最愛・6

 

 

 気がつくと、隣に暖かさがあった。

 そっと目線を向ける。ほんの少しだけ顔も動かした。少しだけだったけど。

「気ぃついたね。ナンか、飲める?」

 仰向けにベッドの上で横たわった俺の、隣にカラダを伸ばして添い寝、していた男は敏感に気づいた。さっさと起き上がり、床から脱ぎ捨てたスラックスを穿いて、もう一度、俺に手を伸ばす。

「どっか苦しくねぇ?ダイジョーブ?」

 大丈夫、という合図に、笑った。俺が唇の端を上げると男は嬉しそうに、俺の頬を指先で撫でてくれた。そして足音をたてずに離れる。しばらく階下に姿を消して、すぐに戻って来る。手にはミネラルウォーターと、暖めたミルク。

「シチューとか、いま、レンジであっためてるから」

 とりあえず水分をとりなよと、言われて背中を支え起こされる。全裸の肌に触れられて震えた。あんなにしたのに、まだ、俺の芯は、熱を持っていた。

「……ッ」

 俺の震えに、男は、なんだかまた、嬉しそうに笑って。

「俺も、まだ足りないけど」

 懐くみたいに、見かけより柔らかな髪が俺の、背中に押し当てられる。

「もーちょっと、あんたのこと、欲しかったけどさ」

 背中にカラダを寄せられて、俺は正直に喘いだ。心拍数が上がっていく。しなやかな筋肉の張った肌が直で当る。スラックスの下だけ穿いて、その布地で擦るみたいに、俺の脚の、間に後から。

「……、ぁ……」

 男が俺の背中で片膝を立てて、俺はそれを、跨ぐ姿勢を、させられて。

「う……、ん……ッ」

 擬似の感覚に喘ぐ。

「あんたンなかに、いつか朝まで、ハマっときてぇな……。繋がって揺らしてっとあんた、締まりはよくなんのにナカ、柔らかくなってって。最初は粘膜なんだけど、あんたがきゃあきゃあ言い出す頃は、煮えて爛れて、液体ってーか、溶岩ってーか……、さっき皿についだシチューみたいなカンジ。別のカラダみたいに変わる。どっちも美味いよ、最初も、蕩けてからも」

 そんなことを、こんな姿勢で、熱い息と、一緒に耳元に吹き込まれて、俺は頭を振る。拒んでじゃない。中途半端な刺激が辛かった。男の手を引いて掴んで、俺のカラダに触れさせる。前と、胸に。

「すげぇ、スキ」

 男はどっちも、そっと、いたわるように撫でて。

「水、飲みなよ」

 すぐに離した。膝も下ろして大人しく、俺を支えてるだけに戻る。喉が乾いていたから冷たい水はひどく美味しくて、俺はペットボトルから、ごくごく飲もうとしたけれど。

「ダメ。ゆっくり飲みな。カラダに悪いから」

 冷たいものを急いで飲み込むなと、それは昔、俺がこの男に言っていたことだった。

「そう、含んで、ゆっくりね。……、うん、そう」

 子供みたいに扱われる。素直に従った。自分で自分のカラダさえ起こせないほど俺は疲れていたし、俺を支える男がひどく優しくて嬉しそうだったから。さっきまでの敵意と見まがう緊張はどこにもない。俺を撫でていく指先には余裕と思いやりさえあった。

「ミルクは?飲める?……、もーちょっと待ってな……」

 言いながら、裸の俺の腹を撫でる。冷たい水を好きな俺の嗜好は昔からだが、昔より、俺の胃腸が弱ってることを、指摘したのはこの男だった。ごくごく水を飲んだ後は食欲をなくすこと、俺自身さえ、うまく気づいていなかったけれど。

