最愛・7

 

 

 どんな態度をとるべきか分からなかった。だから無抵抗で、じっとしていた。群青色に灰色が濃くなっていく空を見ながら、そこに星が瞬き出すのを見ながら、影しか見えない相手の背後で、明るい橋の上、街灯の下を車や人が通り過ぎるのを見ながら。

 彼らは思いつきもしないだろう。けっこう大きな川の河川敷、増水時には濁流が流れるそこで今、犯されている人間が居るなんて。明りの届かない場所、目に見えない暗闇、そこで何があっているかなんて、考え付く人間は居ない。

「……、せん……、せ、ィ……ッ」

 荒い呼吸が耳につく。黙ってろ、と、心の中で罵る。痛みと口惜しさで混乱しかける嗜好を必死に押さえ込んでるのに、これ以上、刺激されたら、喚き出しそうだ。

 このやろうとか、コロシテヤルとか、覚えていろとか、そんな陳腐な定型句しか、いまは思いつかないのに。

 そんな台詞をいま、口にするのはまずい。今まで無抵抗が居たのが全部、無駄になる。犯罪者はいつも自分の罪に怯えてる。それを被害者が暴こうとすれば口を塞ぐだろう。犯された挙句に殺されるのなんかごめんだ。ここをなんとか切り抜けて、明るい場所まで戻って、全部は、まず、そこから。

 逃げ切れずに捉えられ、堤防の斜面を引き摺り下ろされた時点で勝敗は決まった。前回、蹴りまわせたのは不意をついたのと、狭い更衣室だったからガタイのいい相手は予備動作に不自由だった、から。押さえ込まれてしまえばもう、圧倒的に、相手が強い。抵抗しても、自分に余計な怪我が増えるだけ。

 日が落ちて、河川敷の草木たちが一斉に呼吸をはじめたのか、奇妙な湿度を伴った空気が地面に満ちていく。草いきれ、っていうのか、これが。……知らなかった。

 抵抗するなど、自分に繰り返しいいきかせる。粗雑な愛撫の途中も、滅茶苦茶な口淫の最中も。仰向けで弄ばれていた姿勢を変えられて、うなじを噛まれながら背中から、腰を抱えられて挿入された瞬間は耐え切れずうめいた。声に相手はますまず興奮して、それがどくりと脈打ったのが、分かった。

 抵抗、するな。……するな。

 言い聞かせる自分の裏側で、殺されてもいいからしろと、そんな命令も同じ脳から発信される。拒絶の意志がこのままじゃ伝わらない。誇りと、そして何よりも。

 あれのために、意地をたてろ、と。

 俺はあいつのものだろう、と。

 バカなことだ。いやその通りだけど、動機づけはは正しくとも行動は無茶だ。犯されるくらいなら死ねなんて、そんなレトロな考えは今時はやらないし、第一、そういうのは戦前の、貞操が大切だった時代の話だし、それに第一、暴行で受ける傷より俺の人生の方が重いし。

「センセ……、オトコ、居るネ……」

 強張った俺をなだめるように、相手は俺を背中から押さえ込んだまま、顎の下で俺の後頭部を撫でるみたいにする。よく、俺を抱くとき、あいつがする仕草だった。両手は腰を捕らえていて使えないから、顎先で俺の痛みを慰める。

 オトコはみんな、おんなじことを、するものなんだ、ろうか……?

「ねぇ、そいつ……、ダレ?いつも一緒に居る弟?……まさか、ね」

 ぎくりと、背中が竦みそうになるのを、俺は必死で押しとどめた。

「分かる、んだ……。後ろ見ると、そういう人は、すぐ……。センセのおしり、キレーな形で、ずっと触りたかった……」

 まるでそれを、愛の告白みたいに相手は言った。欲情していたことを聞かされて喜ぶと、思ってるのかバカ。俺は女の子じゃないし、女の子達だって多分、狙ってる男以外に発情されるのは迷惑だろう。危害が加えられる危険が高い、から。

「キモチイイ……、凄く……」

 こっちが吐き気と痛みに耐えてんのに、そんなコトを言い出す。ゆさ、っと揺すぶられてカラダが浮いた。相手の下腹が俺の尻に当る。あいつの方が引き締まってて薄い。今、俺に暴行を働いてる相手の、格闘技用の柔軟な筋肉は鞠みたいな弾力。余分なウェイトを削り落としたあいつとは、違う。

