最愛・八
失神した人に、殆ど寄り添うみたいに、そばに侍ってたから。
意識を取り戻したらしい体の緊張に、俺は気付いた。背中に添えた手に力を入れて、体を起こそうとした人を制する。……まだ、寝てな。
ここは病院、親父の院長室。あんたが寝てるのは親父の仮眠用のでかいソファベッド。病室にあんた一度は寝かされたんだけど、親父が心配したんで点滴終わるとこっちに移された。弁護士のところに連絡が入って、俺と弁護士が駆けつけたときはまだ、あんた川原に置かれて写真、撮られてた。起訴の証拠に必要なんだろうけど辛かったな。ここには俺が、運んだよ。
ネタフリ、してろ。今、あんた起きると、面倒な事になる。
「顔を覚えているぞ、君だ。前回、過剰防衛になるかもしれないと言って行っただろう」
親父がキレてる。何年ぶりかな、親父のこんな声きくの。度胸たっぷりで普段、大らかに構えてる人が怒ると迫力だねぇ。どんなに怒っても声が震えネェのさすがだ。
親父の声で状況を察したらしい。頭のいい人は大人しく、寝たふりを続けた。
「そのせいだとは言わないが、同一犯の、二度目の今回は既遂だ。前回の自分の発言や対応に、恥じるところはないのかね」
傷ついて失神して、この病院に運び込まれたあんたを、事情聴取のために起こせって、所轄の刑事が言ったんだよ。それが前ん時とおんなじヤツだったから、親父が大爆発。
「被害甚大にならないと動かない警察がこれだけ社会で問題になっているのに、警察自体も最近は予防に熱心なのに、君は旧態依然としているのか。ホシだのシロだのクロだのと、そんな遊びをしたいだけなのか?痛めつけられて寝ているのが見て分からないか。それを起こせだと?ふざけるな」
刑事もタジタジだよ。そーいや俺がガキの頃、補導された時もこんな風に、論陣張って取り戻しに来たっけ。横に弁護士は居るけど、喋ってんのは親父だけ。親って有り難いね。
「帰りたまえ。涼介が回復したら調書のために、署にはこちらから出向かせる。だがその時は君以外に応対していただきたいと、君の上司に伝えたまえ」
尻尾を巻いて刑事は退場だ。弁護士がそれを追った。親父の態度を謝罪して、うまく情報を引き出してくるツモリ。軟鋼使い分けた尋問は警察の十八番だけど、逆用されてちゃ世話はない。
親父はまだ腹が癒えないらしい。大きく息を吸って、ゆっくり吐いて、暫くそれを繰り返して。
「……、もしもし、以前、そちらで監察医を勤めさせていただいていた、高橋と申します」
いきなり電話を掛けた。警察?
「そちらの、……、さんか、いらっしゃらなければ……、氏に、お取次ぎを願いたいのですが」
親父が警察の嘱託監察医、出来なくなったのは俺がぐれてて、補導を繰り返されたせい。悪いことしたよ。いい小遣い稼ぎだったろうに。病院の収益と違って個人の懐に丸々、入って来る金って貴重だよな。俺もねぇ、CMの出演料って、そのまのま財布に入るから大好き。
「どうも。お久しぶりです。用事のある時だけ連絡しまして、申し訳ありません。実は……、お会いして、お願いしたいことがあるんですが。……、えぇ、何時でも、そちらのご都合に……」
普通に喋ってるけど、緊張は相手にも伝わったらしい。こちらでいいならすぐに来たまえと、電話の相手が言ってんのが聞こえる。親父は礼を言って、電話を切った後、今度は内線で庶務に連絡。すぐさま持ってこられたのは茶封筒。長4じゃなく角4。厚みは一センチ以上。
それを上着の、内ポケットに入れて、コートを羽織って。
「涼介が気付いたら家に帰っていろ。お母さんには話すなよ。あと、涼介を責めるな。一言半句もだ」
専用の洗面所のドアあけっぱなしで、凛々しく髪なんか梳かしつける、親父はこーやってみてるといい男だ。早口で指示を次々に出すところあんたに似てる。レッドサンズ時代のあんた、こんな風だった。
「失神する前、わたしに二度も謝った。短い電話の間にだ。自分が悪かったとこれ以上、思わせるな」
「分かった」
「なぜタクシーを使わなかったかとか、これからは用心しろとか、そういうこともだぞ」
「分かったよ」
「よし」
鏡の前で息を吐いて、戦闘開始、ってカンジで。
「行ってらっしゃい。気ぃつけて、な」
俺が見送ると頷いて、親父は出陣していった。ほんとに背中は、そんな感じだった。足音が消えて、さらに暫くしてから、俺は。