「はい」

 差し出されるミルクはちょうどいい温かさ。うっすら甘く、砂糖が溶かしてある。唇に当てられてカップを傾けられる。本当に人形みたいに、俺は何もかも任せていた。

「……、ネコが、さ……」

 目を伏せてミルクを少しずつ、飲み込んでいく俺を、ひどく優しく眺めながら。

「あいつが飼ってた猫、一緒に帰って来て、いま、あいつの実家に居るんだ」

 ぴくりと、俺は強張った。でも男の、穏やかな手つきは変わらなかった。落ちた前髪を掻き上げてくれながら、

「あいつが死んだって知らないんだろうな。俺があいつんち、行くとすっとんで来る。そのまんま、ずっと俺の膝から離れないの。カワイイよ」

 飼い猫さえ懐くほど、向うで近くに居たんだと、伝えられているようで、苦しい。

「……、のに」

「ん?」

「連れてくれば良かったのに」

 お前に懐いてる猫なら俺が飼ってやるよ。この家に、連れて帰って来ればよかったのに。

「ん。俺もチラッと思ったけど、そんなの、言い出せる雰囲気じゃなかった」

 どんな雰囲気だったんだろう。聞きたかったけど、聞くのが怖くもあった。

「なるべく誠意、見せるつもりでいる。一緒に住んでたことがあったのは本当だし、俺があいつのこと、『殺した』のも、本当のことだしさ。……金はね」

 支払うつもりだと、男は言ったけど。

「けどまぁ、俺にも、外聞ってやつ?そんなんがあるからさ、あんまりなこと、されたら」

「……、慰謝料、示談ですみそうにないのか」

「キヨクタダシク生きてきた学校のセンセェは世間知らずで困るよ。おんなじセンセェでも、医者はいろいろ、キタナイことも知ってんのにな。あいつが自殺ってバレたら自分たちだって世間体が悪いだろうに」

 多分その、悪さも何もかも、この男のせいに、しているんだろう、遺族は。

「あんまり気はすすまねぇけど、暴露するしかないみたい。あいつがあっちで客、とってたってコト」

「……信じるかな」

「証拠があるよ。あいつ雑誌に載ったから。日本にもあるだろ、ソープ嬢の顔とか裸とか載ってるやつ。あっちにもあってね。俺がちょっとスランプってる時、マネージャーが半分ジョーダンでそれ、買って来て……」

 喋っている途中でふっと、男は口を噤み。

「ごめん」

 謝られて、最初はなにを謝られたのか分からない。飲み干してからになったミルクのカップ。水分と栄養が胃に落ちて、血液の流れにのって全身にまわっていく。

「もう、しねぇよ」

 ぎゅうっと背中を抱き締められて。

「もう、絶対、雑誌でオンナ、選んで買ったりしねぇから」

 昔の話なんだと、まるで許しを乞うように、俺に縋り付く、みたいに腕をまわす。なんでこれがそんなことを、気にするか分からなかった。俺は買春したことはないけど、そうして基本的に、それはよくない、ことには違いない、けれど。

 ストレスが溜まって落ち込んで、どう仕様もなく追い詰められた男の特効薬はセクスしかない。気持ちがいいセクスをすればそれだけで、自信もやる気も取り戻せるのがオスの特性だから、愛し合ってる妻や恋人が居ない男が金銭取引とはいえ、合意で慰めてくれる女性に寄っていくのは、道徳だけで責められないところも、ある。

 だからいま、お前が手近に居る、俺を抱いて心を癒しているのも。

 少しも悪いことじゃないんだぜ。

「動ける?下にメシ、食べに行ける?」

「俺はいい。お前、食べて来いよ」

「あんたが食べないなら俺も要らないよ」

 優しい声だった。でも、少し脅迫にも聞こえた。ちらりと時計を見る。まだ日付は変わっていない。ベッドに入って、二時間もたっていないのだ。朝まで離さないと言った男は、でも、もう、俺を解放するつもりらしかった。俺には優しくなったけど、自分はまだ少し苦しそうなのに。

「だってあんた、気ぃ失ったじゃん」

 それはついさっき、多分、ほんの数分間。

「こんなに痩せてんのに、ムリさせる気はないよ。俺はね、あんたとなら、ホント朝まで抱き合ってたいけど」

 すればいいのに。お前のスキに、使えばいいのに。こんなカラダ、いくらでも壊していい。

「さみーしーコト、言わないでよ。愛し合いたいんだ、よ」

 まだ分かってないねと、本当に寂しい顔で男は低くごちた。その表情に、俺は深い後悔。そうだ、『オンナの代わり』だと、言われていたのにすぐ忘れてしまう。カラダだけ差し出して済むほど、俺の罪は、軽くも浅くもないのだ。