「……、せんせ……?」

 背中から突き上げ揺らしながら、耳たぶを噛まれる。ぞっと、した。

「泣いてんの……?痛い……?」

 違う。口惜しい、だけだ。

「ダイスキ、でした。……ずっと……」

 吐き気がする、告白。

 やがてオトコは黙った。俺もしこうを手放した。耐えるだけで精一杯の、きついセクスが、始まって。

 

 

 いつの間にか、月が出ていた。

「……ごめんなさい」

 動けない俺の隣でさっきまで、俺に暴力をふるっていた相手が、謝る。口調には馴れ馴れしさがあって、それが俺の嫌悪感を物凄くそそる。力で押さえつけて無理矢理に繋いだ身体で、そんな親しみを示されるのは息が止まりそうなほど、不本意で。

「怒ってますか……?」

 答えられなかった。いくら、無事に切り抜けるためでも。

「センセ、素晴らしかったヨ……。また、会える……?」

 頬を寄せられ、尋ねられ、俺はうっすらと、微笑む。

「……そうだな」

 月は細い。暗がりの中、それでも俺の表情が分かったのか、相手は嬉しそうに笑う。俺は心の中で続けた。裁判所で、多分会うだろうよ。

「鞄、取って来てくれないか」

「あぁ、うん」

 相手は土手の上に消え、暫くウロウロした後で、路上で屈み、俺が振り回した鞄を見つけて持って来る。その中には、もちろんサイフと、携帯が入ってる。

「立てますか、先生?」

 差し出された手を、俺はまじまじと見詰めた。なんだ、これは。

「先に行ってくれ」

 まさか俺が、その手を取ると思っているんだろうか?

「痛いの?」

 当たり前だ。身体も疲労しているし、怪我もしてるし、何よりも。

「……行ってくれ」

 憎くて、口惜しくて。

 相手は暫く、戸惑っていたが。

「上に居るから、呼んでください」

 俺から離れて立ち上がり、土手の上の道へあがる。大きな柳の、影。

 声が聞こえないくらい離れた後で、俺は鞄の中の携帯を取り出した。

「……、レイプ、されました」

 警察です、という名乗り聞いて、単刀直入に言った。ご本人ですかと、向こうは落ち着いて尋ねてくる。

「そうです。たった今です。相手はまだ、少し離れたところで見張っています。隙を見て、この電話を掛けています」

 電話の向こうが緊張し、ざわめきだす。自分が居る場所は分かりますかと、問われて。

「はい。××病院近くの、××川の河川敷です。国道に向かう側の、大きな柳の下から降りたところ、です。相手は柳の下でこっちを見張っています」

 そのままけいたいを切らないで下さい、すぐに行きますと、電話の向うで言われ、俺ははいと返事をした。そのままで、待つ時間は長い。でも多分、三分とはかからなかっただろう。

 細い道いっぱいに乗用車が入って来る。覆面パトカーだろう。人影が二つ、降りる。柳の木の陰と重なっていた強姦犯人の姿が動揺して木陰から離れる。二つの影が挟むようにして何かを尋ねてる。うちに、別の、今度はカブのバイクが二台、連なってやって来る。パトロール中のおまわり。

「警察に電話をされた方、警察の者です。もう大丈夫です。どちらにおられますか?」

 おまわりの声はまだ若く、凛々しく丁寧だった。誤解をされているなと、思って薄く、苦笑。うら若い妙齢の婦女子が乱暴されて、怯えて隠れていると思っているんだろうか?

「……、はい。ここです」

 立ち上がろうとした。出来なかった。代わりに声をあげ、もういいだろうと思って携帯を切る。切って、すぐ後で。

「……、お父さん?まだ病院ですか?」

 短縮の一番に掛ける。この携帯を買ったとき、弟はまだ帰国していなかった。だから、弟の番号は二番目に入ってる。

「よかった。すいません、お願いがあるんです。着替えを……、持って来て欲しくて」

 俺のロッカーの中からと、言うと父親は緊張した。何処に居ると尋ねられ、警察に言ったとおりのことを、告げる。

「もう大丈夫です。そんな大怪我もしてません。警察にも連絡して、今、もう、来てもらいました」

 警官は俺に気づいて、近くにやって来て、俺の電話が終わるのを待っていた。

「すいません。前のあの子です。……待ち伏せ、されました」

 すぐに行くと告げられて、ほっとして通話を切り、警官に向かって会釈して、立ち上がろうと、したのだが。

「……ッ」

 身体を起こした、途端に世界が回転して。

「しっかり……ッ」

 月が出たのに、今度こそ真っ暗な、闇。