「……大丈夫?」
彼を押さえつけていた掌から力を抜く。
「酷い目にあったね。……痛いトコ、ない?」
手当ては親父が、既にしていた。抗生剤を嚥下させて、食事を今夜、摂れないかもしれないからって点滴。身体の傷は大したことないらしくって、それでいいけど、問題は。
「大丈夫だった?」
身動きしない人を背中から抱き締めて、胸の上で腕を交差、させる。口をききたくないんならムリしなくてもいい。でもこれだけは、聞いて。
「……忘れなよ」
俺はあんたを傷つけた相手が憎いよ。現行犯で連行されてなきゃ、駆けつけた現場で俺がぶち殺しただろう。でも今はあんたの傷が怖い。痛みであんたが傷つくのか怖い。
「ナンにも、起こらなかった、よ」
催眠術、なんてものが本当にあるんなら、この人に忘れさせて欲しい。
「俺も……」
忘れると、言うつもりだった。けど途中で舌が強張る。嘘はつけなかった。俺は忘れないだろう。俺のダイジな人を傷つけた男のこと。カタをつけなきゃならない。どんなカタチになるかはまだ、分からないけど。
「俺も、ナンにも、知らないよ」
でも、あんたに対してはそうしておいていい。なかったことに、しておくよ。ちょっとでも早く忘れて欲しいから。ほら、この胸の中から、嫌なことは全部、零して棄てちまいな。
「……愛してる」
抱き締めて、頬を背中に擦りつけて、何度もそれを繰り返す、うちに。
「お父さんには、まいるな」
彼はやっと口を開いた。内容よりも、声を出してくれたことに安心して、俺はぎゅうっと、今度は抱くんじゃなくて、彼に縋りついた。
……傷つかないで、くれよ。
愛してるから、頼むから。
「十五や六の女の子じゃあるまいし……。過保護だ……」
警察の知りあいに話をしに行ったこと言ってんの?
「嫁入り前の娘でもあるまいし、こんな三十男が、なにされたって、たいした……」
彼の、口を俺は塞いだ。咄嗟に、唇で塞いだ。それが彼の詐術ってことは分かってる。自分は男だから大したことじゃないって、そんな風に自分に言い聞かせて、痛みを誤魔化そうと、してる。
頭のいいやり方なのかもしれない。親父や警察に同情を示されたとき、『大したことじゃないですよ』そう答えれば親父も警察も、加害者の家族もほっとするだろう。周囲のショックは癒されるけどそれじゃ、あんた自身の痛みはどーなんの。周囲を安心させるための、ウソなんかつかなくて、いいから。
そのまま、彼を抱いたまま、俺は。
……俺は。
「啓介」
彼の手が伸びてくる。そおっと、俺を抱き返す。俺はもたなかった。床に崩れ落ちる。
「啓介」
彼がソファベッドから降りて、床に座り込む俺のそばに、そっと寄り添って、くれて。
「泣くなよ。……大したことじゃない」
なんであんたが俺を慰めるの。なんであんたじゃなく俺が泣いてるんだろう。情けないよ。でも止まらない。
「ごめんな」
謝るな。あんたが悪いんじゃないんだから」
「……ごめん」
謝らないで。俺が勝手に、泣いてるだけなんだ。あんたは俺を罵れよ。言うこと、いくらでもあるだろ。オンナじゃないんだからめそめそすんなとか、自分がヤられた訳でもねぇのに痛がるな、とか。
「ごめん、な」
なんで謝るの。謝るべきは俺の方だろう。どー考えてもこれは俺のせいだ。俺がきっかけ、だよ。
あんたのこと抱きたがる男なんか、ガキの頃から、いっぱい居たろ。俺とつるんでた走り屋時代もあんたにそういう、視線を向けてんのは山ほど居た。なのにあんたに実害がなかったのはあんた自身の強硬と、なによりあんたが完全にノンケだったから。極上だけどあれは触れられないものだって、男たちには分かってた。だから美術館の展示物みたいに、共有の観賞で済んでた、のに。
いまさらあんたがこんな目にあったのは俺のせいだよ。俺が食いついた傷口から血の匂いがして、それが加害者をおびき寄せた。俺があんたを、痛めつけた、んだ。
「泣くなよ。これから気をつける」
なんであんたが、俺を慰める、の……ッ。
「大したことされてねぇって。ほんとに」
うそ、つき……。
「お前に比べりゃ、撫でられたみたいな、もんだ」
自分が痛いくせに、あんた、どーして……。
「泣くなって。……お前が泣いてると辛い」
床に座り込んで、彼があんまり、優しく撫でてくれたから。
かえって涙は、ますます止まらなく、なった。