最愛・5

 

 

 朝から、弟はおかしかった。

 ここ暫く、俺の夜勤と日勤にあわせて病院まで送り迎えしていたのに、今朝、朝食を終えたとき。

「今日、用があるから迎えに行けないよ。俺の方が、帰り遅くなると思う」

 そう告げられた時はそうかと頷いただけ。缶詰をあけたサラダに焼いた卵とパン、オレンジジュースにコ―ヒーという朝食は弟が作ってくれたもの。

以前のこいつは朝食を殆どとらず、毎朝、ギリギリまで眠ってたものだったけれど。

 異国での一人暮らしのせいか、それとも。

 亡くなった、彼女との生活の、習慣なんだろうか。

 数年ぶりに一緒に暮らしている弟の、俺が知らない横顔がみえるたびに、俺は死んだ女性のことを考える。どんな風にこれと居たんだろう。そして。

 ……、娼婦だった、と。

 こいつは彼女のことを言った。それ以上のことを、俺は知らない。この家で何度か、弟の婚約者として会った女性は明るく清潔で、そんな風には見えなかったけど、女性は見た目じゃ分からない。

 それ以上の詳しいことを、俺は聞ける立場ではなかった。彼女の不幸と弟の苦しみに、俺は深々と噛んでいる。

「お袋さぁ、暫く帰ってこないって」

 これの婚約者がこの家で『自殺』して以来、母親は親戚の家に身を寄せていた。

「話したのか、母さんと」

「うん。昨日の昼間、電話かかってきた。それがいいかもな。ちょっと、まだ……」

 誤魔化される語尾。内容はわかってる。死んだ女性の遺族とはまだ、話し合いがついていなかった。警察の検死は自殺と裁定されたが、世間にそれは隠された。彼女の両親はともに公立高校の教諭で、父親の方は教頭。世間的にいえば『しっかりしたお家のお嬢さん』だ。

「会いに、行くのか?」

 遺族に。まだこの弟を許していない彼女の両親と兄弟に。

 弟は答えない。否定しないから肯定。ただし、俺になんにも言わないのは、話題を拒む意思。

 分かっていたけれど。

「俺も、行こうか」

 敢えて踏み込んだ、途端。

「いらねぇよ」

 ぴしりと、拒絶が返って来る。

「……、あんた、仕事だろ」

 自分自身の口調のキツサに驚いた表情で、とってつけたような言い訳。

「ほら、そろそろ時間」

 椅子に掛けていた上着を俺に差し出す。受け取ろうとしたら弟は笑って、上着を拡げて俺に笑った。さっきの拒絶の詫びなのか、うやうやしいほど丁寧な動作で。

「寒くなってきたね。風邪、気をつけて」

「大丈夫さ。予防注射をしてる。お前も今度、受けに来い。今年のインフルエンザはひどいぞ」

「うん、行く」

 そんな会話とともに一緒に家を出て、病院の駐車場で別れた。

 

 それから十二時間。弟は、まだ帰らない。

 今日は定時に退勤し、タクシーで帰宅して弟の帰りを待つ。不規則な生活の俺と父のために、家政婦が作りおきしてくれるビスケットを紅茶でつまみ、あいつの帰宅を待った。一時間、二時間。まだ帰らない。

 このままもう、帰って来ないんじゃないかと思いはじめた頃。

「……、ただいま」

 ようやく帰って来た。ひどく疲れた表情で。いつも遺族と会って帰って来ると、この弟は疲れ果てている。明るい筈の玄関で、俯く頬の翳りが深い。伏せた目は、意外なほど長い睫毛に隠されて浮かぶ色を見せないけど、でも。

 疲れ果てているのが、分かった。

「……ごめん」

 玄関に出迎えた俺のわきを通り抜けて、そのまま二階へ上がっていこうとするから。

「啓介、食事は」

「食べてきたよ」

 ウソだ。

 そんな顔色で、白々しい嘘。夕食どころか昼食さえ、お前、ろくに摂ってはいない筈。

 俺が逃れるようにさっさと階段を上がっていく。俺に問い詰められるのを怖れてるのか。俺はお前が痛がることはしないぜ。どうなったのか、どうなってるのか、凄く気になるけど。

