さようならではなくて・9
ザンザスはその日たいそう、不機嫌だった。
ボンゴレ十代目を数日後には明け渡す本邸に招いての夕食会で隣の席に座ったホステス役の婚約者が恐がるほど不機嫌だった。昼間に面白くないことがあったからだ。出て行ったオンナを街でみかけた。
現在、ボンゴレ本邸のあるこの街にはイタリア内外からマフィア関係者が集まっている。大洋を越えたアメリカからも、正統派のシチリア系は全てのがボスが参列する。そのために幾つもの高級ホテルが貸しきられている。
ボンゴレ十代目は未だにイタリアンマフィアの世界に馴染んでいるとは言いがたい。補佐役としてザンザスは不本意ながら、式典の打ち合わせや表敬訪問の為に駆り出されてしまった。舌打ちしながらも逆らえず、市街を移動することが多かった。
普段、ヴァリアーに引き篭っているザンザスにとっては相当の試練。眉間の眉は日々、深くなっていった。
そんな昼下がり、出て行ったオンナと車ですれ違えば機嫌も悪くなる。しかも別の男と一緒だった。運転していたその男の横で、助手席に座って眩しそうに髪をかき上げながら笑っていた。顔色は上々、機嫌もよさそうで、出てきた小洒落たレストランで美味いランチを飽食してきたことが知れた。
「おい」
ザンザスはボンゴレの公用車に乗っていた。運転していたルッスーリアに、追えと命令したつもりだった。分かっているだろうにルッスーリアは、あらごめんなさいと呟いてわき道に入った。いかにも道を間違えました、という風に。
「……」
逆らわれることに慣れていないザンサスは眉間に青筋を立てた。が、その聡明さが仇になってしまって、それ以上、重ねて言葉はかけなかった。
ルッスーリアの隣にはボンゴレ本邸に長年仕えていた執事が居た。九代目および門外顧問である沢田家光から指示を受けてザンザスの『補佐』という名の監視についている。ドン・キャバッローネ本人が運転する車を追って停めさせ、関係者の溢れる大通りでオンナを挟んでの立ち回りを、するわけにはいかないことはザンザスにも分かった。
分かってしまう聡明さが本人をひどくイラつかせる。ボンゴレから招待されたこの式典に愛人同伴で来ている男たちは多いが、それにしても自分から逃げたオンナを真昼間に連れ歩くとはどういうことだと、たいへん不愉快な気持ち。見せびらかされているのだ、分かっている。その目的も本当は、ザンザスには分かっていた。
既成事実にしようとしていやがる。
移籍を承認する書類にサインはしていない。けれどヴァリアーりスペルピ・スクアーロといえぱ十四で剣帝を倒した業界の有名人。それが新進ファミリーのボスであるドン・キャバッローネと仲睦まじくしていることは、イヤでも業界の噂になる。
自分の腹心を他所にやる気はなかった。時々、恐ろしいほどの馬鹿で死ぬほど手間取らせる面倒なヤツだがそれでも役に立たない事はない。隣に居ないここ半月ばかり、毎日が不自由極まりない。なのに笑っていた情婦に腹が立った。取り戻したら死ぬほど殴りつけてやろうと思った。
取り戻したら。
「……」
と、考えて、ザンザスはますます眉根を不愉快に寄せる。
真っ赤なスポーツカーの助手席で銀色のバカは上機嫌に笑っていた。運転していた跳ね馬もとろけそうに嬉しそうな表情、鼻歌気分でいるのは一瞥で分かった。仲のよさそうな若いカップルに見えた。その事実に気分が沈む、呼吸が苦しくなる自分を、聡明なザンザスは気づかないでいることは出来なかった。
嫉妬と憤怒の激情は以前、養父に裏切られたことを知った時に感じたものと似ていた。そうして不安と悲しみも確かに、かすかに、胸の中に在る。
迎えに行けば取り戻せると心から信じていたけれど。
本当にそうだろうか。金持ちの優しいハンサムにあれだけ人目を憚らずに愛されて、ご機嫌でいるバカが帰って来るだろうか。普通のオンナならどう考えても自分よりアッチをとると、理解してしまうザンザスは不幸な男だった。