「夕飯、食ってないよね、あんた。ダイジョーブかな。なんか食べたいものない?買って来るから。ゼリーとか、プリンとか、ナンでもいいよ?」

 心配そうに見詰められる。こんな風に彼女のことも心配していたのか。彼女が居なくなったから、代わりに俺を心配して、寂しさを誤魔化しているのか。

 ……悪いことじゃない。

 痛みは体力を消耗する。身体のイタミも、心のイタミも。だから麻酔や鎮痛剤を処方するのだ。体力を温存するために。そして一時の不調を乗り越える。それは少しも、悪いことじゃない。

「ミルクを、もう一杯、飲みたい。……甘くしてくれ」

 これが、俺を、彼女や猫の代わりに可愛がりたいのなら、いくらでもさせてやる。

「夕食は、食べるよ。シチューを食べたい。ただ、下まで降りていくのが、ツライんだ」

 だから持って来てくれと頼むと、

「……、うん。ちょっと、待ってて」

 裸の俺にキスをして、シーツを俺の肩に巻いてから、男は足音も軽く階下へ降りていく。その隙に俺はシーツの端でカラダの始末をした。ゴムを使っていたからあいつのぬるみは受けなかったけど、自分が分泌した粘液で下腹から膝まで汚れてて、このままで食事をする気には、とてもなれなかったから。

 乾いたシーツで乾きかけたそれを、苦労して拭っていたら。

「アニキ、メシの前にお湯……」

 気のきく男が洗面器に注いだお湯とタオル、バスローブを持って部屋のドアを開ける。開けた瞬間、はっとした表情。それで俺は、誤解されたことに気づく。

「ちが……ッ、拭いてただけ、だ……ッ」

 自慰を、していたわけではなく。

「あぁ、うん」

 ずいっと、男が部屋に入って来る。俺の手からシーツの端を取り上げて洗面器の湯で濡らす。それから股間を拭われる。自分ですると言ったけど許されず、触れられてる間中、俺はシーツの別の端を噛んで、耐えていた。

「こっち、向いて」

 濡らして絞ったタオルで顔を拭かれる。手を拭かれる。最後に足を洗面器に浸して、爪先を拭われる。そして。

「腕、貸して」

 タオル地のバスローブを肩に掛けられて袖を通す。体を清められて、布を身にまとうと、なんだか落ち着いて、本当に空腹になった。

「あんたの部屋に用意したから、掴まって」

 支えられ立ち上がる。ちょっと乱暴なセクスの後だったけど、以前と違って身動きできないほど、俺は痛んではいなかった。俺が慣れたのか男が加減を覚えたのか、多分、両方だ。

「食ったら眠りなね。ゆっくり。……愛してるよ」

 それは、俺がこいつに、言いたいことだった。

 愛してる。お前は少しも、何も悪くない。苦しまないで、ゆっくりとお休み。そのためなら、俺はなんでもするから、と。

「愛してる」

 繰り返される言葉にようやく、俺は何を求められているか、気がついて微笑んだ。

 シチューの湯気の向うで、男はやっと、安心したように笑った。

 

 

 翌朝、出勤ギリギリまで、俺は眠って。

 弟に起こされて慌てて身支度。目覚まし時計は鳴らなかった。弟が止めていたのだ。どうしてと咎めたら、だってあんたが疲れてたからと答えられて。

 顔を洗って着替えるなり、車に積み込まれる。車の中には食事の用意があった。車で二十分もかかる、美味いベーカリーのサンドイッチ。ポットには紅茶。至れり尽せりだ。

「これから毎日、こーやってやるよ。したら、あんた三十分、余分に眠れるだろ?」

 そこまでしなくていい、とか。

 言いかけて、やめる。こいつがしたいんだから、したいようにさせようと思い直して。

「そうだな。助かる、な」

 俺が答えると男は笑った。満足そうに。それだけで、俺は良かったのだ。

 

