さようならではなくて・6

 

 

 

その来訪者は、いつも温和で優しげで礼儀正しい。

「ヒバリさんに会いたいんです」

 雲雀恭弥が個人で築き上げた並盛財団より遥かに強大な組織の代表者。けれど権勢ずくで接触してきたことは一度もない。訪れる態度は『恋人』のものでさえなく、学生時代の後輩の態度と基本的に変わっていない。

「申し訳ありません。雲雀は誰にも会いたくないそうです」

 もと風紀副委員長の草壁が丁寧な言葉で面会の申し出を断る。悲しそうに、ボンゴレ十代目は視線を床に落とした。

「戦争が始まりそうなんです」

 強大な敵との。

「会いに来れるの、最後かもしれないんです。どうても会いたいですって、もう一度だけ、伝えてもらえませんか?」

 草壁は昔馴染みのボンゴレ十代目に好意を持っている。少年時代から雲雀恭弥に焦がれて慕って、惚れこんているという意味では仲間でさえあると思っている。

「わかりました」

 希望を容れて草壁は引き取った。何度も通された応接室で、出された極上のお茶が冷める頃、ピーッと、壁かけのインターコムが音をたてた。

「も、もしもしっ!」

 びく、っと、ソファから飛び上がった沢田綱吉が白い受話器を手にとった。声が裏返っている。

『ボクだけど』

「ひばり、さ……、ッ」

 確かに、その名の本人だった。

「生きて、たんだ……」

『もちろん。勝手に殺さないで』

 淡々とした口調は昔のまま。くらり、くらくら、沢田綱吉は目眩がしてその場にしゃがみ込む。賓客が通される応接室の上等な絨毯が、極上のスラックスの膝を包み込んだ。

「ひ、バリ……、ッ」

『負けるんじゃないよ。じゃあね』

 それだけ言って回線を切ろうとした相手を。

「まて、待って!」

 必死さだけで、沢田綱吉は止めた。常にマイペース、というよりも世界の『ペース』をつま先で従わせながら生きているような雲雀恭弥を、言葉で止めたのだから大したものだった。

「待ってヒバリさん。会いたい。ねぇ、勝てる保障がないんだ。死ぬかもしれないんだ。生き残る自信が今度はないんだ。もう一度だけ、あなたに会ってから死にたいんだ……ッ」

 見栄もプライドもかなぐり棄てた哀願。

「会いたい。……愛してる」

 涙声いのちがけの、告白の返事は。

『ボクも愛しているよ』

 ひどく軽々となされた。

『たぶんキミよりずっと愛してる。待っているから、勝って帰っておいで。死なないで』

「帰ってきたら、ナカナオリしてくれる……?」

『喧嘩をした覚えはないけど』

 確かにそうだ。喧嘩はしていない。ただ一方的に雲雀恭弥が沢田綱吉を避けているだけ。面会を拒み続けて、もう何年も過ぎた。

「オレのこと、嫌いになったんでしょ……?」

 きっかけは、はっきりとしている。前の戦争で雲雀恭弥はボンゴレの十代目ボスを庇って重傷を負った。以来、その美しい姿を世間にちつらりとも見せず、財団本部の奥から出てこない。死亡説さえ流れるほど徹底して外界との接触を絶っていた。