並んで笑っていたことに、嫉妬と同時に衝撃を感じている。そんなことはしたことがなかった。いつでも背後に控えさせていた。車に乗るときも自分は一人で後部座席、銀色は助手席で、部下の身分を越えさせたことがなかった。
「……」
誤解して出て行ったのだと思っていた。あれが自分を棄てるはずがないと信じていた。けれど本当に見限られたのかもしれないと、ザンザスはソファに座り込みながら考える。そくそくとした寒気に似た悪寒が背中を這い登る。
自分でない男に笑いかけるオンナの美貌はそれほど衝撃的だった。久しくあんな、幸せそうな顔を見ていなかった。
見限られたのかもしれない。本気で乗り換えやがったのかもしれない。どう考えても自分よりあの跳ね馬の条件がいい。金力、権力、そんなものに動くオンナではなかったが、一度も隣に置いてやらなかった自分に比べて堂々と、助手席に乗せて街中で車を流す、跳ね馬の態度はオンナには嬉しいだろう。
失くすのかもしれない。
失ってしまったのかもしれない。
一人きりの部屋、シャワーも浴びずに苦しむ。
様子がおかしいことには気づいていたのにどうしたと、一度も尋ねてやらなかった自身の怠慢を、人知れず死ぬほど後悔した。
「おかえりー」
ボンゴレ本邸にボスともども滞在中のヴァリアー幹部たち。さすがに一人一室は与えられず、ルッスーリアは王子様と同室。外交や事務仕事には殆ど役に立たない、立つ気もまったくない王子先は終日、部屋の中でゴロゴロ、本を読んで過ごしている。
「ただいま」
ソファに転がったまま挨拶して、立ち上がる気配も見せなかった王子様は。
「スクちゃんに会ったわ」
オカマの格闘家にさらっとそう言われて。
「へぇ」
読みかけの本をテーブルに置いて起き上がった。外は夕暮れ、あなたもシャワーを浴びておきなさいとルッスーリアが優しく促す。もう二時間もすればボンゴレ十代目のそのお供たちを、玄関に揃ってお迎えしなくてはならない。
「センパイ、元気だった?」
出て行った美形を王子様は悪く思っていない。悪いどころかかわいそうにと心の中で痛ましく感じている。本人が望んでそうしたとは思えなかった。出て行かされたに決まっている。
彼らのボスとの間にどんな遣り取りがあったかは分からないけれど、姿を消す前の美形は憔悴しきって、本当に可哀想だった。
「跳ね馬と一緒だったわ」
「それは分かってるって」
「前より元気そうだったわよ」
ヴァリアーを出て行く前、数日間は殆ど口をきかず、悲しみに沈んで可哀想だったけれど。
「跳ね馬が運転する車の隣で、ちょっと笑っていたわ。お酒が入っていたのかも。一緒にランチをとった帰りだったみたい。後ろにお供の車も居たけれど、二人の車には二人きりで、仲よさそうだったわ」
「……ふーん」
聞かされた王子様の気持ちは複雑。
「大事にしてもらっているみたい。よかったわね」
「まー、センパイだからさぁ」
出て行って引き取られた先がキャバッローネであること、長年の想い人を手に入れた跳ね馬が浮かれ気分であちこちに、手を引かんばかりの勢いで連れ歩いている事は知っている。噂になっている。昨日は食事、今日は買い物、といった具合に。買い物が服や宝石ではなく、マニアゴ直送の刃物の数々だったのは、なかなか、らしいことだったが。
わざと噂になるよう、人目につくようにしているのだ、きっと。ボスの結婚前に、愛人とは手を切りましたという世間に向けたアピール。
「粗末に、できるヤツなんざボスぐらいなんじゃね?」
王子様の口調にはほんの少しだけ非難の色があった。痩せぎすのカラダにお人形のような顔立ち、ストレートのプラチナブロンドは少し廃頽的ではあるけれど、観賞物として素晴らしい価値があった。アレを身近に飾っておくのは楽しいし、箔になるだろう。一皮剥いた本人の気質は廃頽どころか粗雑なほど威勢がいいのだけれど。
