さようならではなくて・1

 

 

 

 

 分厚い扉だが、外の音声は集音マイクを通して明瞭に伝わってきた。物音だけでなく気配でも激しい戦闘の様子は感じられた。全身が総毛立ちそうな感覚とともに心臓が血液を大量に循環させ始める。その高揚を押さえ込み、椅子に座ったままで居ることには努力が必要だった。

 やがて物音は収まる。勝負がついたらしい。鉄板入りの樫の扉を押し開けたのは予想していた方の男だった。

艶な目尻とやや厚めの唇、そして興奮して薄く浮かぶ顔の火傷が素晴らしく扇情的なヴァリアーのボス。

「退け」

 男はそこに座る人物を見て顔を顰めた。ボンゴレ九代目の寝室の控えの間に雲雀恭弥が座っていると言うのはつまり、十代目である沢田綱吉の指示。小癪なと思ったのだろう。襲撃を予想されていたことも気に触ったのだろう。

「お前に手は出したくねぇ。退け」

 顎先で外を示される。その態度にヒバリは少しだけ笑う。以前にも似たようなことがあった。以前は座ったままの男にヒバリが挑発をしかけたが、今回は。

「退けないよ」

 ヒバリ自身が座ったまま、男に静かに、そう告げる。

「中に居る人を襲ってどうするの。それでどうなるワケでもないだろう」

「退け。オンナに手は出したくねぇ」

 雲の守護者である雲雀恭弥が、同時にボンゴレ十代目・沢田綱吉の『恋人』であることは身近な人間には周知の事実。十回に一回はイヤイヤながら夕食の招待を受ける都度、主賓であるザンザスの椅子を引くから。ボスの『妻』がそんな風に応接することは来客に対する最高の待遇。

「退かない。キミは間違ってる」

 立ち上がりたい衝動を雲雀恭弥は必死に押さえていた。立ち上がりたいのだ本当は今すぐ。そうして退くのではなくこの目の前の男と相対したい。闘いたい。沢田家光を倒したばかりの極上の獲物は準備運動を終えて興奮してほんの少し上気している。実に美味そう、喰いごろの気配が鼻先を叩くけれど。

「悪いのは中の人じゃなくてキミだ」

 肘掛に腕を置いたまま、背もたれに身体を深くもたれさせながら、雲雀恭弥は言った。そうして目を閉じる。これ以上、姿を見ていたら男の喉に喰らいつきたい衝動を、抑えられなくなってしまいそうだった。

「キミが悪いんだよ、ザンザス」

 話しかけられる男が眉根をキツク寄せる。敵対行動を見せないオンナに攻撃を仕掛けることを出来かねている男らしさにヒバリがそっと口元を緩めた。自分のオトコである沢田綱吉より、こっちの方がカワイイところがあるなぁと心の中で思う。正統派のマフィア、強者としての自負心が自制になっていて、女子供には危害を加えようとしない。

「キミの銀色とボクは似たような立場だけど、ボクには一度も、誰も危害を加えようとしない。何故だと思う?」

 目を閉じたままで尋ねる。男の気配が怯んだのが見なくても分かった。動揺している。可哀想なくらい。その正直さはいっそ可憐なほどでひどく可愛らしい。あの銀色が尽くしていた筈だと、瞼の裏でそんなことを思う。

「てめぇのイロが、オレほど舐められてねぇからだろ」

「違うよ」

 強い、確固とした口調での断言。

「違う。それはキミの逃げだ」

 切れ長の目を開く。現れる眼球の色は違うが、流し目の色香に睫が深い翳を落とす様子は少し、銀色の別のオンナに似ていないでもない。

「沢田綱吉を愛している人たちがボクに危害を加えようとしないのは知っているからだ。ボクが居なくなればあいつが生きていけやしないことを。ボクを始末するっていうことはね、あいつを殺すのと同じことなんだ」

 自信満々に堂々と言い放たれる台詞は高慢だが嘘ではない。少年の頃からの熱愛は皆に知られている。冷たくされればしょんぼり、笑いかけられれば浮かれ騒ぎ、雲雀恭弥の機嫌はボンゴレ十代目の私生活を、実に分かりやすく支配している。

「キミはどうして知らせていなかったの。あんな人にあんなに優しくされていたのに粗末にして。『誰か』がキミの為にあの人を始末しようとしたのは、キミが大切にしていなかったせいだよ」

 美しい銀色のことを、この男が幸福になる為の障害だと思っていた『誰か』の指示によって、銀色は加害されてしまった。

「キミが悪い。キミさえちゃんとしていれば、そんな誤解は受けなかった筈だ」

「……」

「帰りなよ」

 真っ直ぐに男を見つめる雲雀恭弥の目線には愛情があった。目の前で揺れる男は本当に可愛らしい。可哀想なくらい顔色を蒼白にして、ヒバリの指摘に動揺しきっている。

「仇討ちなんか要らないよ。そんなことされても少しも嬉しくない。敵の首なんか供えられたって邪魔になるだけだ。好きなものしか欲しくないから。オンナは」

 自分も同種、似たような立場。その権利でもってそんな口を利いた。強面で知られたヴァリアーのザンザスを舌先三寸で揺らすのは、一対一で打ち倒して喉に喰らいつくことと同じくらいの快感があった。痺れるほどに甘い。

「こんなところに逃げ込んで気持ちを誤魔化している暇はキミにはないんじゃないの。それよりも早く帰って抱きしめてあげた方がいいんじゃない。ボクならそっちが絶対に嬉しいな。欲しいのは好きなモノだけだ」

 同じ言葉をヒバリは繰り返した。男の耳に、よく染みる様に。

「意識がなくても分かるかもしれないじゃない。早く帰って、息してるうちに、言っておかなきゃいけないことがキミにはあるんじゃないの?」

 雲雀恭弥の口説は厳しい。でも優しかった。

「あの人が欲しいのはキミだけだと思うよ」