さようならではなくて・3

 

 

 

 

 

 

 側近だった。腹心と言っていいかもしれないくらいの。少なくとも副官で、一番そばに置いていた。

 プライベートでは情婦。ガキの頃から好きなようにしてきた。恋人とか愛人とか、そんな立場を与えた事はなかったけれど、とにかく近くに置いていた。殆ど重なるくらい。

 なのにいきなり消えられて意味が分からなかった。居なくなった後で、あいつはどうしたと尋ねたら、皆に複雑な表情をされた。誰一人として明瞭な答えは寄越さなかった。ただ、ルッスーリアだけが。

「あの子はボスを、本当に好きだったから」

 それだけをぽつりと告げた。あとは自分で考えろということだと、解釈した男は暫く考え込んだ。あれが自分を愛していることくらいは言われなくとも分かっていたが、それが居なくなった原因だというのは思いがけなかった。

ならなんで消えるんだという不審。そうして、捜す手間という面倒をかけてやがってという不愉快。日が経つに連れて不機嫌になっていく自分を自覚した。目が覚めたのにあれがそばに居ないというのは、それだけで不自由だった。

やがてボンゴレ本部からヴァリアーに宛てて一通の封書が届き、銀色の行方は知れた。副官をキャバッローネに移籍させるという書類にサインをと、書かれた書類は燃やしてこの世から抹殺した。考えていた中で一番、面白くない『家出』先だった。いったいどういうつもりなんだと、男は、本当に不機嫌になった。

普通に考えればつまり、銀色の鮫が自分を棄てて出て行ったということになる。が、男にはそう思えなかった。出て行くならもっと前に、とぉに自分を見限っていた筈だ。何度も騙して、罵って、八つ当たりをして殴った。いわれない暴力に血を流しながら、いってぇなぁと文句を言いながらそれでも、銀色のオンナは男のそばから離れなかった。

なのに何故、今なのか。このタイミングには理由がある筈だと、そこまで考えて男はやっと、オカマのヒントを理解した。沢田綱吉のボンゴレ十代目就任を機に、男は結婚することになっていた。一族の令嬢と既に婚約を済ませ、挙式の日程も決まりかけている。それかとようやく、気がついた。

 気づいてみれば前兆が、そういえばないでもなかったと思い出す。居なくなる前、銀色は不安定だった。セックスの後で自分の部屋に帰りたがらなかった。神経質なところのある男は自分以外がベッドに居ると熟睡出来ない性質で、部屋に泊めてくれ隣で寝かせてくれよと願う銀色を、無造作に窓から放り出した。

 もとから頭はよくない情婦だったが、最近は聞き分けまで悪かった。仕事での遠出さえ渋って男に癇癪を起こさせた。オレってやっぱオマエの邪魔になってんのかぁと、尋ねられて面倒だったから返事をしなかったのは、そういえば姿を見なくなる前夜だっただろうか。

 邪魔になっていると思ったから出て行ったとしたら予想していた以上のバカだと、男はたいへん不愉快に思った。その不愉快さは、長い仲の情婦のバカさ加減を見誤った自分自身にも向いていた。けれどもさして深刻な自己嫌悪ではなかった。

 とり戻すつもりだった。面倒きわまりないが迎えに行ってやれば、どんなにバカでも邪魔ではないことが分かるだろう。沢田綱吉がボンゴレ十代目を継ぐ式典にはキャバッローネの跳ね馬もやって来る。バカも一緒に来るだろう。連れてこられる筈だ。そばから離せない価値のあるオンナだということを、男はよぉく知っていた。

 キャバッローネの跳ね馬が渡す訳はないとか、本人が戻りたがらないかもしれないとか、そんなことは少しも考えなかった。迎えに行って戻るぞと言ってやればついて来ることを疑いもしなかった。

 それは、自惚れではなかった。

 

 

『スクちゃん、帰ってきました』

 明日の式典に出席する前に、イヤイヤやってきたボンゴレの本邸。かつて自分の部屋だった一室に滞在させられている男は、まだ『客』である沢田綱吉を招いて夕食を摂っていた。老齢の九代目は明日に備えて休息をとるために、もう眠っていた。

 明日には主客が入れ替わる本邸で、そのメモをルッスーリアに示された男は笑った。この男には珍しいはっきりとした笑み。その場の人間が凍りつく。主に沢田綱吉と、そのお供の守護者たちが。

「オレの部屋に入れておけ」

 来客たちに会釈してそっとメモを差し出したルッスーリアに、男は声を調整することなく告げた。来客たちにも、ホステス役として男の隣に座っていた婚約者にもはっきりと聞こえた。

「……メシを食わせとけ」

 つけ加えられた言葉に沢田綱吉が目を見張る。男たちがそっと視線を交し合う。婚約者は顔色を変えたけれどコメントは発せずに事態を黙殺した。部屋に招いて、食事をさせておけという相手が、今夜抱くオンナへの待遇であることは明確だったから。

