砂礫の日々・2

 

 

 さすがに、シャツのボタンは一番上まで留められていた。

 ヒゲは剃られていなかった。

 通常なら咎められる無礼も、相手が医者、それも夜勤明けの病院から未明に直行させたという事情が考慮されたのか、何事もなく招き入れられる。大総統府の最奥。

「肩を外してね。はめなおしたのだが、痛がる」

 隻眼の男は軍国主義国家のこの国では実質的な国王。身の上に相応しい豪奢な寝台で織りの細かい夜着を纏って医師を迎えた。妻と養子は別棟にでも暮らしているのか、調度品を整えたそこはホテルの一室のように整い過ぎていて、家庭の気配はしない。

「はめなおした時に痛めたかもしれない。最中に暴れられて手元が狂った。そのせいだと思うが」

 どうだろう、という風に男は半身をひねって隣に寝せた患者を医師に見せた。患者は静かにしていたが裸の背中にはぎゅっと力が入っていて、痛みに耐えている事を医師に知らせる。

 医師は歩み寄り前触れなく白い肩に触れた。ぐぎ、っと、関節が鳴って患者は悶絶に近い声を漏らす。構わず背中にのりあげて肘を掴み、背後にひねり上げるようにして思い切り引いた。

「……、ぐ……ッ」

 可動性を確かめるべく二三度揺らしてから、医者は患者の肘を手放す。シーツにばったり、うつ伏せに倒れる患者は息を乱していたが、全身の強張りはほぐれた。

「見事な腕だ」

 閣下の賞賛に会釈を返して、そのまま部屋を出て行こうとしたが。

「まちたまえ。ものはついでだ。麻酔を打ってもらおう」

 しなやかな黒髪を撫でながら隻眼の男は、うつぶせた背中に覆い被さるように位置を変えた。体重をかけないよう肘をつき、しかし、シーツの上から腰に跨って逃げられないようにしている。

「痛みを感じずいい気持ちになるものを軽く。息がとまらない程度に」

「必要があるとは思えません」

 医師の、言葉は丁寧だが口調は冷たく、投げつけるようだった。

「腱を少々いためているかもしれませんが、二三日、安静にしていれば治癒するでしょう」

「予防措置だよ。これ以上暴れられると、腕を引き抜いてしまうかもしれない」

 痛めた肩に顔を埋めて愛しげに目を細めながら、口ひげの唇は脅し文句を囁く。

「いま実際に、そんな気分なのだ」

 静かな口調が剣呑で、かえって脅しでないことを医者に悟らせた。退室しかけていた足を戻し、鞄の中から適当なアンプルを折って注射器で半量だけ吸って。

「仰向けにさせてください」

「こうかね」

 声を出さずにうつ伏せだった、患者の姿が晒される。裸の肢体は女のように柔らかくはないが、疲れた様子と乱れた前髪、そしてきめの細かそうな肌がひどく艶に見える。

 医師の指示を待たず隻眼の男は痛めていない方の腕を掴み、肘の内側を圧迫して静脈を浮き出させた。

「い……、やです……」

 医師の目線を避けるように俯いて、いかにも乱暴されかけました、という様子の患者は声を漏らす。

「クスリは、嫌です」

 緊張しているが怯えてはいない、腹の据わった声。未遂らしいと、経験豊富な医師には察しがついた。砂漠の戦場で英雄と呼ばれるほどの功績を上げた若い軍人が、どうしてこんな時刻にこんな場所で、国家権力者に組み敷かれているかは分からなかったが。

「諦めたまえ。君が暴れるからだ」

「どうして大人しくできるでしょう。いきなりこんなことをされて」

「わたしは待ったよ。もう何年も、君が独りになるのを」

「空家になったからって敷金もなく押しかけられては腹も立ちます」

 噛み付くような口調の放言が偉い男の何処かを納得させて、

「……ふむ」

 患者の肘を押さえ込む手を緩ませた。

「そうかもしれないな。しかしもうわたしは盛り上がった。契約はあとまわしにして、抱かせてくれないかね」

「そんな無茶苦茶な真似はごめんです」

「なぁ、ロイ・マスタング君、知っているか」

「……、や……ッ」

「不法占拠でも経年によっては居住権が発生するのだよ」

「いやだ、ィ……っ、ひぅ……ッ」

 シーツが捲くられ、その下で何が行われているかは、見えなくとも分かる。

 喉を仰け反らせ、目をぎゅっと閉じて蹂躙に耐えている表情が憐れだった。歳は成人しているし経験は豊富そうだが、それでも、意思に沿わない無理やりの性交は痛い。

「何をして、いる」

 隻眼の男が片目で笑いながら医師に告げる。さすがに男の息も荒い。

「打ちたまえ、それを」

 繋げられて再度、押さえつけられた肘の内側に針が差し込まれて。

「……、クター、ドク……」

 口惜しさや腹立ちより、悲しみに潤んだ瞳が医師を捉えた。

「バルビツールだ。用量の半分」

 言わなくてもいい言葉が口をついて出たのは、ワケアリの相手だったから。濡れた目は戦場でも見た事がないくらい一途に切なく、助けてくれと、訴えていたが。

「すぐ楽になる」

 そうできる場面でも立場でもなかった。

 潤んだ目は絶望して、あきらめ、静かに閉じられて、やがて。

「塩化、カリウム……、コロシ……」

 雫をこぼしながら、針を抜く医者が内心、どきっとするようなことを口走る。

「クスリに頼る必要はない。私が殺してあげよう、何度でも」

 抱いている男が患者の背中に腕を廻す。即効性で、弛緩と鎮静の効果をもたらす薬剤に支配され、患者は大人しくしていたが悲しそうなのはおさまらない。

「愛している。君に悪いようには、しない」

 力の抜けたカラダにしなやかに添われると男は弱い。牙と詰めを隠して優しい声を出しながら撫でて、支配するための律動も、やわらかく、そっと。

「……、た、すけ……」

 医師は手早く鞄を片付けて部屋を出ようとした。

「いい子だ。どうして欲しい」

 隻眼の男は楽にしてくれと告げられていると解釈したらしく、肩を引き寄せ、あやす仕草をする。

「て……、たすけ……」

 自分に向かって告げられたのだという、男『たち』の自惚れを冷やす、言葉が。

「……ヒューズ……」

 扉を閉められる寸前の寝室に。

 囁き声だったのに、部屋中に反響した。