 

 通常勤務が始まって、問診、そして医局でのカルテ整理。

 医事課とのやりとり、主任意志との連絡。そんなことをしているうちに、ふと気づく。カラダが妙に、軽い。

 体調がいい。疲れにくく、なってる。一時に比べればかなり。以前はもっとキツかった。朝からだるくて、午後になると、肩や膝が痛くなることもあったのに。

 『以前』というのは弟が帰国する前、だ。弟の婚約者の、あの騒動が起こる前と比べても、俺はなんだか楽になっていた。腕を伸ばしてみる。関節が柔らかく伸びる気がする。やや病的に骨ばっていた腕が、少し、マシになったようだ。それでいてカラダは軽い。

 まじまじと、自分の爪を見ていたら、

「どうか、されましたか?」

 国立癌センターから返信されてきた診察依頼状を、ファイルに綴じにやって来た看護婦に、不審な顔をされた。

「いえ、なんでもありません」

 答えながらも、俺は自分の指から目を離せない。いつからこんな、ピンク色になったんだろう。

「爪の筋、消えましたか?」

 婦長は笑いながら俺に言った。え、と、俺は顔を上げた。幼い頃から知っている俺を、彼女は甥っ子、みたいに思ってる。実際、薄い血縁もあるのだ。祖父の従兄弟の娘とか、そういう縁だけど。

「先生、爪に縦筋が入っていたでしょう?心配してましたよ。睡眠不足とか栄養不足とか、爪にすぐ出ますからね」

あぁ、そういえば、過度なダイエットで貧血症の女の子は、爪に茶色の筋が入ったり、薄く脆くなったりする。

「見せてください。まぁ、いい色。とても健康的だわ」

 自分のことみたいに喜んで婦長は出て行った。それはまさしく、俺が思っていたことだった。なんていい色だろう。桜貝みたいだ。こんな自分の爪を、俺は長らく知らなかった。

 なにがあったっけと、頭の隅で考える。以前と今で変わってるのは一つしかない。俺はいま、男と寝てる。オンナの位置で抱かれてる。歪んだセクスだ。なのになんで、身体はこんなに、若返ったように生き生きとしているんだろう。

 やっぱり、セクスは、必要なことなんだろうか。俺の歳で、何ヶ月もセクスをしないのは、男に抱かれるより身体には悪いのかな。同性同士でも不自然でも、欲情と吐情と、終わった後のとろけるような充足は、生きていくのに不可欠の要素なのかもしれない。そんなことを考えていると、内線が掛ってきて。

「はい、涼介です」

 高橋姓の医者は俺と父親を含めて親族で四人、赤の他人で一人、その他、事務や看護士にも居る。院内で、俺は名前を名乗ることにしていた。

『私だ』

 そう言う声は、父親。

『いま、啓介から電話があった。お前に伝言だ。弁護士と五時に会うから、迎えには来れない、そうだ』

「お父さんにですか」

『庶務を通してお前にかけて、迷惑になると悪いと思ったのだろう』

 院長室の番号は直通で、登録された番号からのコールしか受け取らない。もちろん自宅や、俺や啓介の携帯番号は登録してある。

『私も今日は会合で遅くなる。啓介の……』

 父は何かを言いかけて。

『タクシーで帰れよ。あのバカを、見張っておいてくれ』

 それを上手に、誤魔化した。

 

 病院のロビーにはタクシー会社に直通の無料電話があって、俺はいつもそれを利用していた、が。

 ふと、気が変わった。少し歩こう。そんな気分になった。それは多分、健康になった自分を自覚したせい。勤務の後も動ける体力を確認して実感したかったせいも、ある。

 そしてなによりの原因は、顧問弁護士の事務所が徒歩二十分という、ちょうどいい距離にあるということ。歩いていって、駐車場で待とう。それから何か食べに行こう。車なら酒は飲めないが、代行を頼むこともできる。

