さようならではなくて・5

 

 

 

 

 

 

 愛したオンナの指のサイズを男は知らなかった。焔の波動を宿すリングの類は、属性のあう人間の指に嵌ればひとりでに吸い付いて伸縮する。

 婚約者に与えた十二カラットの婚約指輪さえ自分で選ばなかった男には世間知らずの面が確かにあった。せめて最後に与えようとしたものさえオンナにはあわず、痩せた指をすり抜けて石畳の床に落ちたことに、ひどい皮肉と悲しみを感じた。

「握ってろ。なくすなよ」

 屈んで、拾って、もう一度嵌めてやる。左手を軽く握りこませた。指輪は第二関節のあたりで止まる。いい子だと、男はオンナの頭をなでてやった。

 オンナは無反応。何をされてもよく分からないらしく、されるがままに大人しくしている。最後の名残に、男はオンナを引き寄せ抱きしめる。そうされてまた、指輪が落ちて、カツンと床に転がって固い音をたてた。

「……邪魔か?」

 本人の意思ではない。分かっていても拒まれたような気がして男は悲しい声を出す。もう拾おうとはしなかった。嫌がっているのなら繋ぐのはかわいそうだと思った。

 顎に手をかけて上向かせる。唇を重ねる。息苦しさを嫌って足掻く相手をそっと押さえつけて。同じようにしてセックスも数年前まではしていた。痩せた身体に事後の疲れが目立つようになってからは、楔で繋いで蹂躙することは止めたけれど、抱きしめてなでながら、男は昔の夢を繰り返し見ていた。

 それももう、終わる。

 唇を離した。そうして男は、ほんの少し怯んだ。腕の中のオンナがじっと自分を眺めていたから。つくりもののような銀灰色のキレイな眼球が、その表面に映る像に意味を汲み取らなくなってから久しい。

何かをじっと見ていることなど、あれ以来、殆どなかった。『目が合う』ということが一度もなかったのに。

「……ドカス?」

 男の唇から無意識に懐かしい愛称が零れる。それは本当に愛情のこもった呼び名だった。自分のものだという自己主張、そばに居ろ、という命令そのもののような。

「どうした?」

 別人のように優しい声で尋ねる。返事はない。意思と同時に声を失くしている。ただプラチナの表面がじっと自分を移しているのをそれ以上、見続けていられなくて、男は掌でオンナの目元を覆った。

「……」

 そのまま胸に、また引き寄せる。ひどく動揺している自分の姿が目に入らないほどの近距離で抱きしめる。心を決めた筈なのにまだ迷っている。魂の既に旅立った抜け殻でも、愛しいオンナの形見には違いない。懐かしい愛情を偲ぶよすが。

「目を閉じろ」

 未練を振り切って男が言った。

「先に眠ってろ。すぐ、行く」

 左手で抱き寄せ、右手を肘の下に入れて愛用の銃を取り出した。苦しませない為にはそれが一番いい。何が起こったかもわからないうちに一瞬で終わる。

「どうした?」

 腕の中でオンナが足掻く。応じて男が拘束を緩めてやる。逃がすつもりはなかったけれど、何かをしたいというのなら、最後にさせてやりたかった。

 嘘だ。

 本当は、逃げて欲しかった。

 オンナは逃げない。そんな意思はない。ただ屈んだ。屈んで、バルコニーの石畳に落ちて足元に転がっていた指輪を拾う。拾って、不思議そうに眺める。興味があるらしい。

「お前のものだ」

 ちょっとずつ回復しているんだぜ、と。

 ここの雨の守護者は言っていた。本当に少しずつだがその兆しは確かにないでもなかった。癒しの波動に包まれてほんの少しずつだけど確かに。

「持って行け」

 一緒に居た頃は何もやれなかった。何かをやろうとしたことさえなかった。男は吝嗇ではなく、どちらかといえばマフィアのボスの一員として部下に気前はいい方だ。でもこのオンナには何もやらなかった。やろうとしなかった。吝嗇ではない。自分自身だったから。

 座り込んだまま銀色の人形は拾った指輪を指に嵌めようとする。何かを思い出しているのだろうか。彼らにとってリングは装飾というより武器だった。懐かしいのかもしれない。けれど。

「それは違うんだ」

 武器ではないんだと、男は、しゃがみこんだ相手に合わせて自分も膝を折った。目線の位置をあわせて、そして。

「貸せ」

 手を出す。人形は素直に指からすぐに抜ける、彼にとっては不思議なリングを男に渡す。男はハンカチを取り足してそれを包んだ。そうして人形が着ているシャツの胸ポケットに入れる。

