『そのころ・1

 

 

 

 女とは張り合うものじゃない。下手に出ていい気持ちにさせておくに限る。結局それが男にも好都合なんだよ、と。

 色事に関して玄人はだしの弟が言った。聞いた時、兄は意味をうまく理解できなかった。警句を実感するだけの経験がなかったから。王様の閨に伺候する侍女たちは皆、緊張していることはあっても不機嫌ではなかった。女の方が『下手に出』るのが当たり前で、そんな関係しか知らなかった。

 兄には女を口説いた事が、そういえば一度もなかった。勿論、閨に侍る候補として王宮に送り込まれる侍女らは皆、子爵以上の父親か兄弟を持つ、若くて美しい処女ばかりで、自分が何に選ばれたのか、意味をよく分かっている。覚悟してきた女たちも、全員がそうされる訳ではなく。

 候補者は最初、私人のままでお目見えが行われる。女官長から王宮に遊びに来た○○様のお嬢様です、という紹介があって、国王が、当事は皇太子だったがともかく、権力者が頷けば本採用。それから食事の給仕や身の回りの世話を務めて言葉を交わし、互いの気性や相性が嫌ではないことを確認しあってから、ある夜、寝室のベッドの支度を命じられ、尋常に夜が明ければ愛妾の一人となり、専用の居室と使用人、給与の上乗せ、親元への通達、などが行われる。

 それが通常の段取りだが、若い権力者は時として段階を外すこともあった。

『幾つだ?』

お目見えの時、頷くだけではなく言葉をかけたことが過去に一度。

『殿下は、おいくつでいらっしゃいますの?』

問いにその娘は、怯まずハキハキと返事をした。地方出身の田舎娘だったが、すっきりした明るい顔立ちをしていて、よく光る瞳が真っ直ぐで、積極さが国王の気性にピン、と呼応した。

「十六」

 『結婚不成立』と裁定され引き離された正妻を取り戻した戦争より、四年前の出来事。心の中にはずっと正妻のことがあったが、それと今夜は夢の別の話。十代の少年にとっては。

「じゃあわたしの方がお姉さんね。十七です」

「なんだ。初めて俺より若いのが来たかと思ったのに」

「歳上はお気に召さないのですか?」

「そういう意味じゃない。名前は?」

「ローゼット・カントゥです。ロゼと呼んでいただけると嬉しいです」

「今日は遅くなるけど、待てるか」

「……はい」

 付き添いの父兄や女官長が口を挟む間もなく、トントン拍子に話は進んで、その夜が明けると同時に待遇が整えられる。順番は狂ったが、彼女はそれから四年間、若い皇太子、長じて国王の、お気に入りだった。若い権力者の愛妾は数人居て、その時々のローテーションだったが、コンスタントに招かれて閨に侍っていた。

 けれどもそれも、もう昔話。

 戦争が起こって終わって、『捕虜』とともに凱旋して以来、若い国王は一夜も、愛妾たちを寝室に招こうとはしなかった。もう二ヶ月近くになる。それは愛妾たちが妊娠していないことを確認するためには十分な期間だ。国王が戦争で留守にしていた時間を含めれば、半年に近い生殺しの後で。

 帰国の祝福さえさせてもらえなかった愛妾らのもとには、そっと、実家から手紙が届く。母親が会いたがっているから、親類の結婚式があるから、甥姪が誕生したから、理由は様々だが内容は等しい。一度、実家に戻ってこないか、という。

 遠まわしの勧告であることを、聡い彼女達は気付いた。庶子になるとはいえ王国の血統を孕むかもしれない役目が務まると、見込まれた女たちに愚か者は居ない。見切りの早い若い子はさっさと女官長に退職を申し出る。

国王の『結婚』の祝福、ついでに年金と一時金と、ちゃっかりした子は未来の花婿の世話まで、どうぞよろしくと口上を添えて。女官は彼女達の希望に基本的に添うことを約束した。一時金の支給元が国王でなく『帰国』した王妃の名であるこに、ッとした者もあっただろう。が、喧嘩にならないことを悟って頭を下げて受け取る。後で目録を引き千切ったかもしれないが、それでどうなるというものでもない。

内心はともかく宮中儀礼の進退に従って潔く、愛妾たちは次々と退場。戦勝の賠償金と戦利品で懐の豊かな国王から相場の三割増で、『職務』の報酬として金銭をもらえた事は、貰えないよりはよかった。年が明ければ王妃の戴冠式で、その前に王宮の景観はすっきりさせておかなければならない。

なのに一人だけは残った。一番のお気に入りだったロゼ。気に入られていた期間も長かったせいで宮廷内には支持者も人脈もあって、女官長もあからさまに出て行けとは言えず手をこまねいている。

王妃が別の建物に移されて、国王はそちらに通いつめて、それでも着替えの為には自室に帰って来る。その日の更衣掛はロゼだった。声をかけてもらえることを期待しながら心を込めて、弟の別邸に遊びに行っていた外出着を脱ぐのを手伝ったが。

「もしもし、俺。今から行っていい?」

 着替えが終わるなり、若い国王は内線電話を掛ける。愛妾には目もくれず言葉もかけないまま。

 王宮では、身分の低い者が高い者に声をかけることは許されない。

「まだそんな時間じゃねーだろ。いーもの届いてんだ見せてやるよ。名馬年鑑と五代血統表。あんたの国の馬も載ってるぜ。お気に入りだった母親の実家の馬って、名前なんてんだ?」

 机の上に置かれていた皮張りカラー写真つきの図録の索引を、ぱらぱら捲りながら尋ねる。

「あー、載ってる。へぇ、星三つついてる。有名な馬みたいだぜ。産駆がけっこう、うちの競馬場で走ってる。欲しいの居たら買ってやるから、見ろよ」

 その図録を見ろという意味は、見せてやるから行ってもいいだろう、ということ。

「風呂なんか後で入ればいいだろ」

 国王の声が高くなって、怒鳴り声になった。が、電話の向うで何か言われたらしい。いきなり意気消沈して。

「……。わかった。じゃあ一時間後。……、んー……」

 電話を切る。溜息をつく。椅子に座って時計を見て、それから図録を、パラパラ捲り出す。机の上の付箋を手にとりページに張りつけて、血統表と照らし合わせているのか、両方を開いて眺めては捲って。

 愛妾を兼ねた侍女は服を畳み終わり、静かに部屋を出た。

 ふかふかの絨毯に涙を落さないように必死で耐えながら。