 お前がそれを話したくないなら、聞かない。

 後を追うように階段を上がる。階段を上がってすぐ、手前の部屋が弟の私室。俺はドアをノックした。返事はない。

「開けるぞ」

 予告してドアを開く。部屋の中は暗い。明かりも付けないままベッドの上に気配。服を着たままそこに居る。仰向けで、そして。

 視線だけで俺を流し見た。

「……入って来る気?」

 身体を返して、入り口に立つ俺の方を向く。

「来るなら脱げよ」

 それが嫌なら来るなっていいたいのか。

「着たら朝までだ。それでいいなら」

 いいさ。いい。もちろん。

 着ていたシャツを脱ぎチノバンのベルトを抜く。明るい廊下に衣服を脱ぎ捨てて、下着まで、ぜんぶ自分の身体から剥がして裸になる。恥かしさとか、照れは感じなかった。むしろ。

「……」

 暗い部屋の中から、俺をじっと見てる男を俺も、見返して。

 招かれるのを待つ。

「おいで」

 掛けていた毛布の片端を持ち上げて、男が俺を誘う。ためらわず部屋に踏み込んだ。けどやっぱり、少しだけ違和感。俺をだきとって、抱き締めて、唇を重ねながら男はそっ……、っと、俺をベッドに横たえる。

 そうして自分はベッドから、一度ぬけだして枕もとに立つ。薄暗い部屋の中、衣擦れの音だけが響く。服を脱いでいる。

 いつも、こうだ。俺を抱く時は自分も裸になる。脱げば見事な筋肉の、しなやかな隆起の輪郭が、逆光の中で浮かび上がって、俺はそっと目を閉じた。

 分からない。

 どうしてこいつが、俺とこんなことをしたいのか。これになら女は素直についてくるだろう。昔は頬に残っていた柔らかさも削ぎ落ちて、危険なほど魅惑的な、オトコに成長した……、弟。

 なるべく女の子みたいに思えるように、俺は目を閉じて、じっとしていたのに。

「……アニキ」

 わざわざ俺をそんな風に呼ぶ、こいつが本当に分からない。俺のカラダなんか抱いて、それでホントに、気持ちいいんだろうか。

「ごめん」

 ベッドに戻って、俺に被さってくる男。手首を掴まれ、腕を背中に運ばれた。促されていることを悟って背中と、肩に手をまわす。体全体をかすかに弓なりに反らして、男のホウヨウに応える。

 触れ合う肌。脚も胸も、なにもかも裸で抱き合う。シャワーを浴びていればよかったと、ふっと後悔した。俺はまだよく分かってない。どうすれば優しく、これを気持ちよく包んでやれるのか。

「ごめん、な」

 何を謝っているか分からないまま、そっと膝を、開いた。慰めるように男の手は俺の膝頭を撫でたが、それだけで一旦は離れる。

 両手で頬を包まれる。柔らかい熱心なくちづけ。何度か目にぺろりと舐められて、俺は薄く、唇を開く。

 その段取りも、仕込まれたこと。最初は訳が分からず、乱暴されるのが嫌さに自分から、遮二無二口を開いて舌を差し出していた。それではダメなんだ、と。

 吐き出すだけの粗雑な処理なら、うまい玄人がいくらでもいるけど。

 俺はこれの、代わりのオンナだから、愛しあわなきゃならない、と。

 言われた意味は、今でもよく分からない。でも一生懸命に、抱き合う相手を感じていれば何を求められていてどうすればいいか、分かるときも、ある。

 角度を変えて舌を絡め、呼吸を奪うほどの激しいキス。思うままに口内を蹂躙されるうちに、ヘンな熱が、カラダの芯に生まれる。粘膜を下で弄られる感触が、俺に淫らな連像をさせるのだ。

 胸の突起も股間の実りさえ、擦り合わせるように触れ合って。

 熱に耐え切れず、息苦しさに、俺は顔を背けて男から唇を剥がす。横向いてついた息は、殆ど、欲情の溜息。自分で分かってる。

 男の手は俺の頬からはずれ、そっと肩を押さえる。押さえられるまま、腕を開いて、男を胸に、抱きとめる。

 まさか自分がこんな真似を、する日がくるなんて夢にも思わなかった、信じられないほど淫らな夜の、はじまり。