「オレが馬鹿なことをして、そのせいであなたが怪我をして、だから怒って、オレを嫌いになったんでしょう?」

『愛しているよ』

「ウソだ……ッ」

『どうしてボクが怒っているなんて思うんだい』

「オレのせいで、あなたが怪我をしたから……ッ」

『キミを心から愛している。キミに生きていて欲しかった。だから庇ったんだ。ボクが勝手にしたことだ。キミが気にする必要は少しもない』

「じゃあ、なんで……?」

『負けないで、生きて帰っておいで』

「そんなこと言うなら、なんで会ってくれないの……ッ」

『昔のボクの姿じゃないからさ』

 雲雀恭弥の淀みのない口調も響きの深い声音も、自分自身を客観視するクセも昔どおりだけど。

『見たらキミの愛情が褪めるから』

「……ヒバリさん」

『キミと愛し合って幸せだった。過去を上書き、してしまいたくないんだ』

「ヒバリ」

『ボクのことを忘れてもいいよ。自由になってもいいけれ

ど、あの愛情は、ボクにくれたままにしていて』

「……」

 受話器を握った男は目を閉じた。そうしてそっと、深呼吸。落ち着いてから、そっと口を開く。

「自分がナニを言っているかオマエ、分かって言ってるのか?」

 口調が乱暴にならない為に、努力が必要だった。

『ボクはまだ愛してる』

「オレを信じていないと言っているんだぜ」

『キミに愛してもらえる身の上じゃなくなったけど、ボクはまだキミを愛してる。だから会いたくない。君に愛する価値がもうないって、思われたくない』

「雲雀恭弥」

『なんだい、沢田綱吉』

「……許さない」

 静かに告げた、男が目を開く。オレンジ色に煌々と、光彩が禍々しく輝く。

「今から行く」

『来ないで』

「抱きしめて、キスしてセックスする」

『キスはムリだよ。この声は声帯の振動を顎骨に響かせて音にしているんだ』

「朝まで離さない」

『夢の中に行くから帰ってくれ』

「寝言はオレの腕の中で言って」

『夢の中では、キミによく会っているよ。夢なら、昔のままで会えるから』

「なぁ、ヒバリ」

『ボクがキミに何かを頼んだことが今まであったかい?いつでもキミのお願いを全部、ボクが叶えてきたじゃない』

「このままじゃ死ねないんだ」

『ボクの愛情と献身に免じてこの頼みだけ、頼むから叶えてくれ。会いたくない。帰って』

「あんなに一途に、尽くしてやったのに、お前はどうして、オレを信じない……ッ」

『昔のボクには、その価値があったさ』

 目尻が艶で、素晴らしく美しかった。

『もうなくなった。だから、会いたくない』

「許さない」

 オレンジ色の目をした男がそう告げた瞬間。

 応接室の明かりが消える。応接室だけではない。並盛財団の施設全体が真っ暗になった。非常ベルが鳴り響き、真っ赤な非常灯だけが屋内を照らす。

 回線も途切れた。ツーツーという音もしない受話器に名残にくちづけれて、男はそれを本体へ戻した。

 それから部屋を横切る。ドアに歩み寄る。勝手に出歩けないようロックされているドアを無造作に、蝶番を力ずくで押し曲げて廊下に出る。

「動かないで下さい」

「待ってください。あなたを奥へ行かせるための許可は出ていません」

 駆けつけてきた団員が身体を張って、男が奥へ進もうとするのを阻止した。

 が。

『その男の、前を遮るな』

 非常用の緊急放送の回線を使って、雲雀恭弥は部下たちに指示を出した。

『無駄死にをするな』

 団員たちが指示に応じて道をあけた。真っ赤に染まった絨毯を、踏みしめながら、男は奥へと歩いていく。胸に悲しみを抱いて。

「……本気でそんなこと言ってるのか?」

 聞こえない相手に、聞こえないとわかっていても、口にせずにはいられない抗議の言葉。

「オマエのことを守ろうとしてるオマエの部下を、オレが傷つけたりすると、本当に思ってるのか?」

 思っているのだろう。思われているのだ。あんなに愛し合ったのに少しも信じてくれていなかったのだ。

「そんなにオレを信じてくれてないのに、それでもオレを愛してると、正気でいってるのか?」

 非常ベルがうるさい。音に紛れて嘆きの言葉は、誰の耳にも聞こえはしなかった。

「オレはオマエに夢中だぜ、ヒバリ。未来永劫、何があったとしても」

 愛を、少しも信じてくれなくても。