車から降りる。殆ど女の子みたいな扱い。あぁなってからこのオトコは、本当に俺に優しくなった。勤務先の病院への送り迎え、食事と風呂の世話。オフシーズンとはいえ、来期の打ち合わせやトレーニングはある男は、でも、そんなことより、俺を優先した。
今も。
暖かな風呂に入って、疲労をとかす俺に、
「飲み物だけでも、のめる?」
なんか胃に入れていた方が、よく眠れるよと、運んできたのは暖かなミルク。受け取って口をつける。
……やさしい味がした。
「あんま漬かってると疲れるぜ。そろそろ上がりなよ」
さっさと俺を浴室から引きあげて、大きなタオルで俺を拭う。俺は子供か人形か、王様みたいに立ってるだけで、身体も髪も拭われてパジャマを身につけた。
オトコ、って、オンナにこんなこと、してやるものなのか?
その多分、代償であるセックスさえ。
「眠るまで、隣に居ていい?」
このオトコは聞き分けがいい。無茶はしない。最初の頃とは別人みたい。俺がオトコとのセクスを辛がらなくなってからは、本当に優しく、柔らかく大切そうに、俺を抱き締める。
「……責めないのか?」
布団は別で、毛布の上から俺を抱き締める、男に俺は、耐え切れず疑問を投げかけた。
「なにを?あんたが強姦されかけたこと?なんで責めなきゃなんないの。あんた被害者だろ」
しかも過剰防衛に問われそうなほど反撃したんじゃん。
「あんたが合意で浮気したんなら、俺もあんたにやることあるけどさ」
違うんだから、と、オトコは物分かりがいい。
「無事でよかったよ、ホント。怖かったよな、可哀想に。俺に復讐、してほしい?ぐちゃぐちゃに痛めつけてやるよ?」
いいやと、俺はオトコの申し出を拒んだ。既に十分すぎるほど、自分で痛めつけたから。
「なら、いいさ。そばに居るから、安心して、お休み」
背中を撫でられる。落ち着かないほどの優しさと暖かさの中で、俺は目を閉じた。
眠りの闇は深く、暗く、静かで、少しだけ苦しい。