さようならではなくて・12

 

 

 寝付けないまま、男は腕の中のカラダをそっと、抱きしめる。

 ペアガラスで囲まれたバルコニーにはふかふかの絨毯が敷かれ、大きなクッションが幾つも置かれている。それらに身体を預けて横たわり、カシミアの毛布と羽毛布団を重ねた下で銀色は眠っている。

 睫の色までプラチナブロンドなのを改めて見つめながら、男はその瞼に唇を押し付けた。銀色が正気だった頃にはしたことのない真似だった。多分あの頃から、今この時と同じくらい愛していたのだけれど、大切にしていなかった。そのせいで、これの『中身』を失ってしまった。

 後悔している。心から。今でも時々夢を見る。出て行こうとするバカを捕らえてオレから自由になんざ一生なれないんだぞと囁く夢。キャバッローネの本拠地に乗り込む夢。街中で真っ赤なスポーツカーに車をぶつける夢。どれか一つを実現していれば、こんな事態にはならなかった筈だ。

 銀色のうなじに男の指先が触れた。興奮している男の指は熱かったらしい。銀色が眠りながらむずかって肩を竦める。掌を頭に移動して宥めるように撫でると安心したのか、肩から力を抜いた。安らかな寝息が聞こえはじめる。

「……」

 後悔している。だから形見の抜け殻だけでも、大切に抱いてきた。これが壊れてしまってからは、この銀色がくれ続けた愛情を思い出しながら生きている。

男の人生は過酷だった。ろくでもない事ばかりだったこれまでの時間の中、ほんの少しでも柔らかさや優しさの要素がある場面にはいつもこの銀色が居た。愛されていた。

 なのに何も報いずに逝かせた。可哀想にと心から思った。だから、これがあんなに嫌がっていた結婚をやめた。これの安息と引き換えに沢田綱吉に膝を折ることもしたし、軍門に下ったと悪口されても否定はしなかった。

やってみれば、ソレはなんでもないことだった。他人の評価を気に留める性質ではない。最初からそんなものは耳に入って来ない。だから心に響かない。一族からの義絶も養子縁組の解消も、なんということはなかった。ボンゴレの血にはちっくに拒まれて、男は既に、何もかも諦めていた。

 こんなになんでもないことだ。なのにどうして起きているうちにしてやれなかったのかと、男は心から悔いている。聞こえなくなってから愛を告げたところで伝わらないことは分かっている。分かっているのに何とかならないかと、奇跡を祈る気持ちで生きている。

それは殆ど信仰。昔の銀色がこの男の復活を信じていたのと同じくらいの。絶望を受け入れきれない人間が切なく繋ぐ望みの糸。先端に何かが在ることは有り得ないけれど、糸を離したら気持ちが崩れてしまう。魂の救済を祈願する行為にも、似ている息苦しい、自分自身で紡ぎだす、『希望』。

「……ドカス」

 話しかける。返事はない。けれど男には聞こえた。昔の口調で、なんだぁ、と、答えるあの、声が。

 昼間の記憶が蘇る。くらくら、した。

 沢田綱吉からの誘惑は繰り返し、あった。対白蘭の戦いに勝利した暁には雨のマーレリングをあげる。アレには有り得なかった未来を現実にする力がある。キミの恋しい人を取り戻せるよ、と。

 そんな誘惑を男は信じていなかった。これっぽっちも、まともに聞いては居なかった。そんな奇跡は有り得ない。希望の糸を自分で紡いですがり付いているくせに、他人から差し出された救いには目ねくれない、頑ななところがこの男にはあった。

 好意や幸運を信じなくなったのは、過酷すぎる経験を重ねてきたせいで、本人の責任だけでもないけれど。

 男は沢田綱吉が差し出す希望を顧みなかった。パンドラの箱の最後に残っているよと指差されても目もくれないで居た。騙されてばかりいたから。

 なのに。

 フェイクのマーレリングを指に嵌められて、跳ね馬の大空の焔を注がれた銀色は確かに『戻った』。あれは本人だった。はっきりと、本人しか知らないはずのことを幾つも口にした。

 最後に無理して優しくしてくれた、と。

 至近距離で眺める、この唇が言った声を思い出す。たまらず唇を重ねた。眠っていた銀色が目覚める。息苦しさに腕の中で足掻く。力ずくで押さえ込もうとした男は、手ごたえの弱弱しさに眉を寄せ、腕を逆に緩めた。唇を離して顔を覗き込む。開いた瞳が不安そうに揺れている。

 男はため息を一つ。そして。

「眠れ」

 目を閉じろ、と、抱く腕の位置をなおしながら、告げる。

「もうしねぇから、眠れ」

 あの最後の夜。

 優しくした。したとも。らしくないほど無理をして。優しくなんて、ろくにされたことがなかった。だからどんなふうにしたらいいかよく分からなかった。だからとりあえず丁寧に抱いた。ヨガって泣き出すまで撫でてやった。腰を浮かせて膝を立てるまで待った。そういう『優しさ』しか思いつかなかった。