 日本支部からやってきた客たちにはそれが誰かと言うことまで分かっていた。ザンザスの結婚に伴って身辺から『遠ざけられた』銀色が、キャバッローネの跳ね馬のもとに居る事は皆が知っていた。跳ね馬が嬉しそうに連れ歩いているから。明日の式典にも当然、最重要ゲストの一人として招待されている跳ね馬が、ずっと好きだった銀色を自分の腹心としてボンゴレ側に『みせびらかす』べく、同行していることまで知っていた。

 その銀色がザンザスのもとへ来るというのはヤバイ事なんじゃないのかと、沢田綱吉一行は分かっていた。自室へ招いて明らかに今夜の相手をさせるつもりのザンザスの対応は、キャバッローネの跳ね馬を怒らせるのではないかと、全員が危惧した。けれど婚約者の前で以前の情婦と、スクアーロさんとナカナオリしたのかと、尋ねる無礼は、さすがの沢田綱吉も犯さなかった。

 やがて会食は終わって散会。玄関までの見送りを受けて乗り込んだ車の中、往路と違って運転席でなく助手席に座った山本がそっと靴を脱ぎ足の甲をなでる。ザンザスが笑ってからの発言に、そわそわ落ち着かなくなった途端にテーブルの下で獄寺に踏まれて赤く腫れた甲を。

 その足ではうまくギアを踏み込めないと、分かっていた獄寺は、だからさっさと運転席に座ったのだ。

「……」

 沢田綱吉はバックミラーを見ている。隣の雲雀恭弥も同様。小さなミラーの中にザンザスの姿は既にない。館の中へ戻ったのだろう。婚約者だけが玄関とり残され、その目の前に迎えの車がすっと横付けされる。

 情婦が戻って来た婚約者のもとから追い返される若い女は、今どんな気持ちだろう。愉快ではあるまい。そうして未来の夫の情婦にいい感情をもちはしないだろう。

「……罪作りだね」

 バックミラーの中をじっと眺めていた雲雀恭弥がぽつりと言った。公の場面以外で、ヒバリには沢田綱吉より先に口を開く権利がある。誰よりも大切にされている恋人。

 似たような『権利』をザンザスも銀色に与えていた。自分の代理のような口を利かれても基本的には黙っていた。黙認は愛情、妻に準じる立場だと、皆が思っていたのに。

「このまま二股かけるつもりなのかな、あの男」

「かも知れないね。ディーノさんが泣くね」

 一旦は身柄を引き受けたのに出て行かれてしまった兄貴分を、伏せた目尻が刃物の閃光のように艶なヒバリの隣で沢田綱吉が心配する。

「出来ると思っているのかな。あんなに正直で」

「え?」

 顔中を疑問形にして自分を見る沢田綱吉を無視して。

「笑った顔、可愛らしかったね」

 ヒバリが話しかけたのは運転席の獄寺。

「ああ、だなぁ」

「タバコ吸っていいよ?」

「おー、サンキュ」

 ボスのオンナは一番偉い。その許可が出て、助手席から山本が獄寺のシャツのポケットに手を伸ばす。運転で手が離せない獄寺に代わってタバコを咥え、火を点けてその口元へ差し出す。

「ん」

 短い息で礼を言ったことにして、獄寺は唇を開き、フィルターを挟んだ。こちらも公認、長い恋人同士で、そんな仕草はいまさら珍しくない。ないのに、一々、見せられて照れて赤くなって俯く沢田綱吉を、かわいいなぁと、ヒバリは思っている。

「強面が笑うのって、なんであんなに可愛らしいんだろうね」

 かわいい相手を苛めてみたくて、肉付きの薄い形のいい唇から、そんな言葉を吐いた。

「ひ、ヒバリさん?」

「だなぁ。女房帰って来たって知らせにあーゆーツラするヤローが、うまく手綱とってける筈はねぇのになぁ」

「そう。愛人と本妻を上手に操れるのは、ボクの隣に居るような性悪な男だけだ」

「え、ちょ、なに、それってオレのことですか?」

「ザンザスにはムリだとキミも、思うよね」

「思うぜ」

 ボンゴレで一・二を争う優秀な二人の評価が一致する。それは殆ど、確定的な未来。

「……スクアーロ、苦労するのな」

 ザンザスのもとに戻って、ヴァリアーに戻って、苦しい未来を選んだ師匠格の相手を山本が心配する。結婚式を数日後に控えた男に今夜は選ばれ抱きしめられたとしても、それは永遠ではない。夜が明ければ現実が迫ってくる。

「幸せで居て欲しーん、だけどな……」

「本気でそう思っているなら、戻って殴りこんで奪わなきゃ」

 後部座席で眠りかけていたヒバリが少し、からかう口調で言った。うん、と、山本は素直に頷く。

「分かってるのな。余計なことだってことは。俺がわかってっことスクアーロが分かってねーわきゃないし、それで戻って来たんだから色々、覚悟の上だってことは」

 剛直で鮮やかで凛々しく、そして雄々しいあの銀色は、健気なところがあるけれど愚かではない。危険を察する能力は高いのに、それでも戻って来たのは覚悟の上なのだろう。

「やっぱスクアーロ、ザンザスのことだけ好きなのかな……」

「分かりきってたことじゃない」

「……なのなー」