「ボスがね、追いかけようとしたの」
ポットで紅茶を淹れながらさらりと告げられた言葉に。
「……あ?」
王子さまは顔を上げる。ナニソレ、と、目許は見えないけれど全身で疑問を訴える。
「なんで?」
「分からないけれど、ドマジだったわよ」
「追いかけろって?ボスが?」
「ええ、はっきり」
目線ではなく声にした。それはザンザスにとっては珍しいほどのはっきりとした意思表示だった。おい、という、たった一言であっても。
「邪魔が居たから、追えなかったけれど」
「なんで?」
「分からないわ。気が変わったのかしら」
「ボスがセンパイんこと追い出したんだよな?」
「追い出したのか、出て行くように仕向けたのかは分からないけれど」
そうして、それは追い出される本人のための慈悲でないことはなかったけれど。
結婚が決まったマフィアの若いボスの情婦が、いつまでもその身辺をうろついていれば婚約者の側からの排除対象になってしまう。あの腕利きをそうできるヒットマンが実際に居るかどうかは別にして、騒ぎになることは避けられない。
「とにかく、本当に本気だったわ」
ルッスーリアはスーツケースから着替えを取り出した。式典や結婚式を含んで半月ほどの滞在の為に、この洒落者は衣装の詰まったスーツケースを十以上、この部屋に持ち込んでいる。
「ボス、気が変わったのかな?やっぱセンパイの方がイイって気づいたのかな?」
「でも変わったにしてはタイミングが早いのよねぇ」
お釜の格闘家が首を捻る。彼らのボスの結婚がうまくいかないだろうこと、冷たく暇を出した情婦がやがて恋しくなるだろう事は、情事に馴れたルッスーリアには最初から分かっていた。けれどまだ彼らのボスは結婚さえしていない。
「頭がいいから、ボスは」
政略がらみの結婚相手より自分を真剣に愛してくれるオンナがいいと、早々と気づいたのかもしれない。
「取り戻そうとすっかな。跳ね馬と喧嘩すんのかな?」
わくわく、嬉しそうに王子様がソファから起き上がる。
「結婚すんのやめてくれる気になったのかな?」
「そうだといいのだけれど」
ボスの相手をヴァリアーの幹部たちは歓迎していない。長く情人を務めていた銀色の仲間に対する愛情もあったむけど、露骨に家督と財産狙いの一族の女を、ファミリーのママとして受け入れることは苦痛だった。あれをマダーマと恭しく呼んで跪くのはイヤだなと心から思っている。
「センパイのこと迎えに行くかなぁ。な、どー思う、ルッス?」
「行きそうな勢いだったわよ。迎えというより、奪い返しにね」
「あははーっ、ナンか、らしくねーっ」
オンナに対してそんな態度をとるなんて、彼らのボスとしては本当にらしくない。でも。
「ボスが行くなら王子も行くー。んでセンパイにナイフつきつけて、帰っておいでって言ってやるんだー」
「おやめなさいな。それはボスの役目よ」
そんなことを話しているうちに、本邸のシェフから本日の仕入れを勘案した最終のメニューがルッスーリアのもとへ届く。主客の好みを考えながらルッスーリアがメニューの細かい部分を修正する。
ジャポーネの坊やはお酒を飲まないから味付けはやや薄めに、パンの種類を増やしてバスケットに常備して。ボスは肉も魚も骨があると面倒くさがって食べないからシーフードのグリルは最初から殻を外していて、などなど。
やがて賓客の来訪。出迎え、案内を終えて一旦、幹部たちは自室へ戻った。会食が終わって見送りまでは暇がある。自分たちも食事を済ませて、お土産の用意をしなければならない。
ドアを開けた、その部屋に。
「……よぉ」
思いがけない人影を見つけて、オカマの格闘家と王子様はさすがに、驚いた。
「ごめん。帰ってきちまった」
ごめんと繰り返す銀色の細い姿。