政略結婚・8
夜中に目が醒めて、女はみじろいだ。
部屋は暗いが暖かい。壁面に通ったパイプを蒸気が走って、ふんわり優しい温度を保っている。女は夜着を羽織り、手探りで枕もとのランプを点ける。オレンジ色のぼんやりとした光が室内を、ぼんやり浮かび上がらせた。
ここは国王の寝室ではない。王妃とその子供のために用意された居室だ。王室の常として、夫婦であっても部屋は、というか住まいは、棟ごと別々に設けられる。それはプライバシー以前の問題で、万一のクーデターに備え、国王とその継承者が一度に殺害、若しくは身柄を拘束されることがないように。
戴冠式を控えて、王妃には正式な館が与えられた。規模はそれほど大きくはないが、尖塔と格子の窓のバランスが美しい、風通しと日当たりのいい館は、随分前からこの女のために用意されていた。国王が『王妃』を自室に縛りつけていたせいで長く無人だったが。
電話を取り上げると、すぐに御用掛に繋がる。王妃の私用を承るために二十四時間体制で待機しているメイドはワンコールで電話に出て、緊張した声でご用件は、と尋ねる。
「おつかれさま。夜中にすまなないが、なにか食べるものを」
「……俺もー」
「二人分、お願いする」
電話の向こうから承知の返事。受話器を置いた女はベッドの上で、もぞもぞ、不審な動きをする男の目を向ける。
「なにしているんだい?」
「ゴム、そのへんにないか」
「髪の?」
「えっちぃゴムは使わないだろ、俺ら」
軽い毛布の下で、シーツの上に膝をつき、不自由そうに男が上体を起こした。不自由な筈で、その手は前で、紐で繋がれている。幅広の帯での片結びは、輪になった方に歯を当て引き抜けばするりと解けるが、しかし。
「汗で張り付いてキショクわりぃんだよ」
若い男は解こうとせず不自由な手で枕をどけ毛布を捲り、シーツの下を探る。それでも見つからなくて舌打ち。式典で結う為に延ばしている金髪は純金の明るさで輝き、肩から背中全体に張り付いている。眺めている分には扇情的で魅力的だが、本人にしてみれば鬱陶しいのだろう。
「あぁ、くそっ」
見つからないらしい。声を荒げる男の様子を、女は落ち着いて眺めた。少し前までは、怒りが自分に向けられたものでないと分かっていても、この若い王様の感情にびくびくしていた。が。
今は落ち着いている。怖い手が結ばれ、拘束されているから。手首を結んだ男のことは怖くはなく、落ち着いてみれば背丈こそ伸びたけれどまだ若く、不安定なところもある青年。親しみというほどの気持ちはまだないが嫌悪は消えて、それに自分から近づくことも、出来た。
「あったよ」
ベッドからは死角になる床に落ちていた髪ゴムを拾い、男の肩に触れ、背中に広がった髪を束ねてやる。女が触れた途端、いらついた様子で暴れていた男はピタッと動きを止めた。髪を纏めてくれるのを、大人しく、いっそけなげなほど、主人の指示に忠実な番犬のように、じっとして動かない。
「夜食が届くまで寝たふりをしていてくれ。おかしなプレイを楽しんで居ると思われたら困る」
「おかしなプレイ楽しんでんじゃん」
髪を束ねてもらえた男は女のいうとおり、もう一度シーツに横たわった。結ばれた手首を毛布に突っ込んで隠す。視線はじっと、枕もとに座る女の横顔を見詰めている。オレンジのライトを受けた金色の瞳は光の屈折の加減で、蜂蜜色に、今にもとろけ出しそうに潤って見える。
「あんたにサド趣味があったなんて意外」
「それがどんな趣味なのかもしらないよ」
「俺を縛って面白い?」
「別に。……君が嫌ならやめればいい」
拘束はいつでも自身の意志で抜けだせる緩やかさだ。
「解いたらあんた、また口きいてくれなくなるんだろ?」
そう告げる表情が切なく見えるのは、たぶんライトの加減。
「寝返りうってもビクビクされるより、手ぇ縛られるてる方がマシだよ。便所行くのにも不自由したって」
「……」
「なに?」
「いや……。なんでもない」
「なんだよ、気になるだろ、言えよ」
「行きたいなら、手伝おうかと思って」
「どったんだよ。さっきからヤサシーじゃん」
男の口調はふざけていたが、瞳は泣き出しそうに嬉しそうだった。肩でシーツを這うようにして、横たわったままの姿勢で女ににじりより、背中に額を当てる。
そんな仕種が何かに似ていると、女は毛布を肩に引き上げてやりながら思う。なんだったか……?
