さようならではなくて・7
寝てる相手が結婚する、って話を。
本人からじゃなく聞くのは最低な気分だった。
「ボンゴレ十代目の妻になれないのなら尼寺に行くと言っていたが、十一代目の母親でも同じことだろうと門外顧問に言われて気持ちを変えたらしい」
しかもそれを教えてくれたのは、一番イヤな相手で。
「そんな女と結婚してボスが幸せになれるとは思えん」
まだイヤミならマシだった。でもレヴィの台詞は淡々としていて、イヤミどころか、同情的にさえ聞こえた。
「そう思わないか」
同意を求められたが返事どころではなかった。いきなり聞かされた事実を受け入れることで気持ちは精一杯。じかに教えてくれなかった男を恨まないでいるのに努力が必要だった。
政略結婚は両家の子女の義務。この国で名門マフィアの幹部っていうのは中世の貴族と同じくらい、婚姻による血縁関係の維持が命運を左右する。
だから仕方がないことだ。ボンゴレの次のボスには日本人の血が濃くて、筋目のいい連中はそれに娘を嫁がせることに躊躇してる。気に成ったのはその女をオレの相手の花嫁に勧めたのが、宿敵だった沢田家光ってことだ。
毒の盃を廻したのか、ナマイキに育ってきた実の息子を既に見捨てて、次を狙ってやがるのか、ひどく気になった。でもオレに口出しをする権利はなかった。
結婚話は順調に進んだ。求婚者として女の家に出入りを許され、やがて婚約が成立して指輪が贈られた。バカみたいにデカいダイヤモンドを女の家に届けたのもレヴィだった。
「行って来る」
そのたびにイチイチ、オレに声を掛けやがるのがうぜぇ。行くなって俺が言うのを待ってるらしい様子が気に触った。結婚を止めろってオレに言いたいんだろう。オレにそんな力がありゃしねぇぐらい、分かってるだろうに。
長く寝てるけどそれだけ。内縁どころか愛人でさえなくて、究極のところはセックスしてるだけの部下。婚約しても結婚式の日取りが決まっても、ヤツがオレを引き寄せるペースは相変わらずだった。そうしてオレに、ナンにも言ってくれないのも昔から。
言われないのは関係ねぇからだ。オレには口を出す権利がない。ナンにも言われねぇかにらこっちもナンにも言えないまんまで、でも、だんだん、悲しくなってく、気分は止めようがなかった。
愛人どころか情婦でさえない。でもセックスをしているし、オレは相手を愛してる。惚れた相手のそばに居られの残り時間を考えるたびに悲しくなっていった。
言ってみようかな、って。
何度か思った。言われてねぇけど言うだけは言ってみようか。邪魔になんねーよーにすっからそばに置いてくれよ、って。なんならセックスは辞めてもいいから離れたくないんだ、って。結婚の前に身辺を整理するのはお決まりで、多分、オレもそうされるだろうってことは分かってたけど、でも。
ヤツの態度はオレの未練と反比例するみたいに冷たくなっていった。やっぱりオレはオマエの邪魔になってんのかって、尋ねたらすげぇ不愉快なツラをされた。うざかったらしい。そのまま婚約者のところに出かけてった。一緒にメシを喰いに行くんだと、知りたくもないのに運転手としてひったてられたレヴィがオレに、言い残して行った。
格好つけて物分り良く、身を引くべきなのは分かってた。自分で出て行くのを待たれてる。それは恩情かもしれない。切り捨てられる前に離れて行けって態度が、かなり露骨に、男の態度の端々に出ていた。
セックスなんざ、するんじゃなかったな、って。
思いながら、あいつの留守にポケットに財布だけ入れて『外出』する俺に、ルッスーリに気づいて追って来てくれた。街まで車を出してあげるわと申し出られて、素直に好意を受け取った。駅前までって、とりあえず頼む。その先に行くあてははなかった。十四の頃からヴァリアーが居場所で、他の世界ぱ殆ど知らずに過ごしてきた。
落ち着いたら連絡をちょうだいね、って。
車を降り礼を言う耳元に囁かれて頬にキスされた。目を閉じて受けた。唇の温かさになきそうになった。こいつと過ごしてきた時間は人生の半分以上になる。あいつが眠ってた八年間もずっとそばに居た。お袋って言うと怒られるだろうが、まぁそんなカンジの相手だ。家族みたいに思ってた。
こいつのことだけじゃない。
マフィアの仲間をファミリーって呼ぶのは伊達じゃねぇ。オレにとってはヴァリアーが『家』だった。仲間が家族だった。出て行くのは辛くって寂しい。ああ、あいつとセックス、したりするんじゃなかった。あいつのオンナでさえなけりゃ、ただの副官なら、あいつが結婚するからってそばから追い出されることはなかったのに。