 外を歩くのは久しぶりだった。時刻はちょうど夕暮れで、行き交う車のヘッドライトが点き始めている。街の汚れが薄闇の中で色彩を奪われて、最も目立たなくなる、時間。

 いい気持ちで、俺は歩き出した。わざと車と人通りの少ない、川ぞいの細い道を選んだ。その方が弁護士事務所には近道だったから。

「……、高橋先生……」

 すぐに、名前を呼ばれて、振り向く。

「先生……、こんばんは……」

 向いて、内心で、ぎくりととした。殆ど恐怖を感じた。そこに、居たのはこの前、更衣室で俺に抱きついて、俺にのされた、あの若い男。

「……、やぁ」

 それでもなんとか、咄嗟に平静を装う。

「こんばんは。久しぶりだね。怪我の具合はどう?驚いたから手加減できなくて、悪かったと思ってるよ。心配、してた」

 少しもそんなこと思っていなかったけど、嘘をつくのは仕事柄、慣れている。若い男は、少しだけ笑って。

「俺こそ、すいませんでした。……、ごめんなさいって謝りたくて……、待ち伏せして、すいませんでした」

 やっぱりされていたのかと、内心で舌うち。弟が俺を車で送迎し、タクシーを使えと父がうるさかったのはこいつを警戒していたのだ。俺自身は自分でのした安心感もあって、すっかり忘れていたけれど。

「俺、先生に、少し話が、あるんです。お時間、いただけませんか?」

 男は普通に話してる。一見はマトモだ。でもジャケットに突っ込んだ手が細かく震えてるのを、宵闇の中で俺は見ていた。街灯は少なくて暗い。車も通行人も居ない。大通りまでの距離は、俺の立ってる側からは一キロ以上ある。若い男の背後、俺がいままで歩いてきた方は百メートルもない。ただし、この男の、わきを通り抜けなければならない。

 どうする?

「いいよ。僕も聞きたいことがあったんだ。就職先は、もう見つかった?」

 精一杯、優しい声を出した。

「もしまだなら、僕の知人に介護士が足りなくて困ってる施設がある。君に勤める気持ちがあるなら紹介するよ」

 俺の言葉に若い男の気配が緩む。口からでまかせだったが、全くのウソでもない。心当たりは、ある。何処かで話そうと、俺は笑って、なるべくゆっくり、男の横を通り過ぎた。男が動く。けどまだ、ポケットから手は出ない。ゆっくり、ゆっくりと、俺は歩いた。男はついてくる。

 あと、八十メートル。

「俺、お願いがあるんです。病院に戻れないでしょうか?」

「病院って、うちの病院かい?」

「はい。一生懸命、働きますから。……お願いします」

 あと七十メートル。

「どうかな。新しいところで、やりなおすのが、君の為じゃないかな。僕はもちろん、口外はしていないけど、事務局長はあれを知ってる。君の将来に、触るよ」

 あと六十メートル。

「……忘れられないんです」

 走れる、だろうか?背後にぴったり、男の気配がある。殆ど触れんばかりの近さだ。踵や膝に力を入れてみて、さっきまでの身体の軽さと裏腹に、俺は自分の不調も思い知る。夕べは横向きの姿勢で膝を曲げられて、随分ながく、あいつに犯された。膝が、だるい。

「先生の、せめて顔が見えるところに居たいん、です。好き、です」

 あと五十メートル。

「気持ち悪い、ですか?」

「いいや、君のキモチは、嬉しいよ。僕は同性には偏見はないよ。でもね……」

 あと四十メートル。その前に、柳の大きな木がある。薄い宵闇の中、その影だけはくっきりと濃く、暗黒に近い影を路上に、落としてる。

「でも、僕は……」

 背中で空気が動く。誤魔化しはもう効かない。持っていたカバンを振り向きざまに振り回して、俺は走り出そうと、した。

 大通りまで、あと三十メートル。明るい街灯が俺からは見えている。けれど手前に柳の陰が落ちて、明るいそこから、こっちは見えにくいだろう。

 どこにでも、それは開いてる。いつもの日常の、何気ない道のそこここに。

 地獄に通じる、深い、穴。