「ウソだよ。便所はヘーキ。でも溺れそうで風呂入れない。後で一緒に入って」
「あぁ、馬だ」
「……は?」
思い出して思わず呟いた女の言葉に、男は不思議そうな顔を上げる。瞳を見開いて見上げる表情は意外なほど幼くて、女の気持ちをますます和ませた。
「むかし飼っていた馬に似てるんだ」
「俺?」
「そう。栗毛の、頭がいい子だった」
「ウマナミって意味?」
「違うよ」
「昔ってどのむかしだよ。故郷でか?あんたんトコも確か、王宮で動物飼っちゃいけないんじゃなかったか?」
「十代の頃は殆ど母方の親族の領地で暮らしたから」
その言葉にはたくさんの省略があった。継母が義弟を産んで、前妻腹の長女は半ばいびり出される形で王宮を出て、母親の実家に身を寄せていたのだ。王女様とは言い条、あまり恵まれた少女時代ではなかった。それは目の前の、この若い王様も同様。
「乗れるの、あんた」
「得意だよ」
「ホントかよ」
「本当だよ。証拠にほら、触ってごらん」
女が夜着の裾を持ち上げる。白いふくらはぎが見えて、男はびくっと、露骨に反応した。その反応が面白いと思うくらいには、女は余裕を感じ始めている。
「……、そうじゃなくて」
身体をずらして、足の付け根に顔を埋めようとする男の額を女の白い手がパチンと叩いた。いってぇ、と文句を言いつつ男は何処か嬉しそうに見える。
「なに。ドコ触れってのさ。何処でも舐めてやるぜ?」
「膝の内側。固くなっているだろう?ここで馬の胴を締め上げて乗るんだ」
「いいねぇ。俺もあんたに跨られてシメアゲられたいよ」
男はふざけつつ、女のそこに顔を寄せ頬で触れる。そしてびっくりして、すぐに顔を離した。本当に皮膚がそこだけ固くなっていて、女の言葉が嘘でない事を証明していた。
「……馬、好きなのか」
何度も膝は、掴んで披かせて肩に担いで、好き放題に全身を貪ってきたのに知らなかった。気付かなかったのは男の掌の方が女のその場所よりも固いからだ。
なんだかそれが、なにかの象徴のように思えて男は黙り込む。自分が固すぎて、女の柔らかな場所も固い部分も感じることが出来ずにいたのかもしれない、それで痛めつけていたのかと、らしくもなく、しおらしい反省。
「買ってやろうか」
「王宮内は動物飼育禁止だろう?」
迷い猫一匹だけは、毒見のためという名目でそっと、この新しい部屋でも飼い続けられているが。
「乗りたいんなら馬場作ってやる。いっそ郊外の牧場、買ってあんたの好きにしていいぜ」
王都の市街地ではさすがに見かけないが、少し田舎へ行けばこの国でも、馬車は重要な交通手段である。耕作や荷物の運搬を助ける労力としても貴重で、王都の郊外にも牧場はいくつもある。そちらは労役用の馬ではなく、主に競馬用の、サラブレッドたちを繁殖させているが。
「アルが詳しいぜ馬のことは。俺は恥ずかしいぐらい無趣味だけど、あいつレースに優勝カップ寄付してるぐらいだから」
「牝馬のレースだろう」
「あんたもだんだん分かってきたね」
くすくす、寄り添いながら一緒に笑う。
「年度代表馬でもなんでも買ってやる」
「君の口から、はずかしいなんていう言葉が出るとおかしいね」
「そーか?色々俺、いっぱいハズカシーぜ。一番はあれだ。自分の女房にこんなにほれてる男、世界中捜したって俺だけだろーな、って、思うと」
「どうしたんだ。今夜は口が動くね」
「手が動かないから」
やがてメイドの来訪を知らせるチャイムの音。
「伏せて」
「はーい」
素直に男は、シーツに再び、横たわる。
寝ているふりの薄目の隙間から、女の姿を、じっと追いながら。