いまさら思ってもどうしようもないことを、後悔しながら、あてもなく歩いていく。セックスなんか出来なくってもいいからそばに居たかった。さようならも言ってくれない薄情な酷い男のことを、オレはでも、人生賭けて、ずっと愛してた。
世界がぼやけていく。馬鹿馬鹿しいくらい悲しい。奥歯をぐっと噛み締めて歩いていく。ああでも、何処にも、行くあてはないんだ。
とりあえず駅に行って、適当な街に行って不動産屋へ行って、持ってきた偽の身分証を使って住まいを見つけることが、今のオレがしなきゃならないこと。頭では分かってるが気持ちがそれどころじゃなかった。どっかのホテルに入ろうと思った。そして涙が枯れるまで泣きつくそう。あいつに棄てられたんだって事態を気持ちが受け入れられるまでの時間が欲しかった。
「スクアーロ」
そんな気分の、背中にかけられた声。
「メシ、喰いに行かないか」
振り向かなかった。無視して歩いていく。背中の気配は歩調を速めてオレの隣に来た。平日の昼前、駅前に人気が少なくて、歩道を男二人が並んで歩いても、まともな世間の邪魔になることはなかった。
「美味いメシを喰いに行こうぜ」
昔馴染みの声は優しかった。ざくざくに傷ついたオレの気持ちにその優しさは残酷なくらい沁みた。それでも気力を振り絞って無視した。
「そんな気分じゃない、か?ならホテルの部屋にルームサービスでいい。話したいことがあるんだ。聞いてくれないか」
「……どうせ」
「うん?」
「ろくでもねぇ、んだろう」
話なんざ聞かなくても分かってる。このタイミングでこいつがオレの横に居る、それだけで十分。偶然なんかじゃねぇ。
「愛しているんだ。お前が欲しい」
言うな。
そんな台詞を聞きたいのはお前からじゃない。オレが愛してるのはお前じゃない。なのに今、言われると気持ちがぐらぐら、揺れちまうから言うな。オレが欲しいのはお前じゃない。でも好きな男からさよならも言って貰えずに廃棄されてぐちゃぐちゃな気分のところに、優しい声を、聞かせるんじゃねぇ。
「ずっとお前を好きだった。何度も諦めようと思ったけど、色んな相手と付き合ってみたけどやっぱり、自分に嘘はつけなかった。お前に恋しているんだ、オレはずっと。……大昔から、ガキの頃から、ずっと」
崩れる。
「今すぐ抱かせろとかは言わない。お前が落ち着くまで待つし、どうしてもイヤならセックス抜きでいい。とにかくそばに居たいんだ。姿を見ていたい」
聞こえてくる声が、他人の声なのか自分の叫びなのか分からなくなる。何も望まないからそばに居させてくれよって、声を枯らして男に訴えたかったのに、それさえ出来ずに追い払われた惨めさをもう一度、奥歯で噛み殺す。
「遠くに行かないでくれ」
隣から聞こえてくる台詞の語尾が喘ぐみたいに掠れた。真剣さを感じてオレは足を止めた。隣を向くと、男もとまって俺を見返した。いつものジーンズ姿じゃない。きちんとネクタイを締めたスーツ姿に、ぷっと、オレは思わず、噴出してしまった。
「……なんだ?」
笑った俺の反応が意外だったらしい。跳ね馬は戸惑った声で、でも不愉快そうじゃなく、オレが笑った意味を尋ねてくる。
「似合わなねぇなぁ、そーゆー格好」
嘘だった。
ボンゴレ本部を訪問する時さえ着込まない黒のスーツに白いシャツ、磨き上げられた革靴は二枚目の跳ね馬にひどく似合っていた。きらきらの金髪のサイドをすっきり切り落として前髪を後ろに流した髪型まで大人びて、ひどくいい男に見えた。
「ああ、うん。まぁ、それは分かってるけどな。一応、プロポーズには正装が礼儀かと思って」
「なに寝言いってやがる」
その寝言に縋りつく、痛い気持ちを癒される、今の自分がヤバイことは分かってた。聞くなと理性は警鐘を鳴らす。今はヤバイ。弱ってる。今この相手を優しくされちまったら自分がどうなるか、分かってない訳じゃなかった。
「結婚してくれよ」
酷い棄てられ方をしたばかりの身で、聞くにはあまりにも、柔らかくって暖かな言葉。
「俺はもう、自分を諦めた。お前を愛してる。他はどうしても愛せない。本気で欲しいのはお前だけだ。お前のそばに居られればそれだけでいい。他に望みは何一つ、ない」
「なぁ、跳ね馬」
「返事は保留で構わない。いますぐってのは、ムチャって分かってる。いつまでも待つぜ。どうせ俺は、お前しか愛せないんだからな」
「ひとつ、教えろ」
「なんでも」
「……誰の指図だ?」
このタイミングは偶然じゃねぇ。どっかから指示が出てる筈だ。あいつに棄てられてふらついてる俺を引き取れ、って。
「情報はもらった」
跳ね馬はとぼけなかった。
「誰から?」
「でもこの求愛は俺の意思だ」
「教えてくれよ、誰からか」
誰が、オレをこいつに引き取らせようとしてんのか。
「……言わせるな」
もちろん俺にも見当はついてた。
酷い男を、俺は心から憎んだ。