 一緒に眠らせてくれたと嬉しそうに言った。それは違う。逃がさないように手離さなかっただけだ。もう二度と出て行けないように服も着せずに、裸で腕の中に閉じ込めて眠った。離れられないように縛り付ける拘束だった。あの時に、カラダだけでなく言葉でも縛っておけばよかった。何処にも行くなと一言いえていれば、あの結末はなかったかもしれない。

 砒素はやっぱり苦しかったのか。分かっていて飲んだ、のか。

 そうだろう、とは思っていた。この銀色は鼻の利く性質で、主人の食事や飲み物の毒見役を長く務めてきた。砒素なんていうクラシックな毒の気配に気づかなかったはずはない。濃いエスプレッソのカップに混入れたものであっても。

「てめぇ、やっぱり……」

 分かっていて飲んだのなら、飲んだ理由は分かりきっている。

「オレだと思ってンのか」

 命を奪う毒を持って行かせた人間を自分だとこの銀色は思ったのだ。今も思って、悲しみながら一人で眠っている。

「言ったのは、そういう意味じゃねぇ」

 おやすみと確かに言った。最後の最後、本当の別れ際。

夜明け前にベッドを抜け出し、部屋を出て行く自分を追いかけてきた細い声。ザンザス、と名前を呼ばれた。振り向くとベッドから裸の銀色が起き上がってこっちを見ていた。薄闇の中で銀色の髪と瞳が光って見えるのがキレイだった。

 何かを確かに言いたそうだった。けれど急いでいた男は聞かずに告げた。眠っていろ、おやすみ、と。確かに言ったが、永遠にと付けた覚えはない。なのにどうしてそんな風に思った。

「てめぇを邪魔に、した覚えはねぇぞ……?」

 ウソではない。本当にない。邪険にしたことはあるがそれは誰に対してもで、分かっていてついて来たのではなかったか。捨てようとした覚えは一度もない。手離すなんて考えたこともなかった。

「あの時、オレはジジイの書斎に居た」

 ナニをしていたかというと、隠し金庫の扉を焼ききっていた。

「オマエがそんなにイヤなら止めて、逃げようとしてた」

 結婚を男は重要視していなかった。意思に反した試練を課されることに慣れきって感覚が麻痺していた。家督と財産狙いのメスをあてがわれた以上、務めを果たしてタネを孕ませればさっさと別居するつもりだった。ほんの数ヶ月で済むと思っていた。

 もちろん、お気に入りの情人を手離す気など欠片もなかった。この銀色が塞ぎこんでいた原因が自分の結婚だと気づかなかったのは確かに怠慢だった。けれど思いつかなかったのは、分かれるつもりが少しもなかったから。

「なんで、てめぇはそんなことを考えた」

 愛していた。なのに、自殺用の毒を与えられるなんてどうして考えた。愛し合えていなかったからか。自分の運転で助手席に乗せて街を車で流したことが一度もなかったからか。食卓の向かいに座らせたことがなかったせいか。

愛していた。けれど粗末にしていたせいか。

だとすると自業自得。誰を恨むことも出来ない。ボンゴレ十代目の霧の守護者のような自信を持たせてやることが出来なかったせい。

「てめぇが、居なくて、オレが生きて、いけると本気で、思っていやがったたのか」

 思っていたのだろう。何故思っていたのだろうか。自分が粗末にしていたせいだ。結局は何もかもがそこに収束する。ボクが居ないとだめなんだよと嘯いた雲雀恭弥の自惚れと自信に支えられた強さを、与えてやれなかったのは大切にしていなかったせい。

「……もっちょっと起きていやがれ……」

 フェイクのマーレリングの効果は短かった。驚愕し、硬直した男が我に返って、自分を押さえつけていた沢田綱吉の手を跳ね除け、銀色の肩を掴んで振り向かせたときにはもう、石は砕けて、銀色は居なくなっていた。

「ちょっとで……」

 よかったのに。

 沢田綱吉、あの童顔の悪魔が囁く誘惑を、男は本気にしていなかった。有り得ないと思っていた。けれどまざまざと証拠を見せられた。有り得ないことが有り得た事実を。

 でも、まさか。

 これか本当に戻ってくるとは思っていない。昔どおりのに自分の後ろで笑っているなんて有り得ない。愛し合って、やり直せるとは思えない。失くしたものは失くしてしまったのだ。艱難辛苦ばかりを味わってきたこの男は、そんな無謀な夢は見れなかった。 

ほんの少しでいい。

 伝えたいことがある。誤解されたまま、一人で眠りにつかれている今が辛い。やがて自分も目を瞑り行く先に、これが待っていないのだと思うと絶望を感じる。死ぬのが嫌になりそう。

「オレはコロシテねぇ」

 遠ざけようとしたことも始末しようとしたこともない。

「愛している」

 そこで少し、男は考え込む。何かが違う。違和感があった。確かにそれらも伝えたい。でももっと適切な言葉がある筈。

今度、もしもの、チャンスがあったなら。

「てめぇのモンだ、オレは」

 さようならではなくて、告白を。

「……ずっと」

 誓いの言葉を、永遠の。