「来い」

 もう一度、引き寄せて。形のいい小さな頭を懐に抱いた。

「おやすみ」

 そう、言うのは二度目だった。長く一緒に居たけれど、そんな些細な優しさも与えていなかった。散々に繰り返したセックスの後は部屋から追い出した。基本的に独りで居たがる男の邪魔にならないよう、オンナは自主的に、ベッドから抜け出して居なくなった。

 一緒に眠らなかったから、そんな挨拶をしたことがなかった。

 撃鉄を起こす。苦しめないように選んできたごついリボルバーも、男の骨ばった掌の中では玩具のように見えた。腕の中の人形は大人しい。じっとしている。分かっていないからだ。

「……」

 覚悟を決めてきた筈だ。なのに引き金が重い。指が動かない。座り込んだ姿勢で抱き寄せられた不安定な姿勢が辛くなったのか、お人形が少し、男の肩に額を押し付けバランスをとろうとする。動いている。暖かい。まだ生きている。なのにどうして、よりにもよって、自分が殺さなければならないのか、と。

 男は思った。するのを、止めた。決めてきたことを放棄した。オンナだけを撃ち殺すことをやめて、耳の後ろから脳髄へ打ち抜こうとして押し付けていた銃口の位置を変える。薄い背中を抱きしめて、男はさらに屈んだ。抱いた体と心臓の位置を合わせたのだが、そうすると自然、跪くような姿勢になってしまう。

 ますます不安定な位置でホールドされ、バランスをとるために人形が男の肩に手を掛けた。男が笑う。嬉しそうに満足そうに。そんな笑顔を浮かべたのは久しぶり。

「目を閉じろ」

 そしてもう一度囁く。指はもう強張っていない。深く息を吐いた。満足だった。もっと早くこうしておけば良かったと思った。

 銀色の髪をなでる。介護の必要上、短く切ってうなじのあたりまでしかないそれを。

「また、伸ばせ」

 ひどく優しく男は言った。そして。

「おやすみ」

 また言った。一番優しく、そして嬉しそうに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 顔色は青を通り越して白い。

「銃を、渡して」

 差し出す指先まで緊張で白い。そのくせ震えていない掌に、男は悠々と持参の武器を載せた。ここはボンゴレ本邸の奥の一室。かつてボンゴレの御曹司の私室があった一角。そんな深部へ武器を持参で乗り込むことは本来、許されない振る舞い。

「一緒に死のうと、してたよね、今」

 ずしりと重い鋼鉄の塊を受け取った沢田綱吉ははっきりと非難する口調。糾弾といってもいい。ショックを受けて、相手を責めている。一緒に闘ってくれると思っていた男に消えてしまわれるところだった。

「オレを見捨てて楽になろうとしてたよねッ!」

 指弾の返答は相変わらず。

「ザンザス。こっちを向け。オレの目を見て答えろ。お前は今、オレを裏切ろうとしていたな?」

「うるせぇ」

 そんな一言。

 悪びれた様子もなく一番大きなソファに腰を下ろし、高々と脚を組む。沢田綱吉よりも更にショックを受けているらしい金髪のドン・キャバッローネが、部屋の隅で人形を抱きしめてぎらぎら睨んでくるのもきれいに無視して。

「譲るぞ」

 全身に火傷の痕のある男はそんなことを言った。

「え?」

「そいつとの同盟の質にするンなら譲る」

 別の男にぎゅっと抱きしめられた心中未遂の相手を取り元でそうともせずに。

「キャバッローネはあめぇ。死んだボスのオンナにも、オンナが死ぬまで、餌を分けてくれるだろうからな」

「……ボンゴレは?」

「生きたまま腹引き裂いて、腑分けした中身を売り飛ばす。湯気が出てる臓器は高値がつく」

「うん、まぁ、そういうトコロ、確かにあるね」

 君臨する勝者と踏みにじられる敗者とに二分されてしまうボンゴレの体質を、矯正しようとしてしきれないでいる沢田綱吉は事実を認めた。実際に自分も今、勝者として目の前の男に君臨しようとしている。

「質っていうか、まぁなんていうか、いったらいいのか、よく分かんないんだけど」

 殺されようとしていたオンナを抱きしめたまま、声も出ない様子のドン・キャバッローネに、沢田綱吉が歩み寄る。

「ディーノさん、これ」

 差し出したのは見慣れないリング。

「マーレリングです。フェイクだけど白蘭の能力が封じ込めてある。大空の焔で一時的に開放できます。どうぞ」

「……?」

「知りたいんでしょう?本当のことを」

 昔むかしの、出来事を。

「本人に、聞くのが一番でしょう?」

 なにを思っていたのかを。